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複眼単眼・時代劇
FirstUPDATE2022.10.2
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 あれはアタシが大学生の頃だったか、当時フジテレビ系列で放送されていた「なっとく歴史館」というクイズ番組にエキストラ出演したことがあります。

 あくまで歴史をテーマにした番組なので、出題VTRも当然歴史に関係したことであり、エキストラのアタシもいわば「時代劇にふさわしいような」格好で出演した、ということになる。
 着物なのはもちろん、生まれて初めて、というか生涯で唯一、いわゆるズラをつけたのもこの時です。
 ま、まだ景気の良かった時代だったからだろうけど、スポッと被るようなパーティ用のカツラではなく、ちゃんと床山さん(カツラを装着してくれる専門職)が全部イチからやってくれた。

 テレビでズラの装着を見たことがある方もおられるでしょうが、糊みたいなので髪をビチっと固めて、その上からズラを固定する。とにかく頭が引っ張られるようで違和感がすごかったことはよく憶えています。
 ま、所詮、それこそ上層ではなく下層、つまり庶民の役だったので、己の姿を鏡で見てもカッコいいってわけじゃなかったけど、それでも「何でこんな自然な生え際に出来るんだ」と感心したことははっきり記憶している。

 このように床山さんをはじめとして、時代劇ってのは「その道のプロ」が現代劇よりもはるかに職種も人数も必要なのです。
 「探偵!ナイトスクープ」をきっかけに「斬られ役専門」だった福本清三が一躍スポットを浴びましたが、出演者裏方問わず、本当にその道だけを何年、下手したら何十年やってきたプロフェッショナルの存在があるから時代劇が作れたのです。
 撮影所システムにおいては出演者も裏方もすべてに手練ており、きわめてシステマチックに制作を進めることが出来る。基本的にはみな気心がしれた連中なので、全員が全員「阿吽の呼吸」で仕事が出来た、というか。

 では「その道のプロ」抜きで時代劇を作るとどうなるか、こんなの説明の必要はない。
 ファンタジーってね、必ずしも<リアル>である必要はないんだけど<手抜き>はご法度なんです。つまり<リアル>は必要ないけど<リアリティ>は絶対に必要で、正直パーティ用のチョンマゲでは「志村けんのバカ殿様」さえ作ることが出来ない。
 リアリティを生み出すには「その道のプロ」は必要不可欠であり、「その道のプロ」を常時取り揃えておくには撮影所システムというものが必要不可欠ということに他なりません。
 だから週替りプログラムだった1960年代末まで、各映画会社は時代劇専門のスタジオを持っていたのですが、戦後になって以降、もっとも時代劇に力を入れていたのは東映でした。
 東映についてはココにも書きましたが、若干重複があるとは思いますが少し書いていきます。

 東映は現存する大手映画会社ではもっとも新しく(日活は経緯がややこしいので除外)、戦後になって出来た会社です。
 後発の映画会社であるにもかかわらず、東宝や松竹のような洒落た現代劇が苦手で、しばらくはヒットした作品はほぼ時代劇に限られていました。
 当然抱えるスターも時代劇スターばかりで、こうなるとスタッフも時代劇を作ることに特化された人材ばかりになる。つまり前述の「その道のプロ」をもっとも多く抱え、また活用していたのが東映ということになるわけで。

 さて、黒澤明監督作品の傑作「用心棒」が公開されたのは1961年4月です。
 「用心棒」は時代設定こそ江戸時代でありながらあきらかに西部劇を手本としており、また数ある黒澤明作品の中でもっとも喜劇色が濃い。他の黒澤映画にもユーモラスなシーンはありますが「用心棒」はユーモラスを逸脱してギャグと思えるシーンが散りばめられている。
 いわば「時代劇の皮を被った」だけの作品で、さすがにこれを「純時代劇」というには無理があります。
 一方、ほぼ同時期、東映系で公開されていたのが東映創立10周年記念のオールスター大作「赤穂浪士」で、こちらは言うまでもなく完全なる「純時代劇」です。
 何しろオールスターなんだから戦前より活躍していた重鎮から新進気鋭の若手まで大挙時代劇スターが出演している。
 ざっと主要な出演者を挙げれば

・片岡千恵蔵
・中村錦之助 (萬屋錦之介)
・東千代之介
・大川橋蔵
・中村賀津雄(中村嘉葎雄)
・松方弘樹
・里見浩太郎(里見浩太朗)
・徳大寺伸
・香川良介
・瀬川路三郎
・団徳麿
・清川荘司
・吉田義夫
・阿部九洲男
・大河内傳次郎
・近衛十四郎
・進藤英太郎
・原健作(原健策)
・大友柳太朗
・月形龍之介
・市川右太衛門

 もう、圧巻、のひと言で、もちろん東映製作なんだから東映所属でない人は出てないんだけど(長谷川一夫、市川雷蔵など)、それでも「マジで全員出てんじゃん」と思わせるのがすごい。
 しかしこうした映画が作られたのは、というか求心力を持ったのは1960年代前半までで、1960年代後半に入り、邦画が本格的な斜陽の時代に入った頃には東映も時代劇最重視からの方向転換を試み始めるのです。
 任侠モノ、エロ、グロテスク路線へと舵を切った東映は一定の成績を収めるのですが、一方でテレビ事業を大きな柱にするようになっていく。
 ここで大きな役割を果たしたのが渡辺亮徳ですが、ブルドーザーと渾名された東映の名プロデューサー、渡辺亮徳の詳細な説明は割愛する。気になる方はココをお読みください。
 ひとつだけ書いておくなら、渡辺亮徳の最大の功績は「東映ジュブナイル路線を確立した」ということになると思う。ジュブナイルというのは、日本語で言えば、まァ、子供向けってことになる。
 何故渡辺亮徳は子供向け路線を推し進めたのか、それは「東映と言えば、もっとも得意としているのが時代劇だったから」しか考えられない。本能的に「東映お得意の勧善懲悪劇は、デコレーションさえ変えれば子供向けになる」と読んだんだと思うのです。
 時代劇を現代劇にしただけで、内容はいつもの東映タッチで、十分子供向けとして通用する、と。

