Page1でも書いた通り、ドリフターズの主演映画第一作は1967年に松竹で作られた「なにはなくとも全員集合!!」ということになります。
が、実際にこの映画を観た方なら説明不要でしょうが、これを「ドリフターズ主演映画」に数えてよいものか、ためらいをおぼえます。
タイトルの「なにはなくとも」というのは当時三木のり平が出演していた桃屋のCMのキャッチコピーであり、これにドリフターズが舞台でよく使っていた掛け声の「全員集合」を合わせたもの、というふうに言われていますが、もうこの時点でも、主演のひとりとして三木のり平が入るのは間違いない。
内容的にも、三木のり平を中心に、精神的主役が古今亭志ん朝で、ヒロインが中尾ミエ。つまり物語を動かしているのはこの3人で、ドリフターズはいわば「やたら出番が多いコメディリリーフ」と言えんこともないんです。
それでも現在では主役扱いなのは、松竹が「全員集合!!」シリーズとしてドリフターズ主演映画を続けたからで、かなり後付けの理由で主演映画扱いになっているだけです。
文句なしに主演映画と言えるのはこの年(1967年)の10月に封切られた「ドリフターズですよ!前進前進また前進」です。
これはきわめてオーソドックスな、喜劇の定型である「巻き込まれ型」の物語で、極端な話、誰が主役でもそこそこ面白くなるように作ってある。だからドリフターズがやる意味は限りなく薄いし、まったく彼らのパーソナリティは活かされてないんだけど、渡辺晋のお気に入りだったという和田嘉訓が手堅くまとめているので、「キャラクターが固まってなかった頃のドリフターズ」映画として見れば、まァ、つまらなくはありません。
本当の意味で、ドリフターズのメンバーのパーソナリティを活かした主演映画は再び松竹で撮られた「やればやれるぜ全員集合!!」ということになります。
何よりこの映画が、完全にドリフターズを活かしている、と言い切れるのは、きわめて土着的に彼らを使っているからです。これは脚本のひとりに森崎東が入っていることが大きいと思う。
アタシなどが言うまでもありませんが、森崎東は「地べたに這いつくばりながらも、しぶとく食らいつく」人たちを描かせれば右に出る者はいない人で、これはあきらかにクレージーキャッツとは違う、いかりや長介が言うところの「大正テレビ寄席」に出ることによって会得した泥臭さを映画の枠内で描き切っています。
「やればやれるぜ全員集合!!」はシリーズ中唯一のメンバー全員によるバンド演奏シーン(ただし当て振り)があるのが特徴ですが、基本的には<土着的>で<泥臭い>内容なのに、ここにモダンへの未練が垣間見れる。
ドリフターズが完全にモダンな方向と決別したのは第二次「8時だョ!全員集合」(1971年10月)以降で、それまでは<土着的>で<泥臭い>カラーではあったもののモダン志向も捨てきれていなかった。つまり若干自分たちのカラーを無視して「クレージーキャッツの正統後継者」の道を、おそらくは当人たちというよりは渡辺晋が捨てきれてなかったんだと思う。
アタシは音楽の専門家でもなんでもないのであまり偉そうに言えた義理ではないのですが、こと演奏能力に限れば、クレージーキャッツは当時の水準としては並以上はあり、とくに谷啓のトロンボーンと石橋エータローと桜井センリのピアノは高く評価されていた。当時から評価が低かったのはハナ肇のドラムだけで、押し並べて考えれば<並以上>というのが妥当だと思う。
しかしドリフターズは演奏を高く買われていたメンバーはいない。テクニック的には高木ブーが、音楽理論的には仲本工事が「あくまでメンバー内では」高かったとはいえ、とくにいかりや長介から「ピアノが弾けないピアニスト」とまで言われた荒井注の評価が低かった。
それでも加藤茶はまだドラムを始めてから日が浅く、抜群にリズム感が良くて若く伸び盛りだったことを考えれば一流のドラマーになれた可能性はあったはずで、渡辺晋がその辺を見抜けないわけがないと思う。
それでも、これは完全に想像ですが、もうひとりのドリフターズとまで言われたマネージャーの井澤健の意向が強かったのだと思う。結果として、井澤健の飲み仲間だったというなかにし礼を含めて、<土着的>で<泥臭い>色を活かせるスタッフが揃ったんじゃないかと。
ただしコトは一気に進んだわけではありません。
松竹ドリフターズ映画第2作「やればやれるぜ全員集合!!」の公開が1968年1月、第3作「いい湯だな全員集合!!」の公開が1969年7月、つまり一年半もの間が空いている。
この間ドリフターズ主演映画はすべて東宝で作られていますが、その一覧をご覧いただきたい。
・ドリフターズですよ!盗って盗って盗りまくれ(1968年4月公開)
・ドリフターズですよ!冒険冒険また冒険(1968年9月公開)
・ドリフターズですよ!特訓特訓また特訓(1969年1月公開)
・ドリフターズですよ!全員突撃(1969年4月公開)
何故ドリフターズは、というか渡辺プロダクションは東宝を優先させたか、これは簡単です。当時渡辺晋は東宝のプロデューサーの立場であり、完全に、ではないものの東宝でならば意見が言える=いろいろコントロール出来る立場だったんだから東宝を優先させるのは当然です。
監督は「やればやれるぜ全員集合!!」で結果を出した渡邉祐介と「ドリフターズですよ!前進前進また前進」の和田嘉訓が交互にあたっている。
ここであまり描かれることのない和田嘉訓という人に少しだけ迫ってみます。
