藤子不二雄の藤本弘先生の大傑作「ドラえもん」のてんとう虫コミックス8巻に「わらってくらそう」という話が収録されています。
たった4ページの短い話ですが、省略の仕方が見事であまり短いと感じさせない、しかも<笑い>も十分すぎるほど内包されている傑作です。
「わらってくらそう」にはゲラゲライヤホンという、何だかAirPodsっつーかワイヤレスインナーイヤーイヤホンを先取りしたようなデザインのひみつ道具が登場します。
このゲラゲライヤホンという道具、耳にはめているだけで、どんな普通の会話でも「ゲラゲラ笑える」レベルまで面白くなるという一種のチート系道具ですが、これ、本当にあったらかなり欲しい。
だって「クスクス」レベルじゃないんですよ。「ゲラゲラ」レベルで笑えるんですよ。んなもん欲しいに決まってるじゃないですか。死ぬほど笑いたい時って絶対に、そして定期的にあるから。
ただ、そうなってくると、いったいこのゲラゲライヤホンなる道具がどんな構造になってるのかが気になる。
もちろんたまたま耳にはめるだけで、いきなり脳内に笑いの信号を送るみたいな感じなのかもしれないけど、それだと当たり前すぎて面白くない。そうじゃなくて、普通の会話が超絶レベルに面白い<間>や絶妙な<言い回し>とかテンポに変換されて、それが耳に届く、とすれば、これはかなりすごい。つかそっちの方がスチモシーバーのように脳を直接刺激するより難易度が高いと思うんです。
<笑い>というものはフシギなもので、あからさまに人を笑わせるギャグやジョークでないと誰も笑わない、ということではありません。
もう、普通すぎるくらい普通の<返し>がハマって笑いを堪えきれなくなる、なんてよくあることです。
「わらってくらそう」の回で言えば、作中でドラえもんが発した「どう?ぐあいは。」とか「そんなにおかしいかな。」という言葉に、のび太がひっくり返って笑う描写があるけど、こんな当たり前の普通の会話も、ほんの少し<間>をね、機械的にイジるだけで、ひっくり返って笑えるようになる可能性は、あるかないかでいえば、あると思う。
もちろん笑える<間>には個人差はあるし、あと当然その時の心境もあるわけです。やっぱりものすごく落ち込んだり、いや落ち込んでるかどうかよりも、あまりにもいろんなことがマジな感じでしか見えないなんて時はありますからね。
さすがにそんな時は少々面白い<間>で喋られても、時には逆にムカつくことさえあるわけで、そこら辺はほんの少し脳を直接コントロールしなきゃいけないのかもしれないけどね。
と、ここまで読んでいただければご理解いただけると思いますが、実際に<笑い>を誘発出来るか否かって、メチャクチャ微細な違いでしかないんですよ。
例えばクレージーキャッツの谷啓は、コントの台本を楽譜に書き込んでいった、なんて話があります。
あくまで作者、演者共々、譜面の読み書きが可能という前提ではありますが、これならば作者は台本の段階で<間>をコントロールすることが出来るし、演者も譜面に沿って演じれば勝手に<笑い>を誘発する<間>で演じることが出来るわけです。
んで、完璧に<間>のコントロールが出来るのであれば、もしかしたら「どう?ぐあいは。」や「そんなにおかしいかな。」などと言った、マジでなんてことないセリフでも大笑いさせられる可能性がある。
ここで再び私的な話をしたい。
かつてアタシは友人と「音声だけのコント」作りに熱中していたことがあります。
当たり前だけどアタシも、そしてその友人も、<笑い>のプロではない。それこそ<言い回し>であれば何度も何度も練習すればだんだんそれっぽくはなるけど、プロでない限り、やはり<間>だけはどうしても素人臭くなってしまう。
そこでアタシたちは画期的な「音声だけのコント」の作成方法を実践していた。
とにかく、一番面白い<言い回し>が出来るまで、しつこく録音していく。つまり<間>なんか関係なしに、ひとセリフ毎に録音するのです。
そしてその録音したデータから「もっとも面白く言えたセリフ」を厳選して、それらをすべてPCM音声が扱えるシーケンサーソフトウェアにブチ込むのです。ま、マルチトラックが扱えるオーディオエディタソフトでもいいけどね。
もう、この状態になったら、自分たちが納得するまで「笑える<間>」を煮詰めることが出来る。つまり音楽の作り方をコント制作に転用したのです。
プロにしか不可能と思しい絶妙な<間>を、音楽を作るやり方で再現していく。先程<画期的>と自画自賛したけど、たぶん、これだけ音楽作成ソフトが発展した現今でさえ、こんなやり方でコントを作ってるヤツはいないはずです。
ま、あくまで作れるのは「音声<だけ>のコント」に限定されますが。
昨今はStableDiffusionのようなAI絵師が存在する時代ですが、もし、かつてのアタシがやってたようなやり方をAIが勝手にやってくれる時代が来たら、もしかしたら「ゲラゲライヤホン」などという荒唐無稽に思えるような道具も実現出来るかもしれない。
当然のことながら、ゲラゲライヤホン開発の絶対条件は「人間の笑うという感情がどういうことで起こり得るのか」が完全に解析されている必要があります。
いかりや長介は『ちょっとでも間が狂ったら、ギャグがギャグにならなくなる。』と書き残していますが、この「ちょっと」とは具体的にコンマ何秒レベルなのか、それを正確に測る必要がある。
もちろんネタによっては「食い気味」(音楽で言えば「半拍で入る」というような感じだろうか)の方がいい場合もあるし、溜めるだけ溜めた方がより<笑い>が大きくなることもある。
たぶん現段階では「まだ未解明」ではなく「解析すら行われていない」って感じだろうけど、本気で有力な機関が解析すれば、そう遠くない先に実現出来るのではないか。
それでもさすがに「どう?ぐあいは。」や「そんなにおかしいかな。」程度の他愛ない会話を爆笑レベルにまで引き上げるのは並大抵ではないけど、もう、ある程度<間>さえしっかりしていれば誰がやっても爆笑させられる、いわゆる「テッパンネタ」であれば、要するに「あとは<間>だけの問題」であるのならば、これはAIで何とかなるかもしれません。
テッパンネタはいろいろありますが、パッと思い付くものでも
・ウ○コを我慢している
・お腹いっぱい(でも食べなきゃいけない)
・熱い!
