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決別に花束を
FirstUPDATE2017.8.29
@Classic #2003年 @笠置シズ子 #体験 #2010年代 #東京 #人形町 #日記 #メンタル @戦前 全3ページ 退職 虚無 @川畑文子 モダニズム建築 江分利満氏の優雅な生活 二階堂 ★Best

 えと、ここからPage3ですが、2003年のもうひとつの大きな出来事と言えば「阪神タイガース18年ぶりの優勝」が挙げられます。
 阪神贔屓のアタシとしては、あり得ないくらい大きいことなんだけど、本エントリでは野球関係、阪神関係の話は全オミットしています。
 その辺の話は「星の去る音」をお読みください。
 それでは本題に戻ります。
 
 17時半になった。
 とりあえず2003年の日記を読むのは一時中断して、晩飯を食いに行こう。
 これはもう、決めていた。昨日の時点でも候補に挙がっていた、人形町交差点からほど近い洋食屋の「キラク」です。
 
 キラク、と言えば個人的にポークソテーなので、もちろんそれを注文。
 うん、やっぱ、美味い。とくにソースが絶品だわ。
 
 ホテルに戻る。そして、日記読みの続き。
 
 

2003年5月1日
ふつうになりたいな。ふつうの人間になりたいな。山口瞳のように、この人は才人だけれども、ふつうの、ヘンテコリンな人だと思うから。ふつうの幸せがほしい。あまりにも馬鹿正直な話だが。生まれて初めて平凡な幸せを手にいれたいと思った。
今年は本当の意味での人生の節目じゃないかと思う。この三年ほどは、目に見えるほど激動の年だったが、今年はイヤに静かに、ローテンションのまま、そして確実に自分の中の何かが変わろうとしている。そしてその結果、どうなっていくのかは自分でもさっぱりわからないが。
なんとかなるだろう。いや、どうにかしなきゃしかたがないんだから。


 まだ虚無感は若干残っているけど、とにかく立ち直ろうという気概だけは見えますな。
 ただね、これは言っておく。『この三年ほどは、目に見えるほど激動の年だったが』なんて書いてるけど、この後の人生の激動はこんなもんじゃないからな!
 
 

2003年5月4日
せっかくの3連休中日、もうちょっとアクティブに行動してもよさそうなもんだが、先立つものがないと手も足もでないわけで(現注・前々日にキャッシュカードを紛失したため、しかもゴールデンウィーク中のため現金が引き出せず、手持ちのカネがなくなってしまった)。まぁ来週の福岡行きを考えたら、ここで節約しておくのは悪いことではないんだけども。
金がない(正確には金がおろせない)以上、清貧なるすごし方をせざるをえないわけで、そうなってくるとこの近辺に住むありがたみを感じるわけです。
というわけで、今日は
「僕の好きな場所・日本橋周辺編」です。
まずは

●オリパ(現注・現存せず)
これは外せません。ここだけは他の地域では替えがきかないというか、とにかくこれほどマターリできるカフェは初めてです。しかもベトナムコーヒーは本当においしいし。

つづきまして

●TーCAT
東京シティエアターミナル、略してTーCATです。今日も行ってきたんですけどね(笑)。ここに来るたび思うのが「俺って空港の空気感が好きなんだな」ということです。日常からちょっとだけはみだした感覚がなんとなく心地いい。病院とか役所とかもそうなんだけど、そこまでいくと、ちょっと悪い緊張感があるし。その点空港は、あの旅のわくわく感がよい緊張感をもたせてくれますから。とはいえTーCATはあくまで擬似体験なんだけど。それにここは種類が少ないとはいえ、立ち読みができるのもポイントが高いです。

さあドンドンいくよ

●清澄庭園(現注・おそらく清澄公園の誤り)
なんせ引っ越してくる前から目をつけていたスポットだったからね。なんだかとっても落ち着きのある公園。しかもここに行くには<あの>清洲橋を渡るのも楽しみのひとつ。プチ今井良介(現注・「男女7人夏物語」の主人公。演・明石家さんま)気分です。あれから約20年(現注・実際には「男女7人夏物語」の放送から15年ほど。ただの計算間違いか?)。今自分があの世界に実際に住んでいるのが不思議というかなんというか。
ところで、ここにきて浜町公園というライバルが出現してきました。近場最高公園の座はどちらの手に!?

