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複眼単眼・鶴瓶上岡パペポTV
FirstUPDATE2018.11.27
@Classic #複眼単眼 #大阪 #笑い #テレビ #1980年代 #1990年代 全2ページ 鶴瓶上岡パペポTV 鶴+龍 笑福亭鶴瓶 上岡龍太郎 激突夜話 下足札 立川談志 牧野周一 横山ノック ガチンコトーク 2023年11月28日大幅改稿 全2ページ

 上岡龍太郎は紛れもなく<芸人>です。
 何を当たり前のことを、と思われるかもしれませんが、1968年に関西で生まれたアタシのような人間にとっては、間違っても「当たり前」ではなかったのです。

 1968年、と言えば横山ノックが参院選に出馬するために「漫画トリオ」の活動を休止した年です。
 「パンパカパーン!今週のハイライト」で知られた、横山ノック、横山フック、横山パンチ(=上岡龍太郎)によるトリオはこれを契機に違う方向性というか活動のフィールドを変えざるを得ませんでした。
 

 漫画トリオの<顔>は誰がなんと言おうと横山ノックです。
 もっとも芸歴が長く、年長で、強烈なキャラクターを持つ横山ノックがいたからこそ漫画トリオは売れたと言っても過言ではない。
 というか元々漫画トリオは横山ノックがジャズ喫茶で司会見習いをしていた小林龍太郎少年をスカウトしたことから始まっているので、本当はノックと上岡の関係は師弟関係に近いのです。
 同じグループである、また横山ノックという人間のパーソナリティもあって師弟というよりは「仲間、同志」というニュアンスが濃かったのは事実ですが、それでも絶対権力者はノックであり、そのノックが国会議員になる、漫才が出来なくなるという意向も絶対的だったと思う。
 上岡は「むしろ新しいフィールドに行くチャンス」と捉えていたようですが、何にしろ、上岡龍太郎は以降、如何にも芸人的な活動を大幅に縮小することになるわけです。

 もう一度言います。アタシは1968年生まれです。そんなアタシが物心がついた頃、要するに1970年代後半くらいの話ですが、上岡龍太郎は完全な「司会者」でした。
 何しろ生まれた年に漫画トリオは活動停止しているのだから<芸人>上岡龍太郎は知らない。でも数々の関西ローカル番組で<司会>をする上岡龍太郎は嫌と言うほど見ていた。
 具体的には

・ラブアタック!(朝日放送)
・ノックは無用!(関西テレビ)
・花の新婚!カンピューター作戦(関西テレビ)


 これは1980年、つまりアタシが小学6年生だった頃にこれだけの番組をやっていた。しかもすべて土日の午前から昼の番組なので小学生にも見やすい時間帯です。
 こうなると子供心に、まさかこの人が芸人だなんて思わない。ま、司会たっていろいろあるんだけど、とてつもなく流暢な喋りと進行ぶりからは「笑わせてナンボ」といった芸人らしさを感じ取ることは無理だったんです。
 先述の通り、上岡龍太郎はジャズ喫茶の司会見習いとしてこの世界に入っています。だから司会業に抵抗はなかったんだろうけど、あまりにも達者きわまる司会ぶりは芸人としての印象を極端に弱くしてしまった。
 もちろんこの間もラジオ大阪で「歌って笑ってドンドコドン」などの、比較的芸人色が出た番組はやっていたのですが、ウチのようにラジオを聴く習慣のない家庭の子供はそんなことは知らないし、深夜番組でもやはり、たまに芸人色が色濃く出た番組に出演することもありましたが、これまた子供には関係ない。

 上岡龍太郎は<司会者>である。これはもう、漫画トリオの漫才を見たことがない、当時の子供たちには絶対的だった。それは間違いない。
 ただしまったく、アタシの世代でも<芸人>としての上岡龍太郎を見たことがなかったのかというとそうではありません。
 本当にごく稀に漫画トリオとして漫才をやることがあったし、アタシは漫談をする姿をテレビで見たことがある。これが本当に「子供の頃」だったかの確証はないんだけど、ま、「童貞時代」だったことは間違いない。
 例の「芸は一流、人気は二流、ギャラは三流。恵まれない天才、上岡龍太郎です」という挨拶を大幅に膨らませたもので、これが実に面白かったのですが、それでもまだ<芸人>がやる面白い漫談というよりは「喋りが面白いタレント」くらいの感覚だったと思う。
 そして、それから数年後、たぶん「鶴瓶上岡パペポTV」が始まる2、3年前くらいだったと思うのですが、深夜枠の特番で漫才師のランキングを決めるというのがあったんですよ。
 要するに一般人からアンケートを取ってきた結果について出演者であーだこーだダベるみたいな番組でね、ここで初めて、アタシは上岡龍太郎の本領を見た。

