今では時代劇の世界と実際の江戸時代の光景は「似て非なるもの」という評価が定着した感があります。
ま、ひと口に江戸時代と言っても250年以上あるわけで、どこをどう切り取って「似て非なるもの」と判断するのは難しいんだけど、それでも「江戸時代=徳川幕府の時代は日本の歴史上でも有数の平穏な時代だった」と。
江戸時代の庶民の生活を今に伝える貴重な資料として落語があります。
そりゃあね、今よりはるかに不便な時代だったことは疑う余地はないとはいえ、職業にかかわらず大半の庶民は呑気に暮らしていた。まさに落語の世界そのものです。
もちろん武士は刀を持つことを許されていた。だからそこだけ切り取れば「アメリカの銃社会と同じようなもの」ってことになるのかもしれないけど、アメリカだって一部の地域を除けば普通に街を闊歩出来るわけでね。
さて、今回のエントリの主題は時代劇ですが、そうなると時代劇の世界とリアルな江戸時代の何が違うのか、というところから話を始めなきゃいけない。
時代劇と言えばある意味代名詞のように登場するのが悪代官が発するこのセリフです。
「お主もワルよのォ」
さすがにここまでベタベタの悪代官はもう出てくることはないけど、時代劇と言えば「お主もワルよのォ」というセリフに象徴される、悪徳商人と悪代官による賄賂の受け渡しシーンってことになってしまった。何しろ悪代官をフィーチャーしたゲーム(PS2用「悪代官」2002年発売)まで出たくらいだし。
しかし、現実にはこのような悪代官はほとんどいなかったらしい。ま、そりゃそうです。そんな悪代官がはびこる幕府が250年以上も続くわけがない。そもそも賄賂の受け渡しをするほど町人と密接な関係の悪代官など、ちょっと現実離れしています。
つまりはこういうことです。
時代劇に登場する悪代官は虚構の世界の虚構の存在に近い。ま、日本が舞台の現代劇における「シンジケート」や「殺し屋」みたいなもの、と言っていいんじゃないかと。
そうは言っても悪代官は時代劇での悪役の象徴だった。正義の味方が最後の最後にトドメをさすべき相手は悪代官と相場が決まっていたのです。
もっとわかりやすく言えば、時代劇において正義の味方が成敗するのは「腐敗政治」だったと言っていい。
腐敗政治が露呈しないように、また利権を守り続けるために、悪代官とその手下どもは罪なき人を陥れ、正義の味方にたいして徹底抗戦する、それが時代劇のフォーマットだったわけで。
アタシはこれを「無敵のルーティーン」と呼んでいます。
庶民、つまり下層にいる者たちは常に正義、政治を司る者や金銭的に裕福な者、つまり上層にいる者たちは絶対悪。上層の人間は私腹を肥やすことしか考えておらず、庶民など虫ケラ以下にしか思っていない。
これはフィクションにおいて、おそらく世界中で、少なくとも日本ではもっとも好まれる設定です。
逆に言えば「悪い庶民を正義の選ばれし者が裁く」なんて絶対にウケない。「水戸黄門」や「大岡越前」なんかはそういう要素はあるけど、あれだって水戸黄門や大岡越前は「弱き(そして正しき)庶民の味方」だったわけですから。
つまり仮想敵として<悪代官>なる、今でいうなら上級国民に設定したのは、身も蓋もない言い方をするなら、その方が「ウケるから」なんです。
アタシは「下層は常に正義、上層は常に悪」と言う考えが正しいと言っているのではありません。しかしインターネットがメディアだったりコミュニケーションの中心的存在になった令和の時代になっても、本気で、こんなことを考えている人が多いのはSNSなどを見れば一目瞭然です。
だからアタシは「無敵のルーティーン」だと思う。時代なんか一切関係なく、とにかく上層を否定的に見れば溜飲を下げる、もしくは喝采を送る人が一定数いるってことは、つまりは「商売としてフィクションを作ることにおいてもっとも安全なルーティーン」だから。
世の中に何か問題提起するためにフィクションを作る。もちろん全部が全部ではありませんが、フィクションを作るモチベーションのひとつであることは間違いない。
だったら「腐敗政治を告発する勢いのフィクション」を作ればいいのかもしれませんが、これ、結構難しいんです。
その昔はかなり強権的な検閲が行われていた。当然のことながら真っ正面から現今政権を告発するようなフィクションは公開にすらこぎ着けられない。そうなると「世間の目にさえ触れず、ただ無駄金を使っただけ」になるわけで、そんなことを映画会社だったり出版社が許容するわけがない。
そして、昭和と元号が改められた頃くらいから国は徐々に、実は娯楽が「危険思想の温床になる」と気付きはじめていた。
昭和のはじめの時点では、近代国家になってからまだ50年ちょっとしか経っていない。おそらく「今の形がベストなのか」と疑問に思った人も多かったに違いない。国家を<運営>していくには多種の方法論があるわけで「実はこっちの方が我が国においては向いているのではないか」と。
アタシはこの手の話が嫌いだし苦手なので、いろいろボカしながら、かつ、ちゃっちゃと済ませますが、これは双方の不手際というか、時代を考えればやむを得ないところはあるんだけど、国(権力者側)も別の思想側も強硬に物事を進めすぎたと思う。一方が強硬にやるからもう一方は余計頑なになってさらに強硬になる、という繰り返しだったような気がします。
