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續・決別に花束を -奄美大島への逃避-
FirstUPDATE2016.10.18
@街 #南西諸島 #体験 #旅 #2003年 #日記 #2000年代 全3ページ 奄美大島 鶏飯 フェリー 人との距離 移住 ★Best

 ま、時系列と順番は前後するのですが、このエントリは「決別に花束を」の後日談になります。
 そんなの変だって?まァね、ドリカムの「未来予想図」の<Ⅱ>が無印よりも先に発表されたみたいなもんですよ。あとブルーハーツの「ロクデナシ」もか。いやあれは同時になるのかな。
 え?例が古すぎる?サーセンwww

 嫌なことがあると、すべて投げ出したくなる。それがアタシの本質です。
 さすがにこのトシになると、そういうことをした後のデメリットが嫌ってほどわかっているし、残された人が後始末をするのが如何に大変なのかよーくわかっているので、さすがにもう、本当に投げ出してしまうことはない。
 でもね、実際にやらなくなっただけで、相変わらずそんな心境になるってのはイクツになっても変わらない。つか人間、そんな簡単に変われない。
 考え方や咄嗟の思考を変えるのは果てしなく難しいけど、言動を変えるってのは、ま、難しいのは難しいけど、まだ出来ることですからね。

 詳しくはココを読んでくれ、としか言いようがないのですが、とにかくアタシは、2003年、サラリーマン生活につくづく嫌気が差し、南の島 への逃避を試みたことがあるのです。
 限界まで追い込まれた人間がすべてを投げうって逃げようとするってのはアタシに限った話ではないでしょうし、そしてその逃避先が「南の島」ってのも、まァ、よくある心理だと思う。
 しかし何だって、人は逃避先として南の島を選ぶのか。ハメハメハ大王に憧れているからなのか。それともフローネ?まさか。じゃあ一体、何がそんなに魅力的なんだ。
 たぶん、南の島に逃避したい、と思う人の脳内イメージはこんな感じだと思う。


 俗世間から離れて、ボンボンベッドとかハンモックに寝そべりながら肩の凝らない本を読みつつ、うつらうつらとする、みたいな。
 ああ、いいなぁ、と思われたそこの貴方!貴方は確実に疲れています。もちろん肉体的にではなく精神的に。
 まァね、精神的な疲労がなければ「こんなの退屈なだけじゃん。一日どころか15分で飽きる」と思うはずなんですよ。つまり<旅行>ならともかく<移住>なんてとんでもないって反応がわりとノーマルだと思うわけで。
 つまり、こうも言えるのかもしれない。
 人々は精神的疲労が極限まで達すると、何もしなくていい=何もすることがない=<退屈>を求めだす、と。

 一方、こうした南の島<限定>の逃避願望は、もともと海が好きとか南国ムードに憧れていた、とかはさして関係がない。もちろん「山が好き、海が嫌い」なんて場合は関係あるだろうけど。
 何よりアタシがそうでした。
 南の島、と言ってもいいような場所に初めて行ったのが1996年。場所はグアムでした。
 次が1999年の沖縄。もっとも沖縄は<旅行>ではなく<出張>だったんだけど。
 実際に行くまでアタシは沖縄にさして興味がなかった。ただアタシの趣味である街歩きをするなら沖縄も一風変わっていて面白いんじゃない?くらいの感覚だったんです。
 詳しくはココを読んでいただきたいんだけど、この沖縄出張、予想外に面白い(≠楽しい&≒笑える)ことが多くて、これで、何となく、南の島というものにたいして、漠然とではありますが好意的な感情が芽生えたのです。
 ま、そうは言っても、せいぜい<好意的>レベルで、間違っても「南の島大好き!」とかではなかった。

