いったいどこのタイミングか、というと、ものすごく難しい話なのですが、少なくとも1980年代以降、コメディアンや芸人が売れてるかどうかは「どれほどテレビでの露出があるか」が最大の判断ポイントになりました。
とくに冠番組の有無は重要で、一週間に何本冠番組を抱えているかを見れば、そのコメディアン・芸人がどれだけ売れているかは簡単に判断出来るようになった。
つまり、言い方を変えれば1980年代以降は「テレビこそが檜舞台」になったとも言える。
そのことにたいして、アタシは別に何とも思わない。テレビが檜舞台になったのは完全に時代の変化であり、テレビこそがメディアの王様である。そんな時代になっただけの話です。
たしかに現今、YouTubeに進出するコメディアン(はいないか)や芸人が多くはなっているのですが、それでもまだ「インターネット=檜舞台」ではない。むしろ「映像付き」で「編集権がある」ラジオの代替といった方が正しいでしょう。
ま、今後、もしかしたらインターネットこそがコメディアン・芸人の檜舞台になるかどうかは、つまり未来のことはわかりませんが、過去のことはわかります。
芸能文化が華開いて以降、そのほとんどの時代は「格式ある大劇場で公演」こそが檜舞台だった。もちろんそうした公演で<芯>を取るコメディアンや芸人が花形だったわけです。
昭和に入ってから活動写真→映画が「ニューメディア」として脚光を浴びますが、それでも、少なくとも戦前期までは依然として「格式ある大劇場で公演」こそが檜舞台であり、映画は格下ではないけど<別腹>扱いだったと思う。
これが変化したのは1960年代に入ってからです。
1960年代以降、映画も檜舞台という雰囲気になったのですが、先ほども書いたように1980年代にはテレビが檜舞台になっている。また1970年代はいわば映画産業の衰退期であり、つまり映画こそが檜舞台だったのは1960年代だけ、ということになります。
1960年代にしたところで完全に映画だけが檜舞台だったのかというと疑問が残る。というか結構意見が分かれます。
この時期に台頭したコメディアンや芸人のうち、渥美清は体力の問題もあり舞台公演が難しく映画が檜舞台という感じでしたが、クレージーキャッツは日劇公演と映画、さらにテレビやレコードリリースを含めて、どれに重心を掛けていたわけでもないように見える。
また伊東四朗のように、あくまで「笑いのホームグラウンドは舞台」という姿勢を崩さなかった人もいたりで、わりとまちまちなのです。
いよいよここからドリフターズの話になります。
ドリフターズはクレージーキャッツよりワンジェネレーション下というイメージですが、ドリフターズが台頭してきたのは1960年代であり、主演映画の制作時期で見ればドリフターズが1967年、クレージーキャッツが1962年で、たった5年しか違わないのです。
つまり大雑把に見ればクレージーキャッツとドリフターズはほぼ同世代で、伊東四朗(というか伊東四朗が属していたてんぷくトリオ)あたりとは年齢も含めて完全に同世代と言えます。
伊東四朗は本人の意識はともかくとして、完全なテレビ世代の人です。
多くの人が伊東四朗と聞いて思い浮かべるのは「電線音頭」でのベンジャミン伊東や「おしん」、「伊東家の食卓」、あとはCMの数々のはずで、では伊東四朗に代表的な舞台公演があるかというと難しい。三宅裕司との公演や座長公演も定期的にやってはいましたが、それらの舞台を代表作として挙げる人はほとんどいないのが現実です。
となるとドリフターズにもまったく同じことが言える。
「8時だョ!全員集合」をやってた頃は並行して舞台もやってましたし、不定期とはいえジャズ喫茶にも出演していた。
また主演映画も数多く撮りましたし、レコードも多くリリースしてヒット曲も出した。
それでもドリフターズと言えばテレビの人で、ドリフターズを回顧するとなると当然のように「8時だョ!全員集合」をはじめとするテレビ番組の羅列になる。
長々と前置きを書いてきましたが、これからアタシが試みるのは「あえてテレビという枠外からドリフターズを検証する」ことです。
たしかにドリフターズから「8時だョ!全員集合」や「ドリフ大爆笑」を外して、となると一般のイメージとはかけ離れたものになるのはわかっています。でも、あまりにもテレビ中心になりすぎて、それ以外の活動がないがしろにされすぎているのではないかと。
舞台にかんしては具体的な内容が不明なので後年になっての検証は不可能なのですが、それでもあれだけ主演映画があり、持ち歌もいっぱいあるのに、そこにスポットが当たることがないばかりか無視されすぎてると思うわけで、ならば逆にそこにスポットを当てるのもアリだなと、ね。
とは言えテレビ番組を含めたドリフターズの出世街道を見ていかなければわかりづらいので、まずはこれをご覧ください。
・初のテレビ冠番組=「ドリフターズドン!」(1967年4月放送開始)
・初のレコード=「ズッコケちゃん/いい湯だな」(1967年6月リリース)
・初の主演映画=「なにはなくとも全員集合!!」(1967年8月公開)
小林信彦は「喜劇人に花束を」において、ドリフターズの人気について『初めは<作られて>いる気がしたが』と書いてますが、上記の過程を見るだけでも「渡辺プロダクションという当時もっとも力のあったプロダクションが猛プッシュして、やや強引に<スター>を作り上げていこう」としたことが読み取れます。
