何故クロサワ映画は「面白いのか」にしようと思って、止めた。何というか、映画という複雑怪奇なことが絡み合ってる娯楽から「何故面白いのか」の要点を抽出して、それを一文にしようなんて、アタシには無謀すぎるわ、と。
黒澤明については、過去に一度ココで書いている。正直今読み返すとかなり散漫な文章で、ピントを絞ろうとしたわりには絞り切れてないんだけど、こうなったのも結局は「何故クロサワ映画は面白いのか」の答えを曖昧なまま書いてしまったからではないかと。
というか、昨今、とくに言われることですが、若い人が黒澤明監督作品を観て「セリフがまったく聴き取れない」という感想を持った、なんて話をよく聞く。アタシなんかからしたら「最近のはデジタルリマスター化されてだいぶ音声が聴き取りやすくなってる」と思ってたんで最初はこうした感想が意外だったんだけど、そもそもいくらデジタルリマスターしようがなんだろうが、セリフ自体が粒立ってない、いや「粒立てたセリフ回しを好まなかった」黒澤明の作品なんだから、聴き取りづらいなんて当たり前なんです。
もし、今以上、これ以上、愛されるなら(←カンケイナシ)聴き取りやすくしようと思ったら声優さんを使ってアフレコし直す以外の方法はないですよ。
ただね、あれだけセリフが聴き取りづらいし、モノクロで時代劇となると「キャラクターの見分けがつきづらい」にもかかわらず、黒澤明監督作品に限っては「観てて、何が何だかわからないのよ(ハァ←カンケイナシ)」となったことは一度もない。
とにかく登場人物が完全に整理されており、余剰なキャラクターが出てこない。最初は余剰に思えても劇中、必ず何らかの役割がある。だから一切混乱しないのです。
この「わかりやすさ」はいったい何なんだろう、と。もちろん喜劇をはじめとする娯楽映画の名手であった山本嘉次郎の元で「映画の<すべて>」を学んだんだから、というのも皆無ではないかもしれない。
さらに言えば東宝のカラーもあったはずで、他社に比べて圧倒的に「モダンでドライ」な社風はそのまま社の作風にもなった。
絡み合った人間関係を描いた作品もベタついてない。どこかサラッとしている。それは黒澤明監督作品に限らず、成瀬巳喜男や市川崑にも同じことが言える。いや他社出身の監督であっても川島雄三でさえ東宝系(東京映画、宝塚映画)で作られたものは妙にサラッとしている。
でも、成瀬巳喜男や市川崑と黒澤明を同一視は出来ない。どちらが上か下かという話ではなく、黒澤明にしかない<何か>を感じる。(もちろん成瀬巳喜男や市川崑にしかない<何か>もある)

サラッとしていて、しかもわかりやすい。にもかかわらず訴えかけてくる要素も詰め込まれている
そんな娯楽映画を撮り続けた監督は黒澤明しかいない。
にしてもです。何故ここまで、他の東宝監督と比べてもわかりやすいのか、何故ここまでベタついた感じがないのか。たぶんそこを探ることで、もしかしたら<一面>に過ぎないのかもしれないけど、何か見えてくるに違いないな、とね。
もともとクロさんは、社会の悪を真正面から見据えて、不正義、不正直を嫌い、自ら働き学びもしないで文句を言い、愚痴をこぼす人間を極端に軽蔑していた。
クロさんは努力の人で、自分に正直な人だ。だから「社会主義」に共鳴して、社会を変革しようとまでしたのである。ところが「天国と地獄」では、権藤の人生観はそのまま肯定され、竹内のひねくれた人生観は簡単に否定されてしまっている。クロさんには、弱者の視点から人生を見てみようという気は、もはやなくなったのであろうか。
これは長年、黒澤明作品でチーフ助監督につき、自らも名作を生み出した堀川弘通が書いた「評伝・黒澤明」からの引用です。
ここの箇所は(後半部のみだけど)小林信彦著「黒澤明という時代」でも引用されている。つまり、それほど読んだ者が「引っ掛かる」箇所だと言うことです。
「引っ掛かる」というのは必ずしも悪い意味ではない。ある意味本質をズバッと突いており、読み手側の気持ちに「うろたえ」の気持ちが生まれたからこそ「引っ掛か」かったのです。
堀川弘通は黒澤明の一番の、一番なんて言っちゃうと語弊があるか。とにかく師匠である山本嘉次郎や同志とも言える本多猪四郎と並んで「黒澤明最大の理解者」と言える存在です。

