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續・決別に花束を -奄美大島への逃避-
FirstUPDATE2016.10.18
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 それではどんどん続きを書いていきます。

2003年9月14日
(前略)ついに「南の島に住みたい!」(1,500円・税別)購入。まだざっとしか読んでいないが、いよいよ決心を固める。しかも名瀬市(現注・現在の奄美市)がIターンの受入にかなり積極的とのことで、正直かなり目が出てきたと思う。
誰がなんといおうと俺は奄美に行く。まだ誰にも云っていないが、俺は絶対奄美に移住する。


 しかしさ、Page1にも書いたように、アタシが会社に辞意を伝えたのが8月20日前後、んで9月中旬になって「完全に決めた」ってのは遅すぎる気がする。
 これも書いたけど、奄美大島という<逃げ道>があったからこそ最終的に退職に傾いたんです。なのに、一ヶ月近くたってもはっきり決めてなかったってことは、日記には書いてないけどぜんぜん別の道を模索してたのかもしれない。
 その、セカンドプランとでも言うべき「ぜんぜん別の道」ってのは今となってはさっぱり記憶がありません。まだ強引に人形町に居住し続ける策を練っていたのか、それとも別の何かなのか、まさに藪の中すぎてわからん。ま、藪似の中か。

 ここからはしばらく動きなし。一応、9月21日に千川(豊島区と板橋区の境らへん)にあった奄美旅行センターなるものに行こうとしてますが休業だったようでそのまま帰ってます。ちなみに奄美旅行センターは現存しないようですな。
 んで翌22日から9月いっぱいはトラブルがあったようで日記が消失している。なので一気に10月に飛びます。

2003年10月4日
完璧。完全。無敵なまでに内容なしデー。ほとんど寝てばかり。しかしこれは、昨日からの体調の悪さを戻すためにも絶対必要だった。
そんなんだから、書くことなんかなにもありましぇーん。
しかたない。奄美のことでも書くか。
なんだかんだいいながら、あれから(現注・退職の意向を会社に伝えてから)1ヶ月半たったのか。
辞める前後の日記が消滅したので、あの時の気持ちはフリーズされたままだが、辞めた後のことも、あの頃より考えなくなってきている。
なんでや?
まず、現段階でまったく迷っていない、というのはある。もうどう転んでも、奄美に行くことはテッパンなわけだし。
もちろん金銭的な不安はあるが、それをいってもまったくしかたがないことで、11月に入ってなにか短期のバイトでもしようか、ぐらいしか考えていないし。
東京で下調べできることは、極限までやっていると思う。だから『待てば海路の日和あり』『案ずるより産むが易し』でいくしかないのですよね。


 何だかなぁ。もっと高揚してたように思ってたんだけど、実際の日記を読むと、どうもイメージと違う。だいたい『しかたない。奄美のことでも書くか』って投げやりにもほどがある。
 いろいろ記憶をまさぐると、たしかにこの時期から奄美大島にたいするテンションが落ちていってたように思う。
 何でこんなことになったか、それは、いきなり結論を書いてしまうみたいだけど、奄美大島への移住、というのはPage1にも書いた通り、どこまで行っても<逃避>でしかなかったのです。
 何から<逃避>したかったか、ま、大雑把に言えば<現実>なんだけど、もっと具体的に言えば当時勤めていた<会社>です。さらに突き詰めれば<人間関係>ってことになる。
 と言うことはつまり、辞意を伝えた時点で、その目的は完結している。それでもしばらくは解放された気分にならないのはわかってるけど、10月の末での退職も決まって、さすがにこの頃になると残務整理だけで、会社の人たちなんて「もうすぐ何の関係もなくなる人たち」なんですよ。

 つまりはですね、もう、別にわざわざ南の島なんかに行かなくても、十分すぎるくらいリセット出来てた。
 だったらいっそ、そんな危険な<賭け>なんて止めちゃった方が良かったのではないか?というかPage1で書いたように奄美大島への逃避願望を思い付いた時点でアタシはあきらかに冷静ではなかったのだから「頭を冷やして冷静になって考えて、やっぱり撤退します」でも良かったんです。

