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複眼単眼・マンザイブーム
FirstUPDATE2025.6.18
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 まずはちょっと、ここいらで翻ったことを書いていきます。

 漫才という<芸>が関西のものか関東のものか、これは非常に微妙です。
 当然のことながら、近代漫才(≒しゃべくり漫才)の中興の祖は横山エンタツ・花菱アチャコです。そして両名とも紛れもない関西出身者です。

 しかし、これは「複眼単眼・吉本」でも書いたように、横山エンタツは言葉こそ関西弁<めいた>ものとはいえ芸風そのものは完璧に東京ナイズドされており、戦後になって人気面で横山エンタツを追い抜いた相方の花菱アチャコも東京暮らしが長くなったせいか、いわゆる関西風のノリではなくなっていった。
 Page1で「大正テレビ寄席」について書きましたが、何故準キー局の毎日放送で打ち切られたか、それは「東京風の<芸>が関西では受け入れられなかった」からです。

 さらに言えば、では何故関西発信の「てなもんや三度笠」が東京でも受け入れられたか、それは演出の澤田隆治と脚本の香川登志緒は関西の笑芸とは違うモダニズム志向があり、とくに澤田隆治はエノケン映画を相当意識して演出していた。つまりこれまた「言葉こそ関西弁が飛び交うが、ノリは東京風」の番組だったからです。
 いやこれは例を挙げていくとキリがなく、「てなもんや三度笠」の主演者である藤田まことは関西弁話者でこそあったものの本来の言葉は東京弁で、大阪出身の森繁久彌がやった作品によって巧みに言葉を使い分け、関西弁で演じる時もどこか東京の人、というムードを藤田まことも漂わせていた。
 要するにです。
 少なくとも1960年代いっぱいくらいまでは<笑い>において関東と関西で決定的な断絶があり、関西出身のアタシなどはリアルタイムで「大正テレビ寄席」に出ていた獅子てんや・瀬戸わんやなどを見たことがなかった。理由は簡単。関西で放送されていた演芸番組(例「お笑いネットワーク」など)にてんや・わんやなどの関東系芸人は出演していなかったから。(ただし厳密には瀬戸わんやは大阪出身)

 だから「オレたちひょうきん族」で片岡鶴太郎が盛んにやっていた「ピ、ピ、ピーヨコちゃんじゃアヒルじゃガーガー」というギャグも知らず、鶴太郎オリジナルのギャグだと思っていたくらいです。

 東京漫才中興の祖が誰か、となったら結構難しいのですが、吉本興業専属(ただし東京吉本)ではありますが、リーガル千太・万吉と香島ラッキー・御園セブンが候補に挙げられる。


 というか逆に「吉本興業専属」というところからしてエンタツ・アチャコの影響が明白で、しかし言葉は東京弁だった。とくにリーガル千太・万吉はもともと柳家金語楼の下にいた噺家で、<芸>の根幹は江戸落語です。つまり東京弁というよりは江戸弁に近かったことは残されたレコードを聴くだけでもわかります。

 もう一組のラッキー・セブンの方は某YouTubeに動画がないので説明しづらいのですが、1936年に制作された永田キング主演の「かっぽれ人生」にて漫才を披露する場面があり、こちらも千太・万吉とは違う形で東京漫才の礎になった感があります。

 つまり、漫才という<芸>は、芸人同志の交流はあったとは言え、東京と大阪でそれぞれ独自発展していった、と言える。たしかに<祖>はエンタツ・アチャコなのは同じだけど、エンタツ・アチャコ自体がすでに東京的でも大阪的でもあり、しかも<祖>からいきなり分岐が始まったので、極端に言えば東京も大阪も漫才の歴史にかんしては同等なんです。
 こうなると漫才の都は必ずしも大阪と言えなくなる。しかし現在では大阪は「漫才の本場」であり、東京はある種大阪漫才の対抗勢力扱いになってるわけでね。

 別にそのことに異を唱えたいわけではないし、漫才の歴史について語りたいわけでもない。でもね、こうした説明がないと「マンザイブーム」の起点となった「花王名人劇場」で放送された「激突!漫才新幹線」の意味がわからないと思ったのです。
 Wikipediaによれば