 「仮面ライダー」を見るとよくわかるのですが、あれ、もう完全に時代劇のフォーマットなんですよね。まず雑魚が出てきて立ち回りを見せ、最後にボスを退治するっていう。
 何よりわかりやすいし、その分純粋に立ち回りだけを楽しめる。まさに子供向けにうってつけのフォーマットです。
 こうやって書けば理解してもらえると思うのですが、現在子供向けを作らせれば他の追随を許さない東映は、もとは「勧善懲悪の時代劇を作らせれば他の追随を許さない」会社だったのです。
 もちろんスタッフ的な継承はまったくない。「仮面ライダー」他は東京で撮影されたし、そもそも「特撮入りのアクションヒーロー物」と時代劇では必要となるスキルが違いすぎる。
 時代劇には「その道のプロが必要」としつこいくらい書いてきましたが、「その道のプロ」というのは言い方を変えれば「その道以外はアマチュア」とも言えるわけで、そこまで時代劇に特化したスキルの人がアクションヒーローに対応出来るわけがない。
 ただし、東映は「専門職の育成と活用」というノウハウは持っていた。これが同じく子供向け番組を手掛けていた東宝などとの最大の違いです。

 子供向けと時代劇は共通する点が多い。
 勧善懲悪もそうだし、ストーリー展開やキャラクターの配置の仕方もほとんど同じです。
 そして何より「十年一日同じことをやってていい、むしろ同じような内容を何度も何度も<飽きずに>なぞるくらいの方がいい」のです。
 子供向けにかんしてはココでも書いたように、子供というのは常に入れ替わってるのだから、つまり視聴者がどんどん入れ替わるのだから、とにかく作り手が飽きずに、偉大なるマンネリズムに徹した方が良い、というのはわかりやすい。
 しかしこれ、実は時代劇もなんです。
 メチャクチャ本音を言えば「七人の侍」や「用心棒」といった黒澤明作品、そして「必殺」シリーズ、さらにはチャンバラシーンのない、いわゆる芸道物あたりは「時代劇という範疇から外れたものではないか」という気がしているのです。
 たしかにこれらの作品も江戸時代を舞台にしているのかもしれない。しかし、どうも、何となくのイメージにある時代劇とは違う、というか。

 もっとはっきり言いましょう。アタシ個人の感覚、そして何となくそう考えている人が多そうなんだけど、漠然とした時代劇にたいするイメージの正体、それは「東映」なのではないか。
 江戸時代を舞台にしていようが、仮に時代設定が現代であっても、ある時期までの東映が作った作品はほぼすべて「時代劇」と言い切って良い気すらしているのです。
 少なくともアタシは「用心棒」と「仮面ライダー(1971年放送の第一作)」とを比べた場合、どちらが時代劇的な空気というかニオイが濃厚か、と言われたら「仮面ライダー」と答えてしまいます。
 「用心棒」に限らず東宝で作られた時代劇は、どこかモダンで「その道のプロ」たちによって作られている感じがしない。一方「仮面ライダー」は東映京都撮影所で撮られているわけでもないのに、ストーリー展開一切関係なく、絶妙な時代劇感があるように感じてしまう。

 先ほど、純粋な時代劇スターはひとりも出ていない「用心棒」とオールスター以外の何物でもない「赤穂浪士」について書きましたが、何よりスチールを見れば「用心棒」と「赤穂浪士」の根本的な違いが明白です。


 「用心棒」は衣装やセットこそ時代劇のソレですが他は完全に西部劇の世界のソレであり、では「赤穂浪士」はというと、その後の「水戸黄門」にも通じる「漠然とした時代劇にたいするイメージ」そのものです。
 つまり「水戸黄門」の、月曜20時になると思わずTBS系にチャンネルを合わせてしまう、あの何とも言えない安心感は「赤穂浪士」と「あきらかに同一のものである」と理解出来てしまうわけで。

 が、実は「水戸黄門」は(「大岡越前」もですが)制作がC.A.Lで東映作品ではないんですよ。(1978年公開の映画版と1997年製作の「水戸黄門のお年寄りの交通安全」のみ東映京都撮影所製作、C.A.LとTBSが製作協力という扱いになっている)

 とは言えテレビシリーズも東映京都撮影所で撮られていますし、というか実制作は東映京都撮影所です。(だからこそ当初水戸黄門役に予定されていた森繁久彌の出演が東宝の意向でキャンセルになっている)
 つまり、制作がどのようにクレジットされていようと関係ない。東映がかかわった時点で作品に東映京都撮影所ふうの時代劇色が付く。
 ましてや完全に東映の制作なら現代劇である近年の「相棒」や「科捜研の女」さえ、どことなく時代劇っぽい。とくに「科捜研の女」はかつての時代劇制作のメッカだった東映京都撮影所で撮られているためか「水戸黄門」あたりと同一の独特の安心感が横溢しています。

 安心感はイコールマンネリズムとも言えるわけで、時代劇もやはり、十年一日同じような内容の方が良いということになる。
 そうなんです。時代劇というとどうしてもチャンチャンバラバラの立ち回り、という、まァいや派手さに目を奪われがちになるけど、本質はどちらかというと「安心感」の方じゃないか、というような話はPage3にて。