 それでも最終的に強行したのは、はっきり言えば希望ってのを完全に失ってたからなんです。
 いろんなことが上手くいかず、会社を辞めたとて、その「いろんなこと」が突然上手く回り出すわけもない。
 当然、奄美大島に移住したという理由だけで上手く回り出すなんてあり得ないけど「未知の場所ならもう一回ゼロからスタート出来る」んじゃないかと。
 つまりこの時点で、ゼロからスタート出来そうな未知の場所であれば奄美大島であろうが北海道であろうが海外であろうがどこでも良かった。ただ、せっかくここまで下調べしたんだから、というしょーもない理由で『しかたない。奄美』という感覚になってたわけで。

 さて、ここまで下調べしたんだから、と言いながら、正直、この時点では奄美大島のことなんか何もわかってなかったと言ってもいい。
 とにかく情報源は「南の島に住みたい!」って書籍とインターネットの情報だけ。しかも2003年時点では「奄美大島」と検索してもロクな情報がなく、というか奄美大島関連のサイトそのものが非常に少なかった。旅行ガイドブックの類いも「沖縄のオマケ扱い」でしかなく、調べようがなかったのです。
 というか、本当に奄美大島は移住に値するところなのか?いや仮に移住するとしても仕事は?住宅は?

・・・こうなったら、もう、現地調査するしかない!

 2003年10月24日、東京を出発したアタシは10月28日に奄美大島行きのフェリーの発着場である鹿児島へ、高速バスで向かっておりました。
 え?何で東京から鹿児島まで5日もかかるのかって?サイコロでも振って移動してたのかって?まさかまさか。
 いや単に福岡に寄り道してただけなんだけどね。って何で福岡に寄り道してたかは、とてもじゃないけど掻い摘んで書けないのでココをお読みください。
 とにかく、10月26日、福岡ドーム(現・ヤフオクドーム)で行われた日本シリーズ第6戦に我が阪神タイガースが負け、福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)の日本一が決まったことだけを憶えておいてください。

 さすがに日本シリーズの翌日はとても動ける気力がなく、結局奄美大島行きを一日ズラして28日の14時、福岡発鹿児島行きの高速バスに乗車した。
 ってね、ま、よほど日本シリーズの結果がショックだったのか、この時点でとんでもないミスをやらかしたのです。
 福岡から鹿児島まで、高速バスで約4時間。んで奄美大島行きのフェリーの出航時間が18時。もちろん鹿児島港の真ん前にバスの停留所があるはずもなく、つまり、普通に考えたら間に合うわけがない。
 本当にぼーっとしてたんだろうね。
 ヤバい、と気づいたのは鹿児島に着く10分ほど前。この時点ですでに17時40分。え、これ、マジでヤバいぞ。
 バスを降りるや否や、タクシーを捕まえた。んで運転手さんに

「鹿児島港まで!何とか18時のフェリーに乗りたいんです!」

 この時点ですでに17時50分。飛ばしても10分で着くかわからないけど、とりあえずやってみるわ、とメチャクチャ飛ばしてくれて、しかも本来入れないタラップの近くまで連れて行ってくれて、もう、ホント、切符も買わないままフェリーに飛び乗った。んでアタシが登り切ると同時にタラップが離れた。
 後で調べたら翌日(というか奇数日)は休航日らしく、さらに30日はイベント開催のためすでに満席、となると乗れるのは11月2日!もしこのフェリーに乗れなければ鹿児島に無駄に5泊もすることになったわけで。
 あの時の運転手さん、本当にありがとう!