●大和証券本社(現注・現存せず)
<近場>というには少し遠いんですけど、今俺の中で一番ホットなゾーンです。昭和30年代の東宝フェチの俺にとって、ここはメッカといっても過言ではありません。とにかくこのビルをみるだけでヤル気がみなぎります。
ほかには・・・

レトロ文献が充実している文教堂書店、その文教堂とは少し違う品揃えがうれしいピスモ(現注・現存せず)、外観がすばらしい日本橋高島屋、さいきん行ってないがアート系の本が充実している丸善、etc・・・。
さらに純粋な食い物屋を含めたら、それこそ浜町藪そばから、キラク、カレー革命(現注・現存せず)に至るまであるわけですからね。
この辺は俺にとって、湘南以来の居心地のよさを感じます。やっぱ関東の方が肌に合ってるんでしょうなぁ。だから東京で生活をし、たまに福岡に息抜きに行くってのがベストなんですねどね。となると関西は・・・?この問題はいずれまたゆっくりと・・・。ではまた。

 
 これまた長々と引用しましたが、もうここまで来るとほとんど日記ではないですよね。
 にしても、この時点(まだ引っ越してきて半年ちょっと)ですでに人形町近辺に深い思い入れを持っていたというのは注目に値します。
 
 そもそもアタシが人形町という街の魅力に気づいたのは、東京に転勤になった翌年、つまり2002年の初頭だったと思います。
 アタシは生まれ故郷の兵庫県神戸市をはじめ、大阪、福岡、そして先の日記にあるように湘南などに居住してきましたが、それらの街と東京には決定的な差があった。
 それは「街としての規模」というような俗な話ではなく、東京にあって他の地方には皆無、とまではいかないけど、図抜けて東京が多いと思ったのが「古い建築物」です。
 古いったって、基本的にアタシは江戸時代以前には興味がないので明治時代以降になるのですが、明治時代以降に建てられた洋風建築が東京には実に多い。
 
 そういう建築物に興味を示す人は多い。ただ多くの人にとって興味の対象は大正期以前のものであり、昭和初期のものはあまり注目されない。
 しかしアタシは昭和初期の建築物が面白いと思った。
 そうした「昭和初期の建築物」に惹かれていく様は2002年のこと(つまり日記執筆前)なので、具体的な<脳内の進捗状況>はわからないのですが、このことで、自分の中で興味が大きく広がったのは間違いない。
 昭和初期から大戦開始前、西暦で言えば1926年から1940年。この時期の建築物はもちろん、いわば<芸能>と呼ばれるものも、大正期以前とは<何か>が違う。
 
 こうしたさなかに人形町という街を知った。
 実際に人形町を訪れてみると、特別モダニズム建築が多いというわけでもない。どちらかというと今様のビジネス街+甘酒横丁を中心とした観光地のようにも思える。
 しかし、街全体を覆う<空気感>が違う。モダニズム建築物の有無に左右されない独特の「戦前モダニズム」の空気が残存している。
 アタシは一発で気に入ってしまった。ああ、もう、ここに住みたいと思った。
 この夢が実現出来たのは初めて人形町を訪れてから約半年後の2002年の夏の終わりです。
 
 人形町に引っ越してから、朝から日付が変わる頃に家に帰るというクソ忙しい生活をしながらでも、アタシの戦前モダニズムは熱を帯びてきた。
 
 