とにかく「別の思想」の拡大を目的としたような娯楽が作られはじめた。よく政教分離なんて言うけど、昭和に入ったあたりから思想と娯楽の癒着が始まった、というか。
要するに、それまで娯楽と政治は何の、は言い過ぎだけど、あまり関係もないものだったのが関係あるものになったわけで、こうなると国としても小説や活動写真改メ映画にも監視の目を光らせるよりしょうがない。
もちろんそれ以前にも検閲に相当する法律はあった。つか江戸時代からそれはありました。
しかし極端に悪辣なものでない限りスルー、もしくは一部の登場人物を仮名にするだけで「お目溢し」されていたのが、小説、映画、ステージ問わず、あらゆる娯楽をチェックして<別の思想>に結びつくものにかんしては問答無用でしょっ引く、なんてことまで行われ始めたのです。
これで<別の思想>とは何の関係もない、しかし多少なりとも風刺のニュアンスのある娯楽が影響を受けないわけがない。
アタシは完璧なるまでのノンポリなので<別の思想>にたいして否定的でも肯定的でもないけど、こと娯楽の自由を守る、という面ではマイナスに作用したことが大きすぎたように思う。(だから必要以上に気の毒だとも被害者だとも思わない)
本当に個人的な考えだけど、娯楽だけは正否を民衆に委ねるべきだと思うし、製作者側も過度に特定の思想と密着した娯楽を作るべきではないと思っています。ま、要するにつかず離れずの距離感をキープするというか。
もっと言えば商売として成り立つ=正、商売として成り立たない=否ってことにしておかないとダメだと思っている。国だったり特定の団体が正否を決めることではない、と。
話が逸れ過ぎてしまった。
現今は、まァ、国が娯楽に異様なレベルで口出ししてくることはないけど、それでもね、フィクションの中に「自民党の~」なんて名前を出せるわけがない。揶揄のつもりがなければ実名をモジッた「さくらテレビ」なんてのでも気にならないけど、告発まで行かなくてもそれ相当の揶揄の意図がある場合、仮名にしないとかなりマズいことになります。
しかしね、だからといって「民自党」なんてしたら途端に嘘臭くなるんですよ。
リアリティを獲得するために、どうしても実名を用いないとダメな場合がある。告発するのにリアリティがないなんてサイアクです。
そこで出てくるのが<仮託>という発想です。
<仮託>とは実現不可能な、または表現不可能なことを何かに託すことによって表現したり、実現したような夢想をすることを意味しますが、これは現代の日本の話ではありませんよ、あくまでファンタジーですよ、という体裁をとりながら、実態は現今政権を揶揄、告発する内容にする、というか。
これなら検閲で睨まれる可能性が薄まるし、最初からファンタジーなんだから現今政権との距離はキープ出来るし、細かいリアリティも無視出来る。
そこで<舞台設定>として、都合が良かったのが時代劇なんです。
明治末期~大正時代までの、いわば活動写真黎明期の頃は「時代劇>現代劇」の比重だった。これは至極単純な話で、この頃の活動写真は純粋な娯楽、エンターテイメントだったからです。
<絵>で見せるエンターテイメントとなると派手なシーンがある方がウケるわけで、となると刀を使った斬り合いはうってつけです。まだピストルでの銃撃戦よりもチャンチャンバラバラの方がずっと身近なものだったし。
そうした単純きわまる娯楽から、徐々に風刺のニュアンスを込めたものが出てきた。これはビデオゲーム黎明期とほぼ同じです。
そのうちチャンチャンバラバラはあるけどストーリーとしては全体的に風刺のニュアンスが濃いものが主流になっていった。というかフィクションというのは多少なりとも風刺がないと成立しないものであり、単純にチャンバラシーンだけを見せれば良い時代から、活動写真が長尺になって本格的なストーリーが必要な時代になるにしたがって、どうやっても風刺を濃くするしかなかったのです。
現代劇で風刺を濃くするとどうしても生々しくなってしまう。真っ正面から告発めいた内容を描くわけにはいかないし、となると話を思いっきり矮小化して「あくまで一家庭の問題である」とするしかない。
これまた話が逸れるので手短に書くけど、邦画が辛気臭い、しみったれた内容なのはコレが原因だと思う。時代問わず「国民総キョロ充」の日本人らしい、というか。
ま、それはともかく「あくまで一家庭の問題である」ってところを妥協点にする限り、どうやってもバリエーションが作れない。どれも似たような内容になってしまう。(もちろん「一家庭の話」に矮小化された優れた作品も存在しますが)
その点、時代劇は圧倒的に自由だった。物語のバリエーションも風刺の濃淡もわりと自由に調整出来る。もちろん活動写真にふさわしい派手なアクションも挿入出来る。
つまり「要れ物」として時代劇は非常に優れていたのです。
ただしそれはあくまで「製作者側の<作りやすさ>」の話でしかありません。
チャンバラシーンの派手さ、<仮託>による風刺が観客にウケた。それは間違いない。ただ、時代劇がウケた理由はそれだけではないのです。
てなわけでPage2に続く。