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いったい笑福亭鶴瓶って何なんだ?
FirstUPDATE2018.10.16
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 アタシが笑福亭鶴瓶から常に感じるのは「怖さ」です。しかし明石家さんまやナインティナインが言うような「本当は悪い人」というような怖さではない。というか別に悪い人だとは思わないというか、悪い=怖いとか、そういうことではないんですよ。

 鶴瓶はよく「目が笑っていない」と言われるけど、アタシはそうも思わない。ただし別のことをいつも感じる。
 鶴瓶はどんな時も、目の奥に狂気が光っている、と。さすがにその表現はヤバいので「笑ってない」というソフトな表現にしているのかもしれませんが。
 そんなね、常に目の奥が狂気で光っている人間なんて、怖くて当然ですよ。鶴瓶のような狂気じみた、得体の知れない怖さのある人に話しかけるなんて、アタシみたいな気の小さい人間には無理です。
 ただそれは想像の範疇だから無理だと決めつけているだけの話です。そこが狂人の面白いところなんだけど、狂人には理屈やなんやを全部吹っ飛ばしてしまうような、視線を逸らさせない「何か」があるんですよ。

たぶんこの人もホームレスだと思うんだけど、結構年配の黒人でね。(中略)たまにわりと大声で歌いながら歩いてる時もあって、これがすごいんですよ。何がすごいって、もうめちゃくちゃ上手い。そのオカシナ人がね、一度呼び込みの姉ちゃんに絡んでいって、その姉ちゃんの売り文句を片っ端からラップにしていくんだけど、もう心底ビックリした。・・・何これ?今その場で聞いた売り文句をそのままリズムに乗せてるだけだよね?じゃあ何でそんな上手いんだ!そんでもって何でこんなにカッコいいんだ!(2014年6月10日更新「こんなん勝てるわけないやん」


 上記の引用はロンドンでの体験談ですが、これを受ける形で、アタシはまたこんなことも書いています。

やっぱね、アタマのオカシイ人ってつい目をやってしまうもんなんです。しかしそれだけではすぐ目を背けてしまう。でもそこにとんでもない歌唱力なりなんなりがあったら、つい見入ってしまう。さらにオチまでつけて、実はこれはエンターテイメントだったんだとなったら、笑うとかいう以前に呆然となってしまう。紅白での植木等はまさにそれでしたからね。しかも「アタマがオカシイ」の演技ぽさが皆無で血肉レベルだったんだから、なんだこれは!となった人がいっぱいいて当然なんですよ(2015年4月7日更新「クレージーキャッツファンを増やす努力を今一度試みる」


 鶴瓶はどんな時もえびす顔で人前に現れます。しかしそれは、けして人々を安堵させる笑顔ではありません。むしろ緊張させる笑顔です。
 しかし緊張させられている時点ですでに惹きつけられている(引きつけられている、かもしれないけど)ということになる。
 たとえばファミレスかなんかで、異様に見た目もわかりやすいヤ◯ザが座った時の心境と考えれば理解しやすい。
 普通は隣の席の人のことなんて気にも止めないのに(ま、人間ウォッチングが趣味なんて人もいるから一概にはいえないけど)、相手がヤ◯ザなら、少なくとも無関心ではおれない。間違ってもじっくり観察なんてことはないにしても、一挙手一投足に注意を払うことになる。
 つまりはね、これってやっぱり惹きつけられていることに他ならないんですよ。本当にどうでも良ければ脳内で<存在しない>と処理してもいいのに、そう出来ないってのは、仮に目を逸らせられない理由が恐怖だとしても、惹きつけられている証拠です。

 まァ、ヤ◯ザの場合はちょっと違うんだけど、アタシはね「狂人ほど魅力的な人たちはいない」と思っている。言い方を変えれば「狂人は狂人であることがその人の魅力のすべて」だとも言える。
 狂人の前では如何なる理屈も通用しないのです。その狂人が芸人だとして、どれだけ論理的に、その芸がたいしたことがないか、レベルが低いかを力説しても、狂人の魅力に打ちのめされた受取手は笑い転げる。
 アタシは20代の頃、つまりYabuniraを始めるずっと前に「鶴瓶が教祖になる」というコントを作ったことがあるのですが、如何なる批判的な理屈も通用しない、存在するだけで人を惹きつける鶴瓶のような人は新興宗教の教祖に向いているんです。
 実際、鶴瓶のファンは鶴瓶教の信者の如きだとよく言われたし、鶴瓶本人にはまったく意識がないとしても、無作為にファンを増やす行動を好むところがある。