そもそもは、あらんどろん、B&B、ツービート、Wヤングの4組の漫才の激突という企画だった。1979年10月22日のプログラムに載っている同年12月5日の国立劇場演芸場の公演の予告には、「激突!漫才新幹線」のタイトルと共にあらんどろんら4組の名前が入っていた。
ところが1979年10月25日、Wヤングの中田治雄が熱海で自殺するという事態が起きてこの企画は潰れた。この4組の中で売りものになるのは当時Wヤングだけだった。あとの3組は既にテレビには出てはいたが、とてもゴールデンタイムに登場させる看板ではなく、企画の括りでトライさせてみようという目論見であった。やむなく1979年12月22日、改めて漫才企画としてやすしきよし、セント・ルイスの激突にB&Bを入れた構成で録画し、翌1980年1月20日にテレビ放送された。


 こうやって見ればこの企画の根幹にあったのは「関西の名人級の人気漫才コンビVS知名度は低いが日の出の勢いの関東の若手漫才コンビ」だったことがわかります。
 ここまで関西の漫才師と関東の漫才師はあまり交わらないものだった。もちろん正月特番の「爆笑!ヒットパレード」などでは同一の番組に出演することはありましたが、ただ同じ番組に出ていただけの話であり、まったく抜き差しならない状況ではなかった。
 それをこの番組でははっきりと「激突!」と謳った。完全な衝突を避けるためかベテランVS若手という構図にはなってるけど、おそらく芸能史上初めて漫才という<芸>でガチンコ対決を行なう、というM-1グランプリの礎が誕生したのです。

 関西の重鎮VS関東の若手、という構図は<漫才>が<マンザイ>と呼称され初めても継続されることになった。
 もちろん勢いのある関西の若手漫才師もこのブームに乗っかってきた。ザ・ぼんち、紳助・竜介、のりお・よしお、今いくよ・くるよ、サブロー・シローなどです。
 それでも関西の<核>はあくまでやすし・きよしだった。だから「THE MANZAI」などの漫才の特番が組まれてもトリは必ずやすきよだった。そしてやすきよは常にトリに相応しく、若手漫才師目的の観客をも爆笑させていたのです。

 やすきよはマンザイブームの中心的人物だったビートたけしや島田紳助などが出演した「オレたちひょうきん族」には出演していない。<核>であるのに、です。つまりマンザイブームにおいて<やすきよ>はどこまで行っても別格だった。というか別格として棚上げされた。年齢的にはそこまで極端に離れているわけではないのですが(横山やすし=1944年生まれ、ビートたけし=1947年生まれなのでたった3つしか違わない)、やすきよは神輿の上に祀り上げられ、祭りが終わり(マンザイブームが去り)、担ぎ手がいなくなると、やすきよのふたりはポツンと神輿の上に取り残された。

 それでもやすしは主演映画を撮ったり、久米宏とのコンビで「TVスクランブル」をやって好評だったり、いわばマンザイブーム後の良い余波はあったけど、きよしは何もなかった。ブーム前からやってる司会のポジションに戻るだけだった。
 これできよしが焦らないわけがない。一般には「横山やすしから逃げたいからがために選挙に打って出た」と言われていますが、それよりも「マンザイブームという日本中を巻き込むような中で天下を取ったにもかかわらず、結局自分には何も残らなかった」という徒労が大きかったのではないかと思うのです。
 きよしは野心家であり、間違いなく努力の人でもあった。そこにかんしてはやすしと共通している。そして念願叶ってテッペンを取れたのに、恩恵があったのは相方のやすしだけ、自分には何もない。もうこれ以上やすしと漫才をやっていても先がない、もっとセンセーショナルなことを仕掛けていかないと自分が潰れてしまう・・・。

 アタシが西川きよしという人の動向にこだわるのは、きよしを見れば「結局マンザイブームは後世に何も残らなかった」という証明になると思ったからです。
 漫才が一般的に定着したものになったか、というと、少なくとも1980年代の時点ではまったくなってないし、萩本欽一が指摘したような「<笑い>の感覚が変わる」というようなこともなかったと思う。
 じゃあ「オレたちひょうきん族」はどうなんだ、となるかもしれませんが、あそこまであの番組がスパークしたのは間違いなく明石家さんまのおかげであり、あのさんまの生っぽさがフジテレビのカラーともマッチして、あそこまでの番組になったと思っている。つかあの手のバラエティ番組って本当はビートたけしも島田紳助も向いておらず、明石家さんまの登場で一気に「パロディ全開の作り物感満載」から「アドリブ満載の即興劇」に変化したのは紛れもない事実です。


