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何故クロサワ映画はわかりやすいのか
FirstUPDATE2024.12.26
@Classic #黒澤明 #映画 #東宝/P.C.L. @戦前 #戦後 #1960年代 #フィクション #エンターテイメント #クリエイティブ @山本嘉次郎 新馬鹿時代 植草圭之助 堀川弘通 用心棒 天国と地獄 成瀬巳喜男 市川崑 川島雄三 橋本忍 私は貝になりたい ドライ ウェット 精神的マッチョ 弱者 本木荘二郎 酔いどれ天使 ドラマツルギー 千石規子 感情の機微 暴走機関車 トラトラトラ! 画像アリ PostScript 全2ページ

 1948年に製作された「酔いどれ天使」は自ら「ここでやっと、これが俺だ、というものが出たんだな」と認めるほど黒澤明にとって重要な作品であり、その後の黒澤明作品の方向性を決定付けたという意味でも極めて重要な作品です。


 この作品で脚本を書いたのは黒澤明と植草圭之助で、プロデューサーの本木荘二郎が様々なアイデア出しと脚本協力に尽力してシナリオが完成した、らしい。
 この映画の細かい顛末は植草圭之助が書いた「わが青春の黒澤明」に詳しい。もちろん植草圭之助の著書なのである意味一方的な意見ではあるのですが、それまで「監督と脚本家」というよりは親友に近い間柄だったふたりの関係は「酔いどれ天使」の共作を機にヒビが入った。以降も表面上は揉め事があったしたわけではないのですが、最終的には絶縁している。

 何故こんなことになってしまったのか、それは植草圭之助と黒澤明で「フィクションにたいする考え方」が根本的に異なっていたからです。

 ドラマツルギー、という言葉があります。
 きわめて幅広く使われている言葉であり、どれが本当の意味なのか、そしてもはや言葉だけがひとり歩きして様々な人が様々な意味合いで使っているので、どの使い方が正解、と決めるのは不可能にさえ思えます。
 一応は作劇法という言葉で説明出来るんだけど、テクニック、技法的なことではなく、もっとね、何と言うか<魂>の部分の話だと解釈している。つまりフィクションという<おはなし>を作るための根本的な考え方、とでも言うのか。
 それは倫理観だったりもそうですし、観客は何を求めて映画館に足を運ぶのかといったことまで、いったいこの作者は何を重要視しているのか、それがドラマツルギーではないかと。
 こう書けば黒澤明と植草圭之助が本質的にドラマツルギーが違うのは明白です。

 黒澤明は常に「観客の満足度」を意識していた反面、観客の心に残り続けるような作品を作ろうという意識は希薄だったと言わざるを得ない。劇場で面白がってもらえたらそれでいい。逆に言えば劇場から一歩でも外に出れば、綺麗さっぱり忘れてもらって構わない、みたいな。
 一方、植草圭之助は「心に残る」作品を標榜したフシがあり、それが黒澤明には「女々しい、しみったれた」作風に映ったのではないか。
 「酔いどれ天使」で植草圭之助は「チンピラとパンパンに転落した幼馴染の悲恋」を盛んに提唱し、頑なに黒澤明が撥ね付けたわけですが、何もそうした話を黒澤明は完全に否定してるわけじゃないし、それはそれでやりようによっては面白い映画になるかもしれない、と感じていたのかもしれない。
 ただし、それこそまさしく黒澤明のドラマツルギーだと思うけど「他の監督でやればいいじゃないか。オレはやらないよ」という箇所だけは曲げなかった。
 「酔いどれ天使」の脚本作成中、というか黒澤明と植草圭之助の意見が対立した時、黒澤明は『おれだって弱者には同情するよ』と言いながら、その後に続く言葉には同情の余地は一切感じない。

だが、弱い奴は強くなろうと努力しないという罪を犯している。だから強い奴に餌にされるんだ。自分の女を盗られて売払われて、まだ、そいつにくっついているなんて、肝心な点がダメになっている証拠だ、歪んでるんだ