ある日、私は(中略)会議室に呼ばれた。そこで「クレージー作戦 くたばれ!無責任」の脚本のクレジット・タイトルに、助監督の名前を共作者として載せてくれと要求された。(中略)助監督は裏で何をしたか知らないが、私にとっては何の関係もない人物だ。あとでわかったことだが、このとき渡辺晋は気に入った助監督を一本立ちさせようと図っていたのである。(田波靖男著「映画が夢を語れたとき」)
実名は書いてませんが「クレージー作戦・くたばれ!無責任」に助監督としてついていたのは渡辺邦彦と和田嘉訓のふたり。つまり、このどちらかになるのですが
それに彼(筆者注・渡辺晋)が監督にしたがった監督も才能が認められ、とっくに監督デビューを果たしていた。(引用元・同上)
これは1965年の「大冒険」という映画が作られた直後の話ですが、早撮りの名手だった渡辺邦男を父にもつ渡辺邦彦の監督デビューは1971年なので、つまりは1965年時点で『監督デビューを果たしていた』という条件に当てはまらない。
ということは、『渡辺晋は気に入った助監督』とは1964年に「自動車泥棒」にて監督デビューしていた和田嘉訓を指す、ということになります。
「自動車泥棒」は野心的な作品でしたが興行的には惨敗し、せっかく(おそらく渡辺晋の強力なプッシュもあって)監督に昇進したのに、再び冷や飯を食わされることになります。
それでも和田嘉訓はよほど渡辺晋のお気に入りだったのでしょう。
1967年4月公開の「クレージー黄金作戦」(渡辺プロダクションが全額出資して製作されたクレージーキャッツ主演の超大作)のショウシーンでの演出を任され、で、その次の仕事が「ドリフターズですよ!前進前進また前進」だったのです。(ついでに言えば次々作も渡辺プロダクション所属のザ・タイガースの主演映画「ザ・タイガース 世界はボクらを待っている」)
こうして見ていけばドリフターズ映画の監督に和田嘉訓が抜擢されるのは当然で、ドリフターズ映画を松竹ではなく「渡辺晋が東宝でプロデューサーという立場」「渡辺晋お気に入りの和田嘉訓が東宝の人間」ならば東宝で作りたかったのも当然と言える。
しかし、誰が見てもドリフターズというグループのカラーを活かせるのは渡邉祐介の方であり、「ドリフターズですよ!」シリーズだけを見ても和田嘉訓が監督をつとめた「ドリフターズですよ!冒険冒険また冒険」と「ドリフターズですよ!全員突撃」、渡邉祐介が撮った「ドリフターズですよ!盗って盗って盗りまくれ」と「ドリフターズですよ!特訓特訓また特訓」とでは完成度だけをとってもだいぶ差がある。
「ドリフターズですよ!盗って盗って盗りまくれ」は渡邉祐介にしては軽いコメディですが、前半の泥棒学校のシーンで、映画館でアタシの前に座っていた女性がひっくり返って笑っていたのを昨日のことのように思い出します。
「ドリフターズですよ!特訓特訓また特訓」の方は一転して重喜劇になっていますが、ドリフターズの人間関係コントを軍隊喜劇のフォーマットを活かしつつシリアスというかシニカルな<笑い>にもっていった渡邉祐介の手腕には感心します。
一方、和田嘉訓監督作品の方は正直どちらも芳しい出来ではない。
「ドリフターズですよ!冒険冒険また冒険」は撮影中にいかりや長介が入院するアクシデントがあったとはいえ、それを差し引いてもテーマも展開も弱いし、ま、それは脚本の問題だとしても演出にもメリハリがない。
「ドリフターズですよ!全員突撃」はハワイロケまでしておきながら東宝松竹合わせて全ドリフターズ映画の中で最低の出来です。
監督昇進時期はそれほど変わらないとはいえ、新東宝から出発して東映に移籍、さらにフリーとして活躍していた渡邉祐介はこの時点で10本以上監督をつとめたことがあるなど経験豊富であり、なかばゴリ押しに近い形で監督に昇進し、ドリフターズ映画以外は1本しか撮ったことがなかった和田嘉訓とでは素人目でもわかるレベルで能力差があった。
正直「和田嘉訓の能力不足」に渡辺晋はかなり堪えたのではないかと想像するのです。
渡辺晋としてはドリフターズ映画の主戦場をどうしても東宝にしたかった。それは先ほどから挙げている理由以外にも「クレージーキャッツのやり方を踏襲させる」という気持ちがあったはずなんです。
クレージーキャッツの場合、グループ主演作は東宝、植木等単独主演作も東宝、ハナ肇単独主演作は松竹、谷啓単独主演作は東映と東宝、犬塚弘単独主演作は松竹と大映、といった感じで、日活以外の映画会社にすべて振り分けていました。
たぶん、渡辺晋は<これ>をドリフターズでもやりたかったのだと思う。
グループ主演映画は東宝で、加藤茶単独主演映画も東宝、そしていかりや長介単独主演映画は松竹、というように。
末期の東宝クレージー映画に加藤茶が主演格で出ていますが、これはどうも、こうした構想の<名残り>ではないかという気がする。
クレージーキャッツでこうした振り分けが出来たのは東宝なら古澤憲吾と坪島孝、松竹なら山田洋次、東映なら瀬川昌治、といった具合にレベルの高い監督を得ることが出来たからです。
しかし、和田嘉訓にグループ主演作や加藤茶単独主演作を任せるのは、いくらなんでも荷が重い、というのが、だんだんあきらかになっていった。
では何故、渡辺晋はドリフターズをクレージーキャッツのやり方に当てはめようとしたのか。
もちろん商売上、その方が安全だという判断もあったと思う。しかし、どうも、それだけではないような気がするんですよね。
こうなると、どうしても、渡辺晋とドリフターズ、渡辺晋と井澤健、といった話になってしまうのですが、ここら辺でPage4に続きます。