 さて
 それから2年ほど経った2002年、アタシは東京の荻窪に住んでいました。というのも若干の説明が必要かもしれない。
 前年の2001年、アタシは関西にあった広告代理店に勤めていたのですが、東京の営業所に転勤になった。これがこの年の10月。
 ただしこの東京営業所、新規に立ち上げた、ま、厳密には<仮>営業所のようなもので、予算もスズメの涙。社員は全員関西からの転勤組なのですが、社員各々が部屋を借りて、当然事務所も借りて、というのはどう考えても予算的に不可能で、そんな時に「かなり広めの家を借りて、社員各々に部屋を割り当てて、リビングを事務所代わりにする」というアイデアが出てきたのです。
 東京営業所が軌道に乗るまでの期間限定だから、と言われてはいましたが、ぶっちゃけただの共同生活で、カッコよく言えば上京したてのバンドみたい、と言えんこともない。というかそうでも思い込まないとやってられなかったのです。
 ま、リアルのアタシを知ってる人はよーくわかると思うんだけど、死んでも共同生活なんか嫌な人間です。だから休みの日はなるべく他の社員と顔を合わさないように極力外出した。んでいろいろな東京の街を見て回るうちに人形町という街に出会ったんだけど、それはココで書いたから割愛。

 ただし例外があった。土曜日に限っては外出しても18時前には共同生活の部屋に帰るようにしていたんです。
 理由は18時からテレビ朝日で放送されていた「人生の楽園」を見るためです。
 「人生の楽園」!何とまあジジ臭い番組です。軽く説明しておくと、ま、ドキュメンタリーってことになるのですが、登場するのは「都会での生活に疲れた人(たいていは夫婦)がIターンで田舎暮らしを始める」といったもので、このパターンで20年以上もやってんだからすごいわ。
 何でこんなジジ臭い番組を見始めたかというと、当時、ナレーションを担当していたのがいかりや長介と伊藤蘭だったんですよ。伊藤蘭と言えば「元キャンディーズの」であり、もちろんいかりや長介はドリフターズのリーダー。つまりはかつての「8時だョ!全員集合」コンビ。このコンビの妙に惹かれてこの番組を見始めたのです。
 ところがいつしか<癒やし>をテーマにした番組にも惹かれ出していた。ああ、こういう生き方も悪くないな、と。

 で、運命の2002年6月15日。もちろん土曜日。あ、憶えてたわけじゃないよ。後で調べただけだから。
 この日の「人生の楽園」のIターン先は奄美大島で、Iターンした夫婦(だったと思う)が映画館を作る、みたいな内容だったんです。
 「ニューシネマパラダイス」じゃないけど「細々と映画館を経営する」ってのは何とも夢のある話であり、ま、アタシは「ニューシネマパラダイス」はラスト以外はあんまり好きじゃないんだけど、メチャクチャ興味深く見た。
 そして、映画館云々よりも惹かれたのが奄美大島の商店街だったんです。

こんな商店街が、まだ、日本にあったんだ

 もともとアタシは昭和文化が大好きなのですが、こういうね、普通に活気のある商店街にすごい憧れがあったんですよ。
 まさに「求めていたのはこれだ!」と思った。んで、ああ一回、奄美大島に旅行に行くのも悪くないな、と思い始めたわけで。

 少し時間を飛ばします。話は翌年の2003年8月です。
 とにかくココでも書いたように、アタシは様々なことが重なって、会社を辞めることになった。上司に辞意を伝えたのがたしか8月の20日前後。
 たしかに会社勤めにはっつーか、ここの会社で働くことにはウンザリしていた。しかし辞めたところで、行く宛があるわけでもなく、新しい<生き甲斐>みたいなものもない。
 んで、何より人形町から離れるのは嫌だ。でも家賃を考えるとっつーか家賃補助なしで人形町の馬鹿高い部屋に住み続けられるわけがない。
 こうなると、家賃は人形町ほどは高くなくて、でもある意味人形町を超える、実際に超えられるかはともかく、超える可能性のある街に住むしかない、そう考えたのです。

今の自分に、そんな街が本当にあるのか

ふと、1年前に見た「人生の楽園」を思い出した。奄美大島・・・、そうか、奄美大島か!