おそらく「冠番組」、「レコード」、「主演映画」はほぼ同時進行というか、プロジェクトがスタートしたのはほぼ同時期であったのは間違いない。でないと2ヶ月置きに、というのは不可能であり、早く準備が出来た順に始まった、というふうに見えます。
最初にアタシはコメディアン・芸人の檜舞台の話を書きましたが、ドリフターズの「3メディア同時進行で<スター>にする」という渡辺プロダクションの戦略を見るに、渡辺プロダクション(というか社長の渡辺晋)には「テレビ、レコード、映画、どれかひとつが檜舞台ではない。すべて制覇しなければスターにはなれない」と考えていたと読み取れます。
これは完全にクレージーキャッツに倣っている。クレージーキャッツの場合、初の主演番組(実質冠番組)は1959年(「おとなの漫画」)、レコードデビューは1961年(「スーダラ節/こりゃシャクだった」)、初主演映画は1962年(「クレージーの花嫁と7人の仲間」)と年単位で間が空いてますが、これはたんに、まだ当時は渡辺プロダクションの力が強大でなかっただけの話で、そのクレージーキャッツ(とザ・ピーナッツ)を擁して絶大な影響力を持って以降の、つまりドリフターズの売り出し方を、こと、かかった年数だけは一緒にするわけにはいきません。
しかし、これほどまで強烈なプッシュを受けたドリフターズでしたが、なかなかスターの座には届きませんでした。
主演映画にかんしてだけは併映の興行価値もあって惨めにはなりませんでしたが、レコードも当初は売れず、とくに冠番組はどうしても視聴率が上がらなかった。
もちろん渡辺プロダクションとしては(というか担当マネージャーだった井澤健としては)「クレージーキャッツの<次>」という考えでドリフターズをこれほどプッシュしたのでしょうが、現実に<次>になったのは渡辺プロダクションとはまったく関係ないコント55号で、ドリフターズは所詮クレージーキャッツの亜流でしかない、程度の評価になってしまった。
それでも、冠番組はタイトルを変えながら続き、レコードリリースも主演映画もとりあえずは続いていましたが、どう考えても明るい先行きがあったとは思えない。
ではドリフターズの人気が<どのタイミングで>上がったのか、ですが、これが結構難しいのです。
テレビにかんしてははっきりしている。もちろん1969年10月開始の「8時だョ!全員集合」になるのですが、開始当初の「8時だョ!全員集合」はさほど視聴率が上がらなかった。
それが当時人気番組だった「サインはV」や「キーハンター」の出演者をゲストに登場させたことで人気に火がついた。ま、これは伝説ですので真実というか正確な視聴率はわからないのですが、いかりや長介著「だめだこりゃ」によると、それまで15%前後だった視聴率が一気に25%前後にまで上がったらしい。
この「人気番組の出演者をゲストにむかえることで視聴率が跳ね上がった」のが1970年の2月、つまり番組開始から5ヶ月後ということになります。
ではレコードと映画はというと、最初のヒット曲「ドリフのズンドコ節」のリリースが1969年11月、初のヒット主演映画「いい湯だな全員集合!!」の公開が1969年7月です。
結果としては「ドリフのズンドコ節」は翌1970年の日本レコード大賞で大衆賞を受賞しており、1970年の売上枚数は約80万枚という大ヒットになったのですが、1970年になってから爆発的に売れた、とも読み取れ、そうなるとヒットの直接の原因は「8時だョ!全員集合」ではないかとも思われるのです。
(ただし「ズッコケちゃん/いい湯だな」も40万枚を売り上げてはいたらしいが、どのタイミングで売れ始めたのかは判然としていない)
しかし映画にかんしてはこの限りではない。
「いい湯だな全員集合!!」が公開されたのは「8時だョ!全員集合」開始の3ヶ月前であり、となると起点は映画ではないかとも言えるんです。
そもそも「8時だョ!全員集合」開始直後の(あくまでいかりや長介の証言でしかないけど)15%という数字はそれ以前の冠番組に比べたら高いはずで、すでに「8時だョ!全員集合」が始まる前の段階で、少なくともTBSの内部的には「土曜の8時という、ゴールデンタイム中のゴールデンタイムを一時間、ドリフターズに任せよう」という気にさせる程度の人気はあったと考えるのが妥当な気がする。ま、もちろん渡辺プロダクションの猛烈なプッシュがあったことも間違いないだろうけど。
また、手元にある「小学三年生」1970年1月号(1969年12月初旬発売)にはコント55号とほぼ同じ比重でドリフターズが扱われている。雑誌の校了日が1969年11月初旬~中旬と考えるなら「8時だョ!全員集合」が始まってまだひと月ちょっとしか経ってない頃であり、こうなると「ドリフターズが一人前に扱われ出したのは「8時だョ!全員集合」のおかげだ」と言えなくなるんです。
ここまで見ればわかるように、人気に火がついた順番としては、多分に想像が入るとはいえ
「いい湯だな」(レコード)の中ヒット→「いい湯だな全員集合!!」(映画)のヒット→「8時だョ!全員集合」(テレビ)の大ヒット、というふうに思えるんです。ま、少しずつ得た人気が「8時だョ!全員集合」で爆発したというか。
こうなるとなおさら、レコードというかドリフターズの楽曲と映画に注目せざるを得ない。
つまり渡辺プロダクションの「3メディア同時進行」による売り出し方は見事に相乗効果をもたらした大成功だったと言えると思うわけで。
ま、前置きと前提だけでここまで書いてしまいましたが、Page2ではいよいよ、彼らの楽曲と映画について書いていきます。