 この「持って生まれた教祖体質」とでも言えばいいのか、これが鶴瓶という芸人の評価を難しくしている気がするんです。
 <狂人>だったり<教祖体質>といったフィルタを通せば言動の理解は出来るんだけど、そのせいで芸そのものが覆い隠されているっつーか。

 ではそんな鶴瓶のことを芸人仲間はいったいどのように見ていたのか。
 上岡龍太郎は長年「鶴瓶上岡パペポTV」でコンビを組み、当人が極めて分析能力がかったこともあって、実に鋭い鶴瓶評を語っています。
 鶴瓶の<芸>としての魅力は「素人芸」だと。むろん素人レベルだと言っているのではなく、素人の喋りが持つ「真実味」や「臨場感」を<プロの技>として完成させている、ということを言いたいわけです。
 しかし上岡龍太郎の言葉でひとつだけ違和感があることがあります。
 上岡龍太郎は素人芸の魅力を語る時に、必ず鶴瓶と並べて明石家さんまの名前を出した。いやアタシも明石家さんまも<芸>としては鶴瓶と同系統の素人喋りのプロだとは思う。
 しかし明石家さんまはかなり早い時期にフリートークから足を洗っているのです。

 こんなことを書けば「あんたまさか「さんまのまんま」も「さんま御殿」も知らないのか」と思われるかもしれませんが、これらは基本、ゲストを喋らせるための番組です。司会のさんまに求められるのは「仕切り」と「リアクション」であって、フリートークのスキルではない。むろんたまにスキルを垣間見せる時はありますが、フリートークのスキルがなければ番組自体が回らない、と言えるほどの重要度はない。

 他は「明石家電視台」のオープニングでちょっと、ラジオ(「ヤングタウン土曜日」)でもフリートークを展開することはありますが、どれも仮にフリートークが一切なくても番組を進行させることは出来るんです。

 しかし「パペポ」は違う。鶴瓶のフリートークがなければ番組が成り立たない。実際鶴瓶は毎回60分間分のトーク材料を持った状態で出演していたと言いますが、仮に上岡龍太郎が一切自分のトークをしなくても、己の話術だけで番組を成立させようとした。もちろんただ番組を成立させるだけではなく「面白い番組として成立させよう」としていたのです。
 アタシはこれこそ鶴瓶の狂人ぶりが如実に出たエピソードだと思う。「天才」や「お笑い怪獣」などと鶴瓶以上に狂人扱いされることが多い明石家さんまでさえ、フリートーク前提の番組は早々に投げた。こんなことを続けたら摩耗する、とてもじゃないけど身がもたない、そう感じていたことは想像に難くない。
 鶴瓶は違った。週一の番組を10年以上にわたって続けた。トークスキルというよりは「スベることなど許されない」人気番組で毎週フリートークを続けるというメンタル。これが狂人の為せる技でなくて何なんだろう。

 ただ、相方である上岡龍太郎はどうだったんでしょうか。
 上岡龍太郎は鶴瓶に比べれば圧倒的に普通の人間です。鶴瓶のような狂人ではなく「狂人の最大の理解者」と言った方がいい。横山ノックという狂人とともにしたことから芸人人生をスタートさせたことを考えれば、むしろ「自分から好んで狂人の側に行きたがる人」でさえあったと思う。
 しかしいくら狂人の理解者だとはいえ、極めてプレッシャーの強い「フリートークが売りの人気番組」を10年以上続けるというのは、常人寄りの上岡龍太郎には耐えられないことではなかったのか、と思う。

 上岡龍太郎は宣言通り2000年に引退しますが、もし「パペポ」をやってなかったからこんなに早く引退するという選択はなかったのではないかという気がするのです。
 何というか、上岡龍太郎という芸人は求道者的な意味合いでの天才芸人でしたが、狂人芸人である鶴瓶と番組を続けることによって「求道の虚しさ」が去来したような気がする。
 どれだけ修練を積んでも狂人の前にはひとたまりもない。しかも近寄れば近寄るほど摩耗していく。にもかかわらず狂人は何も摩耗することなく、そして自分ほどのプレッシャーを感じることもなく「当たり前のようにフリートークを繰り広げて笑いをさらっていく」のです。
 むしろこれで「芸人を続けよう」と思う方がどうかしてる、とさえ思ってしまうわけで。

