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複眼単眼・マンザイブーム
FirstUPDATE2025.6.18
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 もう、1980年前後に巻き起こったマンザイブームって、吉本興業が本格的に東京に進出するきっかけになったってことか、作家の小林信彦が繰り返し書いている「マンザイブームの後に世間の笑いの感覚が変わる、という萩本欽一による指摘」のどちらかの文脈でしか語られないのですよ。

 もちろんビートたけしが世間に知られたのはマンザイブームがきっかけだし、ただの色物芸、それも一般には「上方の笑芸」という扱いでしかなかった「漫才」を「マンザイ」と称して新しいモノとして扱ったってのは斬新だったのですが、実はマンザイブームって、その後の影響を考えるなら、ほとんど後世に残るものはなかったってレベルなんです。たしかに人材は排出したんだけど、個人的には全部「きっかけ」でしかない。つまり

・吉本が東京に進出する<きっかけ>
・ビートたけしや島田紳助などが世に出る<きっかけ>
・古い笑芸を化粧直しして新しく見せる<きっかけ>


 それはもう間違いないと思うのですが、では萩本欽一が言う「マンザイブームの後に世間の笑いの感覚が変わる」ということが本当にあったのか、具体的には何を指すのか、その辺がどうもはっきりしない。はっきりしないから<きっかけ>以上の影響を見て取れない。
 だからその辺のことを、もうちょっとだけちゃんと精査すれば、いったいマンザイブームとは何だったのかが明確になるのではないかと。
 もちろん歴史をいろいろと紐解きながら、んで現在の<笑い>の状況も冷静に見ながらやらなきゃいけないので大変なのですが、ま、やれる限りやってみようとね。

 マンザイ、ではなく<漫才>(もちろんマンザイを含む)のブームは過去に4回ほどありました。

・一回目 1935年前後
・二回目 1965年前後
・三回目 1980年前後
・四回目 2005年前後


 こうして見ていけば、ほぼ25年おきに(一回目と二回目の間は30年だけど太平洋戦争期間を省けばほぼ25年)ブームが起こっているのです。
 複数回ブームになった事象は、2018年くらいからブームになったタピオカのように他にもあります。ただしこれだけ定期的に、ほぼ等間隔でブームが訪れる事象は他にないと思う。
 しかも面白いのが世相ともあんまり関係ないことで、例えば「漫才がブームになった後には必ず景気が良くなる、もしくは悪くなる」みたいなのがあればいいんだけど、そういうのもまったくない。三回目を除いて「景気が悪くなる兆候」と言えなくもなさそうだけど、実際に景気が悪くなるまでのスパンもバラバラだし、やはり無理矢理な感じがします。

 つまり、とにかく、何だかわからないけど、漫才は25年毎にブームが来るのです。
 当然ブームとなるにはブームを支える人材が不可欠なのですが、どうも「ブームになるのは良い人材が出てきたからだ」とも言いづらい。
 漫才の場合、むしろ「ブームになったおかげで埋めれていた人材が発掘された」感が強いんです。
 三回目、つまりマンザイブームの時でいっても、ツービートなどは才能の片鱗を見せながら世に出るタイミングがなかなかなく、マンザイブームがあったからこそ知られた人だと思う。
 だから、無理矢理何かを見出してやろう、なんてすればするほどコジツケにしかならないと思うので、「25年周期でブームがくる」ことにたいして、すべて偶然だった、と言うことで話を終わらせたい。
 しかし、たしかに世間の潮流とは関係なくても、この25年=四半世紀ということに意味がないのか、その辺についても考えていきます。

 4回のブームの中で、わかりやすいのが一回目と四回目です。
 一回目は横山エンタツ・花菱アチャコ(と作家の秋田実)によって近代漫才が誕生し、そのスタイルを真似た芸人が出てきたことでブームが起きた。理由としては単純明快です。
 四回目は、説明不要かもしれませんが、もちろんM-1グランプリがきっかけです。
 M-1グランプリが始まったのは2001年ですが、回数を重ねることで大会の知名度も高くなり、また優勝者がテレビで活躍することで大会のスケールが大きくなってステータスが上がった。
 また若手漫才師たちに明確な目標が出来たのも大きかったと思うし、結果として切磋琢磨がより熾烈になり、あきらかにレベルも上がったはずです。

 問題は二回目です。
 これは相当わかりづらい。というか何が<きっかけ>だったのかさっぱりわからないのです。
 中心的役割を果たしたのが「大正テレビ寄席」(NET、1963年開始)ということはわかります。しかし日曜日の昼間、というゴールデンタイムではない時間での放送で、しかも当時もっとも場末の放送局だったNET(現・テレビ朝日)というのも弱い。