 「飛躍しすぎ」とか「莫迦じゃないの。いいトシして」と思われるかもしれません。
 しかしその頃のアタシはマジで極限まで追い込まれていた。ある意味冷静な判断力を欠いていたと言われたらその通りです。
 でも、奄美大島、というワードが頭に浮かんだ瞬間、目の前がパァーっと拓けた。奄美大島こそ人生をやり直せる可能性のある、まさに人生の楽園に相応しい場所ではないか、と。
 ここからは随時、当時の日記から抜粋して、奄美大島への移住を計画していく<様>を紐解いていきます。

2003年9月7日
なんにもしない日曜日。あ、部屋の片付けと洗濯だけはしたが。これだけ体力消耗の状態で遊びに行くなど、とてもとても。
(中略)
本屋で「南の島に住みたい」(正確なタイトルは失念)をパラパラ立ち読みしたが、結構想像に近いのではないか、という気がしてきた。
想像というのは、ま、よくない想像なのだが、つまり職がない、ということ。Iターンの現実など、そんなもんだろう。
(中略)
気持ちはほぼかたまりつつある。奄美以外ない。だからこそ、なんとかせにゃならんのだよ。


2003年9月8日
(前略)今日思ったこと。
きのうの南の島うんぬんの本でもあったが、おそらく奄美の時間の流れは想像を絶するもののような気がする。はたしてそれに耐えることができるのか?
(中略)
俺のBPMが140としよう。だいたい東京が150くらいなので、少ししんどい。が大阪は120、神戸が110ってとこで、どうしてもヌルく感じてしまう。
(中略)
で、奄美である。もちろんわからない。但しただの想像でしかないが、もしかしたら70とか65くらいではないか。もしそうなら、非常に合わせやすい早さといえる。
これは希望的観測だが、まんざら外れてもいない気がする。そうでないと、ただの一度も行ったことのない街にこれだけ惹かれるのは異様といえるからだ。
何度もいうが、原生林もスキューバもまったくどうでもいい。海を見ながらポケーっとするのも悪くはないが、どうでもいいっちゃあどうでもいい。だいいちそんなことは隠居者、もしくはレジャー(古いねどうも)でやることであって、土地の生活者がやることではない。
俺が興味があるのは名瀬の市街地だけだ。徹底的に小ぢんまりした街に身を預けたいだけなのだ。あの街の、生活者になりたいのだ。


 ここにきわめて重要なことが書いてあります。
 つまり『原生林もスキューバもまったくどうでもいい。海を見ながらポケーっとするのも悪くはないが、どうでもいいっちゃあどうでもいい』『興味があるのは名瀬の市街地だけだ』と。
 このふたつは「何故、奄美大島なのか。何故沖縄や他の<南の島>ではダメなのか」の「きわめて明確な理由」です。
 しつこいですが、もう一度、大半の人が想像するであろう<南の島>の暮らしのイメージを貼っておく。


 しかしこういうものはまったく求めてなかったのは残された日記を読めばはっきりわかる。
 アタシが求めていたもの、それは、無理矢理イメージを探せば


 こんな感じです。
 この頃のアタシは、唯一の海外旅行は先述の通りグアムだけで、まだロンドンに行く前。もしこの時点でロンドンを知っていたら変わっていた可能性はあるけど、そんなイフを言ってもしょうがない。
 ではこの頃の理想郷はと言うと、まさしく昭和、いや1960年代の世界だったのです。すでにこの頃から戦前モダニズムに惹かれつつあったけど、どちらにせよ、要するに「失われた世界」とでも言うのか。
 もう、そんな街は日本にはないと思っていた。それが遠く離れた奄美大島なる島にはまだ残存している。

 まァでも、旅行でってならともかく、移住となるとやっぱ飛躍しすぎなんじゃないの?ってな話なのですが、Page2に続きます。