 だからこそ「鶴瓶上岡パペポTV」は伝説的な番組になったと思う。
 狂人の理解者を相方に据えて、遠慮なく己の狂人ぶりを発揮出来た笑福亭鶴瓶、常人でありながらその天才的話芸でギリギリのところで対抗し続けた上岡龍太郎。これで伝説的番組にならないわけがない。
 それでも週一の番組では、鶴瓶本人は摩耗しないにしろ、普通ならネタが枯渇するはずです。しかし狂人にはそんな心配さえ必要なかった。鶴瓶は私生活をすべてオープンにすることによってネタを生み続けたんだから。
 「パペポ」のニューヨーク公演を中心に据えたドキュメンタリー番組「スーパーテレビ」の中で鶴瓶は「(上岡龍太郎は)普通の人なんです。カメラの前とプライベートをはっきり分けたい人なんです」というようなことを語っていましたが、これは当たり前すぎるくらい当たり前なんですよ。別に上岡龍太郎でなくても、ほぼすべての芸能人は仕事とプライベートを分けたがる。
 しかし狂人である鶴瓶には上岡龍太郎の行動を、理解出来ないとまでは言えないのかもしれないけど、疑問に思っている。本心では「そんなん分けんでもよろしいやないか。分けん方がオモロいネタ、いっぱい出来まっせ」というふうに。

 さて、ここまでアタシは、笑福亭鶴瓶という人は狂人であるが故に「人を惹きつけることが出来る」「極めてプレッシャーの強いフリートーク番組を何年も続けることが出来る」「私生活をすべてオープンにすることが可能で、故にネタを積み重ねることが出来る」と書いてきました。
 しかしこれではまだ不十分です。何故なら「どうやって笑い転げさせるまでいけるのか」について書いてないからです。

 鶴瓶は師匠である笑福亭松鶴から落語を教わっていない。これはPage1にも書きました。(実際には「東の旅 発端」の序盤で頓挫したらしい)
 この「落語が出来ない噺家」というのは鶴瓶にとってコンプレックスであったことは間違いない。いくら爆笑をさらおうが所詮余技だけの男だ、と見做される。少なくとも心地良いものではありません。(オフィシャルイメージからすれば意外かもしれないけど、この人はかなりプライドが高いように思う)
 そのせいか、近年になって落語に挑戦し出した。鶴瓶噺を落語化した「私落語(わたくしらくご)」だけでなく古典にもチャレンジし始めた。ついには松鶴の代表的な持ちネタだった大作「らくだ」にまで挑んだのです。

 アタシは鶴瓶の落語を見た機会はそんなにない。生で二度ほど、テレビで数度程度です。だから断言するには心細いんだけど、少なくとも立ちトークで展開される鶴瓶噺より数段劣るといった印象を受けました。
 何というか、鶴瓶噺で発散されている面白さがスポイルされている、というか。しかも巧拙とはぜんぜん関係ない部分で。

 アタシはね、鶴瓶の面白さ(この場合の「面白さ」とは笑いを誘発するポイントを指す)の根源にあるのは「動き」だと思っているんです。と言っても好んでやりたがる、いわゆる鶴瓶ダンスではない。
 鶴瓶<噺>なんて言いますが、実は喋っている最中に相当動き回っているのです。表情の豊かさ、身振り手振りもありますが、ここ一番では身体ごと動かす。この動きだけ見ても笑えてしまうっつーか。
 動きが根源と書きましたが、その動きのさらに根幹と言えるのは「腰」であり、腰の動きが良い意味で、何ともいえず卑猥なんですよ。

 戸部田誠氏は「笑福亭鶴瓶論」の中で<スケベ>というキーワードを導き出し、そこから論を展開しています。
 この著作でいう<スケベ>というのはあくまで精神的なことです。スケベ心があるからこそ鶴瓶は自分を自分で持ち上げることが出来る。そのことへの疑問はない。
 アタシの言う<卑猥>は受取手がもっとダイレクトに受け取るものです。卑猥っつーか猥談に共通して言えるのですが、猥談ってのは戯画化して提示すると、ネタのクオリティはさほどではなくても笑いを誘うことが出来るんです。
 鶴瓶は露出癖のようなものがあり(この辺も狂人性のあらわれなのですが)、今でも検索すれば簡単に鶴瓶のイチモツを見ることが出来ますが、今や鶴瓶が包茎であることは知れ渡っている。包茎は見るものに幼児性を感じさせるわけで、つまりはイチモツさえ<卑猥の戯画化>の役に立っているのです。