 当たり前だけど明石家さんまは漫才師ではない。かといって噺家でもないんだけど、出るべくして出た最初の<テレビ向きスタンダップコミック>で、関東では柳家三亀松、関西では西条凡児といった旧来のスタンダップコミックを徹底的にテレビ向きに、かつ現代的にした人だったんです。

 「ひょうきん族」で最初に名前が上がるのは番組立ち上げ当初にはあまり出演していなかった明石家さんまであり、今でもさんまといえばひょうきん族というイメージが強い。
 一方ビートたけしはラジオの「オールナイトニッポン」やそのテレビ版である「北野ファンクラブ」の方があきらかに「ビートたけし色」が濃く、つまり「ひょうきん族」自体がどちらにせよあまりたけし向きではなかった、ということです。

 では西川きよしは、というと、どちらにもまったく向いていない。「ひょうきん族」のような即興劇を売りにした番組も、「北野ファンクラブ」のような濃度と毒で攻めるような番組も向いてるわけがない。そうなってくると毒気のないバラエティ番組で司会をするしかなく、どちらかと言えば「横山やすしからの逃走」と云うよりは「<笑い>からの逃走」「テレビからの逃走」のように思えて仕方がないのです。

 だからね、もし萩本欽一の予言にあった<笑い>の感覚が変わったとするなら、その立役者は誰がなんと言おうと明石家さんまです。しかしその明石家さんま自身、落語そのものはしませんが<笑い>のベースになってるのは古典的な手法であり、ある意味斬新さはまったくない。
 となってくると、結局旧来の笑いを新しく染め直した程度になってしまうわけで、正直<笑い>の感覚が変わったとは到底言えない。
 もしビートたけしがその一端を握っていたとしても、ココでも書いたように「作り物、予定調和の<笑い>が不可能になってしまった」という悪影響の方が強く、ま、変わったっちゃ変わったんだけど、ただ狭めただけの話で、それとて萩本欽一がやったことのブラッシュアップ版と言えなくもない。

 そうこう考えると、マンザイブームに限らず、都合4回起こった漫才のブームは「たいして変革は起こらないわりには悪影響だけが残る」という、いわば、歓迎されざるものなのかもしれない。
 そして悪影響が薄まった頃になって再び漫才が息を吹き返す。その周期が25年なのではないか。
 直近の2005年のブームだってココでも書いたように「ド素人がマジメに漫才<論>を語り始める」というようなことが起こった。これも間違いなく悪影響です。
 結局はココに書いたように、上岡龍太郎の「ブームになるほどの人が登場した後は必ず悪影響も残る」というのが一番的確な指摘なのだと思う。んで悪影響が薄まったり中和されたりするのには、どうやっても四半世紀という長い年月が必要だ、ということなんじゃないか。

 このまま行けば次に漫才のブームが起こるのは2030年ですが、次はどんな悪影響が待ち受けているのか。
 アタシは所詮部外者なのでどうなろうが知ったこっちゃないけど、当事者たちはもっと戦々恐々としてもいいと思うのですがね。

「ブームの<しくみ>」を読み解こうとする行為は面白いことではあるのですが、それは書いてる側が面白いだけであって必ずしも読み手が面白がれるかと言われるとわからない。
ましてやその対象が<笑い>関係になってしまうと、それこそ本文でも書いたように「ド素人がマジメに漫才<論>を語り始める」というブーメランにもなってしまうという。
だから本当、あんまり気が進まなかったし、途中まで書いてそっからずっと放置してたんだけど、いろいろね、カタをつけてしまいたいと。なるべく早く<笑い>関係のエントリを片付けてしまいたいと。そんな理由で書いたというか。
あとやっぱ、一番大きいのは、どうにも「小林信彦の書くことは疑わしい」という気持ちで、秋野太作ほどクソミソにいう気はないけど、ま、話半分くらいに読めばいいんじゃないッスかね。




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