 アタシはフェリーに揺られていました。
 デッキに出てみる。真っ黒な空と真っ黒な海。それ以外は何も見えない。そして耳をつんざくような「ゴーッ!」というエンジン音。
 これから奄美大島に行く、という感慨は何もなかった。仕事と住居がなくなった、という不安さえ忘れていた。
 やはり、直前の日本シリーズのことが頭から離れない。アタシは客室に戻り、当時使っていたSO504iを取り出した。「特選虎デイリー」を読むためです。
 とにかくココでも書いたように、日本シリーズで阪神が負けたこと以上に大きかったのは星野仙一が退団することで、沖からどんどん離れ、電波状況もどんどん悪くなる中、アタシは星野仙一の退任会見の記事を必死で読んだ。
 ちなみにアタシは寝台B、2等洋室ってのだったのですが、まァ↓を見てもらうのがわかりやすい。


 ロッジ風というかペンション風というか、とにかくこんな部屋ではろくろく声を出して泣くことも出来ない。必死で声を押し殺して退任会見の記事を読んだけど、限界に達していた。
 アタシは客室を飛び出して、再びデッキに出た。
 デッキでしばらくボーッとしていると、さすがに涙も乾いてきた。とにかく、今、このフェリーは奄美大島に向かってるんだ。これから新しい生活、新しい自分を構築しなきゃいけないんだ。これで、すべて断ち切ろう。仕事のことも、東京での生活のことも。そして阪神のことも。
 最後に、すべてを断ち切るために大声を出した。正確には大声で歌った。なに、いくら大声を出したってエンジン音にかき消されるんだ。どれだけ声を張り上げても誰かに聞かれる心配はない。
 散々大声で歌った後、アタシはこう叫んだ。
 
行くぞ!待ってろ奄美大島!!


2003年10月29日
4時50分奄美・名瀬港着。まだ夜が明けておらず、奄美についた!という実感がわかない。それでもなんとかジョイフルまでたどり着き、モーニングを食しつつ夜が明けるのを待つ。
そこからはひたすら歩き。とにかく市街地に向かって歩きつづける。
途中、商店街を見つけるが・・・。なんといったらいいのだろう、想像をはるかにこえた素晴らしさ!これ!これのためにここに住みたいと思ったんだよ。
市役所に行き簡単な説明を受けたが、この市役所がまたいい。もう「生きる」の市役所そのまま。セットかと思うほど。もちろんパソコンとかは普通にあるが。
ハローワークで登録を済ませた後、○○荘という民宿にチェックインする。この時午前11時半。
午後からは、バス、船と寝たり起きたりの繰り返しで、キチンと睡眠していなかったせいか、畳に横になるやいなや、あっという間に寝ついてしまう。
目が覚めたら15時半。民宿のマウンテンバイクを借り、ダイエーまで行く。
いろいろ考えたが、今まで行った中で一番近いのはグアムではないだろうか。それに昭和の街並みがプラスされた感じというか。とにかくなんとも不思議な感覚で、あんまり初めてきた感じがしない。
ここは断じて田舎ではない。また観光地でもない。ではなにかといえば衣だけ現代風の、昭和30年代の街、とでもいえばいいのか。
実際に住むにあたって今日までで感じたこと。
予想通り、職と住の問題はキビしい。でもなんとかする。そのためにわざわざ下見にきたのだ。けして観光できたのではない。
だが想像以上に不便さはない。大きめの書店を見ていないのは不安だが、思っていたよりも全然都会だ。
東京と比べるから劣るのであって、福岡とならさして見劣りはしない。(←ちょっといいすぎ)
ま、とりあえず明日からが勝負だ。なんとか住むところと仕事を決めて帰るぞ!



 ま、基本的には書いてある通りなのですが、少しだけ補足しておきます。
 東京を出発してから奄美大島に着くまでいろんな経緯があったとはいえ、かなり心境の変化が見て取れます。何より日記からもテンションの高さが窺えるはずです。それこそ10月4日こ日記の『しかたない』から始まった一文とは雲泥の差がある。
 そりゃあ、現地に着いたんだからさ、テンションが上がって当たり前かもしれないけど、やっぱりそれだけじゃないわけで。Page3に続く。