「そもそも、いとこい先生(夢路いとし、喜味こいし)をこんなランキングに入れること自体が失礼」

「やすきよ(横山やすし、西川きよし)、そんなオモロいか?笑わせてるの、きよしの嫁さんガイジンや、というとこと、やすしが捕まった話だけやないか」

 アタシはココで上岡龍太郎が如何に見巧者だったかについて書いてますが、こうした「ズバ抜けた<芸人>としての能力」はラジオ番組や深夜枠の一部番組以外でほとんど発揮する場面もなく、アタシ流に上岡龍太郎の挨拶を改変するなら「芸は一流、ポジショニングは三流」だったと思う。
 もちろん理由はあります。まず上岡龍太郎自身が極端に上昇志向が薄かったこと、そして漫画トリオ時代に吉本興業から独立して以降は個人事務所で活動しており(ただし吉本興業からは当時としては非常に珍しい円満退社で、吉本との関係もずっと良好だったためか弟子のテントもぜんじろうも吉本興業に所属している)、大きな仕事、つまりキー局での仕事を取りづらい状況もあった。

 それでもさすがに、あまりにも仕事が司会業に偏りすぎていますし、上岡自身、そのことにたいしてどう思っていたのかはわからない。
 ちょうどそんなタイミングでパペポの話が来たと思うのですが、番組開始当初は上岡の立ち位置がきわめて曖昧で、下手したらパペポだってただの司会者というか、鶴瓶の話に相槌を打ってるだけのポジションになった可能性もあるんです。
 それが反転したのはPage1で書いた「下足札」の回からでしょうが、上岡自身、パペポにたいしてのコツを掴んだのもこの頃だったと思う。
 実際、7年も経った1995年の新春特番で上岡が「下足札」の話を「印象に残っている」と挙げているわけで、当人的にも手応えを掴んだのはこの回、と言って間違いではないと思う。
 ではいったい、上岡龍太郎はどのような手応えを得たか、です。

で、突っ込みの日佐丸さんが筋を進めようとする。ボケ役のラッパさんが横からあいづち打つけど、これがまたとんちんかんないらんこと言う。
(中略)
「俺が説明して、お客さんよろこばそうと思うてんのに(後略)」とイライラしてくる。
(中略)
また日佐丸さんが話を前に進めようとするけども、またラッパさんがアホなことを懲りずに言う。
(中略)
最後には本当に我慢できなくて、「ええ加減にせえ!おまえとはやっとられんわ!ハハーッ、サイナラー」っちゅうて降りていくんだと。
(後略)


 これは先述した「上岡龍太郎かく語りき」からの、平和ラッパ・日佐丸について記した箇所の引用ですが、もう、読んでもらえればわかるように、まんま、これをパペポに流用しているのです。
 上記引用で重要なのはここです。

・突っ込みの日佐丸さんが筋を進めようとする
・ボケ役のラッパさんが横からあいづち打つけど、これがまたとんちんかんないらんこと言う

 「鶴瓶上岡パペポTV」という番組において「筋を進めようとする」(=ツッコミ)のは鶴瓶です。そして「横からあいづち打つ」(=ボケ)のは上岡ということになる。
 一般には「鶴瓶=ボケ、上岡=ツッコミ」というイメージが強いし、いまだに「パペポは鶴瓶が間違ったことを言い出して、それを上岡がツッコむ」と記憶している人もいる。
 しかし実態はまったく逆で、そりゃあ上岡がツッコむことも皆無ではなかったけど、上岡のツッコミで<笑い>が弾ける場面はほとんどないのです。
 むしろ、上岡に、そして番組観覧者に終始ツッコんでいたのは鶴瓶であり、鶴瓶の「じゃかわしわ!(=やかましいわ=うるさいわ)」とか「オッサン(=上岡)、ええ加減にせえよ」といった怒声に近いツッコミは他の番組でほぼ聞いたことがありません。
 漫才の定型を番組に流用する、というふうにしたのは上岡の発想だろうし、何よりツッコミのイメージが強い、見た目のスタイリッシュさと併せて「頭は良いのかもしれないけど、のべつ怒り狂ってる人」みたいなイメージを逆手に取ったような上岡の徹底的なボケぶりは間違いなく番組に奥行きを与えたし、この番組でしか見れない上岡、そしてこの番組でしか見れない鶴瓶、というふうになった。
 結局はそれもこれも、上岡龍太郎の「出自は漫才師」というのが活きたのです。