2003年2月23日
大阪人は好きだが、大阪の街に興味がないのは意外と昭和の影がないんだよなぁ。通天閣周辺のベタベタはイヤだし。
東京が好きなのは、まだ昭和の面影がかなり残っているからだと思う。福岡もしかり。ま、福岡は無条件で好きとはいえないが。
やはり蛎殻町(現注・人形町一帯にある地名で当時のアタシの家の正確な住所)を選んだのはベストだったと思う。ここに越してから昭和初期にも興味が出てきたし(現注・もちろん「越してから」ではなく「興味が出てきた」から「越してきた」んだけどね)。となると笠置シヅ子になってしまうんですがね。

 
 

2003年9月7日
(現注・川畑文子について)初期はとんでもなくヘタクソなのだが、どんどんうまくなっていくのが面白い。英語詩は流暢なくせに、日本語詩がカタコトなのは最初期の宇多田ヒカルを思わせる。
とにかくトラックがすばらしい。戦前の流行歌(とくにジャズ・ポップス系のもの)は素直に胸を打つ。

 
 

2003年9月14日
しかしひとつだけいい出来事が。石丸電気のCD館(現注・現存せず)で、ついに笠置シヅ子3枚組を発見!

 
 
 2003年9月と言えば、すでに退職の意向を伝えた後です。
 会社を辞めるということは、イコール人形町の部屋を退去しなければいけないことを意味する。んなもん家賃補助なしにこんな馬鹿高い部屋に住み続けられるわけがない。
 アタシは奄美大島への移住を希望していたけど、それはどうなるかはわからない。最悪、一旦生まれ故郷の神戸に帰ることになるかもしれない。
 つまり、年内には、これほどまでに気に入っていた人形町を離れることは決定していたのです。
 
 退職の意向を伝えた2003年8月は日記が残っていない。どうも何らかのソフトウェア的トラブルがあってデータが消えたみたいなんだけど、とにかく、日記がない以上、その時の心中は図りかねるわけで。
 しかもよほど辛かったのか、いわゆる<記憶の蓋>をした状態になっており、あんまり思い出せないのです。
 それでも無理矢理紐解くと、最後の最後まで「会社を辞める」かどうか迷ったのは「会社を辞めれば人形町から引っ越さなきゃいけない」ということだったように思う。
 最終的に「奄美大島への逃避」という願望を見つけることで退職に傾いたのですが(その辺の話はココ)、それほど人形町という街から離れることは、もっと言うなら「戦前モダニズムという文化の香りがする街」から離れることは避けたいことだったんです。
 残り少ない人形町への在住を惜しむように、さらに戦前モダニズムへの想いが噴出した。それが2003年9月だったわけで。
 
 その後も戦前モダニズムはアタシにとってあまりにも大きなものになりました。
 とくに2015年以降は「アタシの後半生を支配する趣味」とまで言えるほどになった。なんてことはYabuniraの他のエントリを読んでいただければ嫌でもわかっていただけるはずです。
 
 しかし何故ここまで戦前モダニズムに<こだわる>のか、自分でも不思議でした。
 当然のことながら、戦前モダニズム期の<センス>と自分の<センス>が合致している。だからこそ人形町への居住も決めたし、他の戦前モダニズム芸能にも興味を惹かれた。
 さらに、もともと昭和期の古い文化、具体的には1960年代の文化が大好きだった。そもそもアタシが敬愛する植木等ならびにクレージーキャッツだって<元>を辿れば1960年代の象徴だったってのが大きい。
 1960年代に興味を持ったのは小学生の頃だったので、2003年の時点ですでに30年近く経っている。これほど長く興味を惹かれ続けたのは他には野球しかなく、自分の中では「1960年代=殿堂入り」くらいの感じだったんです。
 
 ところが、実にあっさり、戦前モダニズムへの興味は1960年代への興味を追い抜いた。もし今、1960年代のことで知らないことに出くわしても「ふーん、なるほどね」で終わるけど、戦前モダニズムになったら「え!?え!?何が!?」みたいな感じで思いっクソ食いついてしまう。現今それくらいの差があります。
 センス的な好き嫌いでは正直1960年代と戦前モダニズム期にそこまで大きな差があるとは思えない。どちらも文句なしに好きと言える。
 なのに現今の食いつき具合は月とスッポン。これは何かない方がおかしいと。
 