 さらに黒澤明は植草圭之助にこんな言葉を突きつけている。

じっさい、演劇青年だなァ・・・・・・考え方に客観性がないんだ・・・・・・むかしから、一方に偏して固執しすぎるとこがあったよな


 「小学生以来の友人」である植草圭之助に向かって黒澤明の吐いた言葉は完全に、植草圭之助のドラマツルギー全否定であり、いや良い悪いの話ではなく、これだけ長年友人関係を続けてきたが、共同創作者としては無理だ、という最後通牒にさえ聞こえる。
 さすがに植草圭之助もこの時ばかりは席を立とうとしたと正直に告白している。他の監督なら間違いなくそうしていただろう、と。
 対等であると思っていた共同創作者にして長年の友人から「考え方に客観性がない」と言われたことの屈辱は、おそらく生涯植草圭之助な中から消えなかったであろうことは容易に想像出来ます。
 何度も言うようにこれはあくまで「植草圭之助目線」の話であり、どれだけ真実性があるかは藪の中ですが、それでも黒澤明の言葉には配慮がなさすぎると思う。
 植草圭之助が黒澤明と決定的な精神的決別をしたのは黒澤明が「欲しい映像を得るためならば、一人や二人の犠牲はやむをえない」と発言したこと、とされていますが、実際、この言葉で創作者としての植草圭之助は犠牲者になった、と思えないこともない。そして黒澤明には「酔いどれ天使」という名作が出来たんだから、たとえ長年の友人だろうと犠牲者が出るのもしかたがなかった、という感じなのか。

 しかしこれはまさしく「考え方に客観性がない」意見で、そこまで植草圭之助に同情しても始まらない。せいぜい「もっと言い方ってもんがあるだろ」くらいの話で、もっと単純に黒澤明と植草圭之助によるドラマツルギーの対立、くらいに考えておいた方が公平でしょう。
 また「一度も徴兵されなかった=戦争に行かなかったことが黒澤明のトラウマになった」というのも、そりゃあ多少は関係しているのかもしれないけど、あまり過大に考えてはいけないような気がする。
 当然「わだかまり」はあったと思うのですよ。それこそ盟友の本多猪四郎が「また?」と言われるほど何度も徴兵されたことを考えると、<お国>にたいして何の役にも立たなかった自分、というのはメンタル面の影響がゼロなわけがない。
 さらに早逝した兄のことも黒澤明が精神的マッチョになったことに関係はしているとは思うけど、しつこいけど、創作者としての黒澤明と人間としての黒澤明をあまり過剰に結び付けてしまうのは、やはり躊躇いを覚える。
 堀川弘通の言う通り、黒澤明は「努力の人」であり「自分に正直」であり、そして「自ら働き学びもしないで文句を言い、愚痴をこぼす人間を極端に軽蔑していた」のだろうとも思う。
 そうした性格や人格がまったく作品に反映されてないかというと、されてはいると思う。でももし、そんな感情をそのままフィクションに投影したとするなら、間違いなく「世界のクロサワ」にはなれなかったであろう、とも思うのです。
 黒澤明が実際精神的マッチョだったかはともかく、精神的マッチョになろうとしたのも間違いないとして、それで「面白い映画」をこしらえることが出来るなら世話がない。そしてこの駄文の主題である「何故クロサワ映画はわかりやすいのか」の答えにもなっていない。精神的マッチョな人は「わかりやすい」映画作りを好むのか?そんな莫迦な。

 そうなると、もうどうしても浮上せざるを得ないのが「師匠が山本嘉次郎である」ということです。
 よくよく考えればですが、晩年に至るまであれほど「師弟愛」にこだわったのは、それほど山本嘉次郎への思慕の強さなのも間違いないわけで、山本嘉次郎なくして世界のクロサワはあり得ない、という結論になってしまいます。

 山本嘉次郎は黒澤明に「映画を作ることの面白さ」を徹底的に叩き込んだ。具体的な作り方や撮影の、いわば技法ではなく<魂>の箇所、つまりドラマツルギーを叩き込んだと言ってもいい。
 山本嘉次郎が黒澤明に叩き込んだのは「<娯楽>映画を作ることの楽しさ」です。つまり<芸術>ではない。
 映画は娯楽か芸術か論争はそれこそサイレント期からある話ですが、山本嘉次郎は徹頭徹尾、娯楽映画の人でした。これはきわめて重要です。
 アタシは過去に「実は山本嘉次郎は喜劇に向いてないのではないか」と書いたことがあります。それは数々のエノケン映画を見てきた感想でもあるのですが、山本嘉次郎が撮ったエノケン映画はギャグがパチン!と弾けないんですよ。何だか一枚ヴェールがかかってるようにさえ感じる。だから笑い出すまではいかない。
 しかしその娯楽性は徹底しており、作家性のカケラもない。とにかく観客にわかりやすく伝える、観客に楽しんでもらうことが第一優先で、とくにアタシがエノケン x ヤマカジコンビの最高傑作だと思う「エノケンのざんぎり金太」など、湿っぽさ、叙情など微塵もないのに、だからと言ってブラックだったりシュールに針が振れているわけでもなく、娯楽としての仕掛けが満載なのです。


 こうした山本嘉次郎の特性を徹底的にブラッシュアップして、さらに強烈に時代の空気感を閉じ込めたものが黒澤明作品の本質のような気がする。
 それはほぼ同時期に撮影された、山本嘉次郎の「新馬鹿時代」と、「新馬鹿時代」のセットを流用して撮られた「酔いどれ天使」を見れば一目瞭然です。