 では鶴瓶側の心理はどうだったかです。
 上岡龍太郎の出自が漫才師ならば、笑福亭鶴瓶の出自は噺家ということになる。芸の系譜としてはココでも記したように落語がベースとは言い難いのですが、それでも、少なくとも漫才がベースではないことはたしかです。
 そして鶴瓶が落語的ムードや落語的展開を好んだのも間違いなく、ハチャメチャな展開に終始しながら最後は意外なオチ(=サゲ)で終わる「下足札」のネタなどまさにそういう展開になっている。
 ただし度々「予定調和が嫌い」と語っているように、おそらく鶴瓶の理想は「完全アドリブの落語」だったのではないか。
 いや本当に、完全にアドリブでなくてもいい。しかし<場>の空気を優先した、仮に同じネタでも<場>の空気が変わればネタの方向性も変わるようにしたかったと思うのです。
 Page1にて「下足札」のネタは1995年の新春特番で<反芻>されたと書きましたが、ネタはまったく同じでありながら1988年版の大爆笑ネタとはまるで違い、どちらかというと師匠である笑福亭松鶴への想いが滲み出た、完全な「良い話」として消化されています。

 同じ話を何度も<反芻>するというのもパペポの(ひいては落語の)特徴で、実際何度も繰り返し語られたネタも多い。
 数える気はありませんが、複数回以上話されたネタは枚挙に暇がない。とくに繰り返されたネタといえば

・修学旅行で女生徒の部屋を天井から覗き見した話
・高速道路から飛び降りようとした話
・壁をよじ登って自宅に入ろうとした話
・カノジョ(のちの嫁)と初めて連れ込み旅館に行った話
・野糞をして大怪我した話
・関西テレビのイワサキさんの話
・火を吹くマネージャーの話
・子供の頃に馬券(万馬券?)が当たった話
・やっちゃんを飛ばした話
・スプーン曲げの話
・小豆島で盲腸の手術をした話
・青木先生の話

 あたりでしょう。
 余談ですが、よくパペポの代表的なネタとして挙がる「塚本7km」や「たべに」、「暗証番号」はあまりにもインパクトが強かったせいか、話の遡上に挙がることはあっても、話全体が反芻されたことはなかったはずです。
 これらのネタは時にほぼ全体を、時に部分部分を反芻しており、とくに「カノジョ(のちの嫁)と初めて連れ込み旅館に行った話」を含めた玲子夫人との出会いから結婚に至るまでの経緯は「鶴瓶上岡パペポTV」の後継番組となった「鶴+龍」の1998年11月18日、25日放送分で一気に語られており、まるで上方落語の連作「東の旅」が全編一気にひとつの落語会で語られたような至福感がありました。


 こう考えると笑福亭鶴瓶が上岡龍太郎を「ガチンコトークの相方」にした意味がはっきりする。
 上岡龍太郎は漫才の定型をパペポに流用したことはしたけど、完全に漫才にすることはなかった。
 漫才の場合、いくらツッコミが話を進めようとしても結局は最後ボケに邪魔をされて話が最後まで語り終えられることはない。
 上岡はたしかに鶴瓶の話の邪魔をした。しまくった。「ほんなら漢字で書いてみぃ」などと無理難題を押し付けることは日常茶飯事だった。
 しかし漫才とあきらかに違うのは「ツッコミ(パペポで言えば鶴瓶)の話を完全に潰してはしまわない」というところです。
 邪魔はするんだけど、時間を見計らって、話が佳境に入ると絶妙な相槌で話の進行をスムーズにさせて鶴瓶に最後まで語らせ終わらせている。