 戯画化された卑猥さを封じ込める、座ってやる落語では鶴瓶の面白さがスポイルされるのは当然で、伝統を重んじるような真似はやるべきではないと思う。
 鶴瓶の持つ狂人性と戯画化された卑猥さを活かせる古典の噺はあります。別に艶笑ネタをやれってんじゃないですよ。むしろ自然な卑猥さがあるんだから下手に艶笑ネタなんかやらない方がいい。
 何より立ってやることが重要なんです。噺なんて鶴瓶の体験談でも古典でも何でもいい。立ってやることによって伝統でも余芸でもない、完璧な鶴瓶スタイルみたいなものが生まれる気がするのです。

 アタシはね、もしかしたら史上唯一、性行為が笑いになる芸人ではないかと思っているのです。
 性行為をしながら笑わせるために喋る。まさに狂人の所業ですが、ここまで狂人の極致のようなことをしても、見てる者がさして違和感なく笑えるのではないかと。
 考えてみれば「家族に乾杯」なんか、街の人と触れ合う姿などは性行為の一歩手前なのです。一見とっつきやすそうな顔をしながら、目の奥は常に狂気を孕んでいる。まさに性行為に及ばんとする前の男性そのものの姿です。
 鶴瓶と触れ合う人たちは、本能的には狂気を感じながらも狂人ぶりに魅せられ引き寄せられていく。テレビだから「その後」はないとはいえ、段取り自体は性行為に至るまでと同じ段階を踏んでいる。
 ならば、いっそ、性行為そのものを見せても違和感はないはずです。イヤラシサなど皆無で、あまりにも自然なこととして、若い女性と鶴瓶の行為を「笑いながら」見ることが出来るんじゃないか。

 さすがに今はそんなことはしてないみたいですが、かつての鶴瓶は「ぬかる民」と呼ばれた「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」というラジオ番組のヘビーリスナー(もちろん女性もいる)や、「鶴瓶と花の女子大生」の出演者だった女子大生と何度も旅行に繰り出している。
 普通なら、旅先で何もなかろうが「不快な行為」に映るはずです。イヤラシイ。絶対何人か「食って」るだろ、と。
 しかし鶴瓶の場合はそうはならない。仮に「食って」たとしても、鶴瓶だからなぁ、というか面白そうだから食ってるところを見たかったな、となってしまうと思うから。

 そろそろまとめに入りますが、こんな「狂人」とか「教祖体質」とか「卑猥」とか「性行為が笑いになる」みたいな、とても放送出来ないような言葉でしか説明出来ない人を、真面目な感じで論評するとか土台無理なんです。
 アタシは一番最初に鶴瓶について「自信をなくす存在」と書いたけど、結局ここまで開き直って、つまりもし笑福亭鶴瓶ご本人がこの駄文を読んだら怒りかねないような表現を用いてでしか分析出来なかった。
 ただアタシは、狂人芸人というのは最大限の賛辞だと思っています。だって誰も真似出来ないでしょ。真似出来ないってことは、これからも唯一無二であり続けるんだからね。

鶴瓶という人が非常にユニークなのは、ベースが「フリートークの人」であるにもかかわらず意外と演技が出来ることで、「ディアドクター」や山田洋次映画で存在感を見せつけています。
ただね、これ、どれも比較的年齢が行ってからの作品なんですよ。
鶴瓶の持つ<狂気性>と<善人性>は松竹大船喜劇にピッタリで、もっと若いうちに鶴瓶のパーソナリティを全面に活かした喜劇が作られていたら、渥美清の<次>の喜劇役者としてもっと確固たる存在になったんじゃないかと。
フリートークという<芸>はどうしても後年の評価が難しいので、これからさらに笑福亭鶴瓶という人の評価が難しい時代になってくると思う。しかし映画はそうではない。50年後、100年後でも評価が可能なんです。
ま、この人も明石家さんま同様、あんまり後世の評価を気にしてないというか、目の前のお客が笑ってくれたんやったら、そんなん後世の評価とかどうでもよろしいやないか、というタイプだと思うんですけどね。




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