 このふたつの映画の最大の違いは「登場人物の整理整頓」で、「新馬鹿時代」には本筋に絡まないキャラクターが相当数いるのにたいし「酔いどれ天使」は必要最小限って感じで、無駄なキャラクターがひとりもいない。
 さらに「新馬鹿時代」ではわずかにあった「弱者に寄り添う視点」は「酔いどれ天使」ではより微細になっている。
 それでもね、「酔いどれ天使」は以降の黒澤明作品に比べるとまだ弱者に寄り添う視点は残存しており、終盤の千石規子が三船敏郎にたいして「一緒に田舎に行こう」と誘うシーンなどは唯一の救いとなっています。
 ラストの黄昏れる千石規子は後の黒澤明作品では消滅した叙情的シーンなのですが、おそらく、師匠である山本嘉次郎を乗り越えるためには、もっともっと精神的マッチョになって弱者視点を排除しなければ、となったのではないか。いわば「弱者視点を抜けば抜くほど、より<娯楽>として完璧に近づくのではないか」と感じ取ったような気がする。

 感情の機微なんて言い方をしますが、これを映画で表現するのは難しいのです。
 いや出来るっちゃ出来るけど、ものすごく<そこ>に時間を費やしてしまうわけで、せいぜい2時間ちょっとの映画で「主要キャラクターの感情の機微」をやろうと思えば今度は娯楽性が蔑ろになってしまう。
 だったら、そういうのは極力抜こう、というか本当に必要最小限にしてしまって、心の中であっても観客が拍手喝采を送りたくなるような娯楽性に徹した方が単純に「面白い映画」になる。
 もうひとつ言うなら、感情の機微を全観客に伝えるのはほとんど不可能であり、どれだけ懇切丁寧に説明されてもわからない人にはとことんわからない。というか黒澤明自身、とうとう植草圭之助との精神的決裂を避けられなかったわけで、持って生まれた資質で「直感で理解出来ることは変わる」のです。
 しかし娯楽性は違う。観客の資質など関係ない。ちゃんと「わかりやすく」伝えることが出来たら必ずリアクションを得ることが出来る。だったら、とにかく「わかりやすさ」最優先でやろう、としたのも当然の帰結だと思うんですよ。

 映画は娯楽である。娯楽なんだから「どれだけ説明しても誰しもがわかると言い切れない感情の機微をあえて蔑ろにして、誰でも理解出来る娯楽性を追求する」ことを徹底したから黒澤明は「世界のクロサワ」になり得たのだと思う。
 「弱者に寄り添わない、むしろ弱者は突き放す」というのは「感情の機微は極力排除すべし」とした結果であり、たしかにそこに黒澤明の性格を持ち込んで考えることは可能なんだけど、やっぱね、もし本当に「弱者など滅んでしまえ」という人であれば「橋本よ。これじゃ貝にはなれねえんじゃないかな」という言葉は出てこないと思うんですよね。

 そうこう考えていくと、つくづく「暴走機関車」が実現しなかったことが惜しい。もし実現していれば今回書いたような内容をすべて裏書きするような映画になった気がするんですよね。

本文にもあるように黒澤明のことは一度書いたのですが、あのエントリはどちらかと言うと「現今、黒澤明を取り巻く環境」に重きを置いたものなので、もっと「何で黒澤明作品は~なのか」みたいなのは前々から書きたかったのです。
このエントリを思い付いたのはYouTube用に「東京オリンピック」の映画を調べていた時で、それにプラスして、これまたYouTube用に「酔いどれ天使」について調べた時のことを思い出した。
このふたつの調査が頭の中で突然スパークして、そうか、堀川弘通の言いたかったのはそれだったのかもしれない、と。そしたら植草圭之助との決裂も、まァ納得出来るわ、とね。
だから個人的に重要でないと思った徴兵されなかったことへのコンプレックスや、時系列的に後になる「暴走機関車」と「トラ・トラ・トラ!」での屈辱、そして自殺未遂の話なんかはオミットするか軽く触れる程度で済ませて、黒澤明という映画監督が生成されるまで、を重点的に書きました。
にしてもです。
「暴走機関車」と「トラ・トラ・トラ!」であれだけ辛酸を舐めたのに、その後で(たぶん「酔いどれ天使」の脚本執筆時に同じ思いをしたであろう)植草圭之助にたいして侮辱的発言をしたのはちょっと意味がわからない。
ま、人間なんて理屈で割り切れないからねぇ。ましてや黒澤明ほどの才人ならなおさら、というか。




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