アタシは当たり前のことながら黒澤明と直で接触したことはない。つまり「一番の理解者の発言をひっくり返せる」立場でも何でもないのです。
にもかかわらず、アタシはこの発言に違和感を持った。そう、それは最後の一文
クロさんには、弱者の視点から人生を見てみようという気は、もはやなくなったのであろうか。
ここに引っ掛かったのです。
何故なら黒澤明は「<もはや>も何も、弱者の視点から見た映画など、ただの一度も作ってないではないか」と思っていたから。
なるほど、一見「生きる」や「生きものの記録」は弱者視点に思えなくもない。また「どん底」あたりにもそういう要素は垣間見られる。
でもです。「弱者は常に可哀想な存在であり、同情されるべき存在であり、弱者であっても、弱者は弱者のまま救われなければならない」という作品はひとつもないと言って差し支えない。
むしろ、弱者はどんどん大切なものを失っていくのだ、とか、弱者は最後は地の果てまで追われた上で朽ちていくのだ、みたいな、言い過ぎを承知で言えば「弱者は何故強者になろうとしないのだ。「強者になれない」ならともかく、強者になろうともせずに不平不満を言うだけの弱者など、滅ぶべきなのだ」と言ってるようにさえ、感じる。
堀川弘通の一文は「天国と地獄」についての箇所ですが、「天国と地獄」において三船敏郎演じる権藤は強者であり、しかも守られる立場です。そして弱者である山崎努演じる竹内は滅びる立場とも言える。
さらに言えば、佐田豊演じる青木は「強者に寄り添わなければ生きていけない弱者」であり、最後は救われるとは言え青木に寄り添うような演出は一切ない。どちらかと言えば「惨めったらしく助けられる」というふうにも見えるんです。

さすがにここまでドライな作品は成瀬巳喜男でも市川崑でもない。成瀬巳喜男作品も市川崑作品も、弱者に寄り添ってるかと言えば違うんだけど、ここまでは突き放していない。
逆に言えばそれが「日本流フィクションのウェットさ」であり、その<ほどほど>のウェットさが心地良いんだけど、黒澤明はさらに突き進めて、弱者をバッサリ切り捨てる。これが黒澤明独特の味になっているんです。
「用心棒」で言えば、よく言われるようにあれは西部劇の世界ではあるんですが、三十郎が西部劇のように弱者と共鳴し合ってるかと言えば「別に」という感じで、これは「椿三十郎」にも言えるんだけど、あきらかに揉め事を「面白がってる」フシがあり、面白そうだから首を突っ込み、このままでは終われないからケリをつけようとする。つまり「オール自分のため」で<情>のカケラもない。
黒澤明作品でわずかに感じられる情愛は「姿三四郎」からはじまる「師弟愛」だけで、男女間の愛情(恋愛感情)や家族愛、仲間への思いなど「あまりにも希薄」としか言いようがないんです。
「七人の侍」なんかものすごくわかりやすいケースだけど、普通であれば「仲間を殺された」ことで怒りが頂点に達して、みたいなことをやると思うのですよ。そういうのをあまり好まなかった鳥山明でさえ有名な「クリリンのことかー!!!」というセリフがあるわけで、それこそ「ワンピース」などはそんなエピソードの洪水です。

しかし「七人の侍」は違う。たしかに数名の侍は死んだ。ただそれは「結局、弱かったから死んだのだ」と片付けられているような感じさえあり、村人も「村を守るために戦って、散った」侍に恩は感じつつも過剰に神聖視してる様子は微塵もない。
いったい、このドライさはどこから来るのだろう。
しかし「それは黒澤明がそれだけドライな人間だったから」と考えるのは非常に危険なことで、作品の傾向と作者の性格を同一視するのは本質から逸れていくような気がする。というか仮にどれだけドライな黒澤明のエピソードがあろうがあまり関係ない。
少なくとも「自作においてはウェットさを極力排除しよう」とした形跡はたしかにある。あるんだけど、だからと言ってウェットを完全に否定していたわけではない。ウェットならウェットで、だったらこうじゃないか?という答えは持ってる人だったと思う。
橋本忍が「私は貝になりたい」を書いた時、それを読んだ黒澤明が「橋本よ。これじゃ貝にはなれねえんじゃないかな」と言ったとされるエピソードは有名ですが、けしてウェットなドラマがわからない人ではなかったのは間違いない。

しかし、そうしたウェットさを頑なに、自作には持ち込まなかった。ウェットになりそうになると急旋回したようにドライな方向に舵を切る。「生きる」の終盤、突然通夜のシーンになるのは山本嘉次郎の言葉を思い出したからだと言われていますが、どちからと言うと「拒絶反応が出た」んじゃないかというようにさえ見える。
嫌だ
死んでもウェットな作品は作りたくない
もちろんこんな言葉は残されていない。でも本当に、そこにかんしては異様なほどに絶対的だったように思う。
何故、そこまでウェットを拒絶するのか、それは「あくまで作品作りにおいては」という前提は必要ですが、アタシは黒澤明ほど精神的マッチョな監督はいないと思っていて、精神的マッチョだから常に強くあろうとした。それは自分自身もそうだし、主人公たちにも「精神的な強さ」を求め続けた。
しかしその代わり、強くなろうとさえしない弱者にたいしてはあまりにも容赦なく突き落とす。何もそこまで、と言いたくなるほど、何の容赦も何の躊躇もなく、ただただ谷底へ突き落とす。それが黒澤明作品だと。
Page2ではその辺のことを掘り下げたいと思います。続く。