 鶴瓶は鶴瓶で、自分のネタが予定調和にならないレベルで邪魔をしてくる上岡にツッコミながら、また番組観覧者にもツッコミながら、要するに崩壊する寸前まで話が広げるにもかかわらず、ちゃんとオチまで喋り切ることが出来た。
 そんなことをやらせてくれる相方は上岡龍太郎以外にいない。つまり「オチこそ決まってるとはいえどう転がるかわからない落語」という鶴瓶にとってもベストなものに出来たのも上岡龍太郎がいればこそなんです。
 ダウンタウン松本人志は「一番すごいと思う芸人は鶴瓶さんだけど、ひとりで喋らせたら意外とオモロない」と語っていますが、完全なひとり喋りの場合、どうしても鶴瓶の計算から外れることが起きづらく、図らずも予定調和になりやすい。
 要するに、鶴瓶という芸人のポテンシャルを発揮させようとなると相方がいる。というかきわめて珍しい「相方が必要な噺家」なんです。相方がいればこそ予定調和から外れるわけで、中でも天性のボケ芸人である横山ノックのツッコミで鍛えられた、自らを「猿廻し」と自称する上岡龍太郎ほど鶴瓶の相方として相応しい相手はいなかった、そう思います。

 上岡龍太郎は2023年、81歳でこの世を去りました。
 2000年に引退して以降はメディアに登場することはほぼ皆無で、いわば<芸人>上岡龍太郎は「鶴瓶上岡パペポTV」という番組で蘇生し、引退=番組終了とともに終えた、と言える。
 上岡龍太郎の死は大々的に伝えられたのですが、もし、あの伝説的な番組、もちろん「鶴瓶上岡パペポTV」ですが、がなければ、ここまで大きく報道されたかどうか。現役で、しかも晩年までそれなりに活躍していても逝去にニュースバリューがない人も多いのに、20年以上前に引退した人がここまで大きく報じられたことは快挙と言ってもいいはずです。あの大スターだった、同じく引退から時間が経っていた原節子の逝去の時よりも大きく報じられていたのはすごすぎます。

 ただね、いくら現役の芸人が「上岡龍太郎はすごかった!」と語ろうが、その<芸>を見る術がない。
 上岡龍太郎の<芸>、それは漫才や晩年にチャレンジしていた講談ではなく、やはりフリートークです。そう、今でさえ<余芸>と見做されがちな、あのフリートーク。
 上岡がフリートーク芸を遺憾なく発揮出来た唯一無二の番組が「鶴瓶上岡パペポTV」であり、その番組がまともに視聴出来ないというのは芸能の損失だと思う。メディア化も配信もされないのは鶴瓶、上岡双方の意向だと言われますが、上岡龍太郎が逝去した今、本当に「気軽に観賞することが不可能」という状況を見直す時なんじゃないでしょうか。

 立川談志は上岡龍太郎について「芸人に憧れ、しかしついぞ芸人にはなれなかった」と語っていましたが、それよりも個人的には立川談志の言葉を改変してこう言いたい。

「フリートークという芸の枠はない。どんな形でもできるのがフリートークなんだ。だからフリートークは芸じゃない。でも、上岡龍太郎は芸ですよ。「上岡龍太郎」という芸なんです」

えと、2023年11月に「いったい笑福亭鶴瓶って何なんだ?」というエントリを追加した際、そのエントリから大量に流用していた当エントリも大幅改稿したのですが、結局、元の「複眼単眼・鶴瓶上岡パペポTV」からの流用はほぼゼロで、イチから書き直す形になりました。
正直言えば元の文章は個人的な思い出話があったりなんかして、あまり「複眼単眼」っぽくなかったのですが、全部を整理して「カンドコロ」と関係ない箇所を容赦なくカットして構成したことで「複眼単眼」らしくなったのではないかと思います。
もちろん大幅に追記もしているのですが、なるべく、この駄文を読んだだけで「そんな面白い番組だったのか!是非見てみたい!」、そして当時のパペポ愛好者には「懐かしいなぁ!そんなネタもあったよなぁ!」と思ってもらえるように書いたつもりです。
あとやっぱ、2023年に上岡龍太郎が逝去されたのも大きかったというか、当然そのことに触れないわけにはいかなかったし、パペポでの鶴瓶の話同様、反芻するにしても書いた時期によって微妙にテイストが異なってるのもいいかなと。
もういっこだけ。たしかにパペポのメディア化が難しいのはわかるんだけど、せめて阪神淡路大震災の直後に収録された、通称「怒りのパペポ」だけでも何とかならんのか、と思う。
アタシもいろいろ、阪神淡路大震災については調べたり、神戸にある「人と防災未来センター」なんて施設まで行ったけど、後世の人に「震災の<後>にどうするべきか」は「怒りのパペポ」が最高の言い伝えになるんじゃないかと。




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