これらは<間>も<リアクション>も何も出来ない素人がやっても、まあまあ面白い。
例えば「探偵!ナイトスクープ」の爆発たまごの回なんか、まさに「熱い!」というリアクション一本で<笑い>を成立させていますが、素人(=依頼者)のリアクションだけでも十分笑えるわけで。
しかし当然練達のプロがしっかり稽古して完璧にやれば、常に、客層関係なく、いや下手したら国籍とか「言葉の違い」さえ超えて爆笑にまで持っていくことが出来るのです。
いわば<ベタ>ってことになるのですが<ベタ>が故に、若い人はあまりこの手のネタをやりたがらない。
これらの<ベタ>なネタってセンスとか関係なく、とにかく修練さえしっかりやれば<笑い>に直結するんだけど、ま、誰がやってもそこそこ面白い=自分たちでやる意義が薄い=誰がやっても一緒=替えが効く、となったら、まァ、やりたがらないのはわかるんです。
現段階でこれらの<笑い>をしっかり、何のテライもなく本気でやっていたのはダチョウ倶楽部で、しかし上島竜兵の死去で「あの形のダチョウ倶楽部」はなくなった。
こう言ってはナンなのですが、上島竜兵の功績というか能力の高さは死去という事態を迎えても正統な評価が得られたとは言えない。追悼番組でも持ち上げられたのはもっぱらその人間性だけで、上島竜兵のあの絶妙な表情、それはつまり演技力なのですが、本当はそこが絶賛されなければおかしいのですよ。
これがセンス型でない人への評価の難しさなんです。ま、アタシは上島竜兵(というかダチョウ倶楽部全員)はヴォードビリアン(芸人)ではなくコメディアン(喜劇人)だったと思っている。しかしコメディアンへの称賛は非常に難しく、逆にヴォードビリアンは非常に評価しやすい。
しかし、それこそドリフターズを見てもわかるように、結局後世に残っていく<笑い>はコメディアン発信のものが多いのです。
というか本当は、センス=時代感覚と考えれば、どうしても時間の経過ととも古びた感じになってしまうセンス型の方が評価が難しいように思うのですがね。
もうひとつ、これは誰が悪いというわけでもないんだけど、<笑い>とは結局、緊張と緩和である、という理論が幅を利かせすぎたようにも思う。
「緊張と緩和」理論は桂枝雀が提唱し、明石家さんまもこの理論を肯定していますが、これは実は非常に高度なテクニックであり、失敗すると目も当てられなくなる。
緊張と緩和のうち、実際に笑いが起こるのは緩和の方なのですが、その前に緊張がないと緩和が引き立たない。それは本当によくわかる。
つまり理論としては間違ってはいないんだけど、少々修練を積んだレベルではプロでも容易に出来ることではない、と言いたいのです。
緩和はともかく、とにかく緊張が非常に難しい。いや聴衆を緊張させることだけなら簡単だけど、下手にやると緊張が悪目立ちしてしまって少々の緩和では緩和にならないんです。
もちろん徐々に緩和していって、ある程度まで緩んだところで完全に解いてやると<笑い>になるんだけど、この手順が本当に大変だし、限られた時間の中でやるには厳しい。
それこそ、もう見た感じからしてコワモテの人が出てきて散々凄んだ後、いきなりチンパンジーの真似をやって、それで本当に<笑い>になるかって話です。
たしかに緊張させるのには成功しているけど、チンパンジーの真似をされても緊張が受取手に残存している限り「これ、本当に笑っていいのか」みたいな感情に支配される。んで「ああ笑ってもいいんだ」となった頃にはネタが終わっている。
まァここまで見事な失敗はプロはやらないけど、緊張させる度合いをミスったり、緩和が唐突すぎて<笑い>にならない、くらいだったらいくらでも見たことがある。
これはココでも書いたけど、上岡龍太郎ほどの熟練の人でさえ、時に失敗していた。「散々特定の人や団体をコキ降ろして、最後は自分が道化になってオトす」ネタなのに、コキ降ろしというか毒舌が悪目立ちして道化になった箇所が活きてなかったのです。
つまり、相当レベルでテクニックや<フラ>に自信があるプロでないと、安易に「緊張と緩和」理論は通用しないんじゃないか。
さて、ここまでは少々<間>に比重を置きすぎたかもしれない。実際には<間>もヘッタクレもない、ひとコマ漫画や一枚の画像で完結する<笑い>もあったりします。
Page3ではその辺の話を中心にやります。