 
 再び時間を2017年に戻します。
 夜が明けた。もう茶目子はいいけど、そろそろチェックアウトの時間なので、急いで帰り支度をする。
 2017年8月29日9時15分、チェックアウト完了。ホテルの外に出ると、すでに、暑い。
 もう一度最後に、かつて居住していたマンションの前まで行ってみる。
 2日前の16時、このマンションの前に立った時とは、あきらかに違う。ほんの少しかもしれないけど、モヤモヤが晴れた。
 
 少なくとも2日前の時点では、ずっと「トップ(ワースト?)クラスの悪い年」と思っていた2003年のどこに<未練>があるのか、そこがずっと引っかかっていた。
 この引っかかりを解消するには実地検証をするしかない、という結論に至り、人形町のホテルに泊まって、それも終えた。
 当時神奈川県に在住しながら、仕事でもないのに東京のホテルに2泊も宿泊する、なんて他人さんから見たら無駄でしかないことをしたのは、すべて<未練>への答えが欲しかったからです。
 
 アタシの中でこの<旅>は、おそらく「2003年への<決別>という結論になるだろう」と踏んでいました。
 ところが実際、2泊3日の旅を終えてみると、決別しなければいけないことなど何もない、という結論になってしまった。
 むしろ、2003年こそが再スタート、いわば「区切りの年」だった、というのがはっきりとわかった。
 2003年当時アタシは35歳。これが前半生だとするなら、2003年以降、つまり35歳からは後半生ということになる。
 結局「会社での出来事が辛すぎて、会社を辞めて、おめおめと尻尾を巻いて神戸に舞い戻った」という表面上の大きな出来事は、実はたいしたことではなかったのです。つまり心の引っかかり(=未練)に当時勤めていた会社はほとんど関係なかった。
 
 それよりも、実に中途半端な形で、大好きだった人形町という街を離れたことに強烈な<未練>が残った。これは戦前モダニズムの空気が充満した街(=人形町)で戦前モダニズムという<好み>を突き詰める、ということからの決別でもあり、<未練>は浮遊霊のようにさまようことになってしまった。
 そう考えると、1960年代という<好み>をはるか後方に押し退けて戦前モダニズムが<好み>の筆頭に立ったか、そして何故ここまで戦前モダニズムに<こだわる>のかも説明出来る。
 
 2003年に引っかかりがあるのは戦前モダニズムにこだわりがあるから
 戦前モダニズムにこだわるのは2003年への特殊なノスタルジーがあるから
 
 このふたつは両輪だったのです。お互いがお互いを牽引し、その中間には常に<人形町>という街があった。
 それがわかった以上、2003年という年へ決別することなど止めよう。むしろもっともっと、人形町という街にこだわろう。そして戦前モダニズムにもこだわろう。
 
 ーそしていつか、何十年後になるかわからないけど、<住人>として、この街に舞い戻ろう。
 やがて、往生の間際になって、その時、この街に花束を贈ろう。本当にありがとう。この街のおかげでアタシの後半生は充実したものになりました、と。
 そしてもうひとつ、2003年という年にも花束を贈りたいし、当時、何の偶然か日記を書いていた、何の偶然かこの年からマイサイトを始めた自分自身にも花束を贈りたいと思った。
 
 じゃあな、人形町。んで、2003年。また来るよ。遊びに来るのはもちろんだけど、いつか絶対にここに住むからな!

何しろ元エントリが全20回ですからね。それで一度は<総集編>という形で<肝>になる箇所だけをピックアップしてつないだんだけど、どうも物足りない。
そこで元エントリとも違う形で、当時の日記から「思い」が表出しているところを抜き出して、新たな長文にしたんだけど、いやぁ、これは本当に大変でした。
でも大変な思いをしただけあって<決定版>になった気がするのですがどうでしょうか。




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