 とにかく、色物ブーム、トリオブームとも言われる二回目は純粋に漫才だけのブームだけでないのは明白ですが、「大正テレビ寄席」の司会だった牧伸二を主役に、同番組に出演していた色物芸人が大挙出演して東宝で映画(「落語野郎」シリーズ)まで作られているのだから「ブームは間違いなく存在した」のです。
 こうして見れば二回目はかなり変則なのですが、それでもこのブームをきっかけに、Wけんじ、コロムビア・トップ・ライト、内海桂子・内海好江、獅子てんや・瀬戸わんや、青空球児・好児、晴乃チック・タック、春日三球・照代、横山やすし・西川きよし、ナンセンストリオ、漫画トリオなどの漫才師が売れたのですから、やはり「漫才がブームになった」ことには変わりがない、と見做しました。

 もう少しだけ「大正テレビ寄席」のことを深堀りしてみます。
 実はこの番組、いわゆる全国ネットの番組ではないんですよ。そもそも先ほど書いたように当時のNETはキー局の中でも場末だったこともあってネット局も少なかった。
 そして何より、当時から笑芸の都と謳われた関西エリアで放送されていない。Wikipediaによれば短期間放送されたようですが、「大正テレビ寄席」の放送曜日が水曜日から日曜日に移ったタイミングで、NETのネット局である毎日放送はネットを打ち切っている。(余談だけど日曜の昼、「大正テレビ寄席」が放送されていた時間で毎日放送が放送していたのが偶然にも同じ大正製薬提供の「サモン日曜お笑い劇場」)

 つまり、何が言いたいかというと、「大正テレビ寄席」からの直接的な影響はきわめて限定的で、もし影響があったとするなら、この番組を「新笑芸人発掘のための番組」と捉えたテレビ局や映画会社のプロデューサーが自分たちの番組や映画に新戦力として起用したことで彼らの知名度が上がった、というような、かなり間接的な影響になった気がする。
 先ほどこの番組経由で売れた漫才師の名前を列挙しましたが、関西芸人はやすし・きよしと漫画トリオ(横山ノック、上岡龍太郎(当時は横山パンチ)、青芝フック(当時は横山フック))くらいで、しかも彼らの場合は必ずしも「大正テレビ寄席出身」とは言い難い。
 他の東京芸人も「お茶の間の人気者」としての寿命は短かったし、この番組出身でもっとも長く活躍したのは、かのドリフターズです。
 「大正テレビ寄席」という番組におけるドリフターズについてはまた別枠でやりますが、ドリフターズが売れたのも初期は渡辺プロダクションの猛プッシュがあったわけで、どう考えてもこの番組にそこまでの影響があったとは思えないのです。

 これは時代が大きい。
 今ではそこまでの<差>を感じづらいのですが、1960年代半ばくらいまではキー局でも圧倒的な<差>があり、民放でダントツなのが日本テレビとTBS、相当<差>をつけられてフジテレビとNET、東京12チャンネルは問題外、といった<格>が歴然とあった。
 1960年代後半くらいになると「なりふり構わぬ」フジテレビがのし上がっていった。フジテレビがなりふり構わなくなった<きっかけ>は間違いなく「夜のヒットスタジオ」なのですが、日本テレビやTBSと違った、完成されたものではなくグズグズな未完成なものを<あえて>見せる、という手法は革命でさえあったと思う。
 小林信彦によれば、日本テレビでショウ番組、バラエティ番組(=計算尽くしの完成された番組)の帝王だった井原髙忠は「夜のヒットスタジオ」のグズグズな<つくり>を認めると発言したと言います。
 結果として言えば、井原髙忠が目指した「完成された番組」よりもフジテレビ的な「グズグズの未完成な番組」の方がテレビ的、要するにテレビというメディアの特性に合致することがあきらかになっていった。そして当然のように、いつの間にか各局がフジテレビへ倣え状態になり、フジテレビの黄金期がおとずれるのです。

 井原髙忠がキー局のバラエティ番組の帝王ならば、準キー局のバラエティ番組の帝王は間違いなく澤田隆治です。

 澤田隆治は伝説的番組となった「てなもんや三度笠」を手掛けたわけですが、関西コメディであるにもかかわらずその内容と言えば「完成された」ものを目指していた。香川登志緒の優れた台本にも必ずケチをつけ、細かい動きを指示し、芸人たちが辟易するレベルで入念なリハーサルを行なったとされます。(「てなもんや三度笠」についてはココに書いてます)
 ここで澤田隆治の足跡を辿る気はないんだけど、とにかく澤田隆治は井原髙忠と似た志向があったことは疑いようがないのですが、渡辺プロダクションとのいざこざに勝利し日本テレビ音楽班(バラエティを含む)のトップにまで上り詰めていた井原髙忠とは対照的に、澤田隆治は閑職に追いやられていた。
 澤田隆治の不遇を聞きつけた井原髙忠は澤田隆治に上京を薦め「朝日放送在席のまま」東阪企画という会社を立ち上げるのです。

 そしてこの東阪企画、というか半独立後の澤田隆治が初めて手掛けたヒット番組になるのがマンザイブームの礎を築くことになる「花王名人劇場」になるのですが、その話はPage2にて。