ノンフィクションを書くための矜持
FirstUPDATE2024.4.26
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ひと月ほど前、ココで「沙漠に日が落ちて 二村定一伝」という評伝について触れたのですが、この時アタシは「ノンフィクションに大切なこと」を3つ挙げさせてもらいました。

・調査の奥行き
・データの正確さ
・著者の感情が抑制された形で露呈している

これ、もしかしたら「え?それだけじゃダメなんじゃないの?」と思われるかもしれません。
たぶん「真実性」に重きをおいてノンフィクションを読んでる人も多いと思うのですが、これまで何度か書いてきたように、アタシはね、実は「真実性」にかんしてはまったく重要視してないのですよ。
ってそれでは「データの正確さ」と矛盾が出てくるんじゃないかと思われる向きもあるかもしれませんが、これ、ぜんぜん矛盾してないんです。

そもそもですが、アタシの個人的な考えとして「自分が当事者、もしくは当事者に限りなく近い場合を除いて、真実なんてわかるわけがない」と思っているのです。
つまり「犯人のわからないミステリ小説」を読んでるようなものであり、どれほど精密にやったところで、どれだけ状況証拠や物的証拠を積み重ねたところで<判決>は存在しない。
しかし肝心なのは、著者が弁護側寄りだろうが検事側寄りだろうが、何かしらの結論まで導かなきゃいけない。「だから、こちらとしてはこう思う」というような結論ですね。

これはモノホンの裁判でもそうなんだけど、あきらかに有罪無罪が確定している、量刑も妥当なラインがある場合、野次馬からしたら面白くないんですよ。
野次馬が面白がるのは量刑はおろか有罪か無罪かすらわからないものなんです。弁護側は数々の証拠を並び立てて「だから無罪である」という方向に持っていこうとするし、逆に検事側は「だから有罪である」という証拠を立証しようとする。
裁判とノンフィクションが違うのは<判決>を下すのは読者だということです。もちろんひとつの事象につきひとつのノンフィクションしか読んでなければ弁護側か検事側かどちからの一方的な意見だけを聞いてってなるんだけど、どっちかに寄ってるってのがわかった上で自分なりの<判決>を下す。これがノンフィクションを読む醍醐味なんですよ。

だから「真実が書いてある」かどうかにとらわれだすと途端に面白くなくなる。
どんな結論、どんな話の方向性だろうが、どっちみち片側の意見でしかないってのを留意して、その上で著者がどれだけ真摯に、証拠を集めて真実に近づこうとしているか、それがノンフィクションの最大の読ませどころであり、つまりノンフィクションとは<真実>を知るためのものではなく<真実>にたどりつこうと「もがいた」記録だと言ってもいい。
というかさ、ま、刑事事件であればですが、ただ単純に真実が知りたいのであれば裁判記録を読みゃいいと思うよ。マジで。

要するにノンフィクションとは「著者の苦闘の記録」なんです。
安藤健二著「ミッキーマウスはなぜ消されたか」(河出文庫版)の解説で深町秋生が実に面白いことを書いています。

安藤健二の著書は、ミステリと思って読んでいる。もっといえば、ハードボイルドな一匹狼の探偵小説に近い。奇妙な依頼を受けた探偵が、とりあえず徒手空拳で調査を始めてみるものの、思わぬ妨害に出くわし、あるいは予想以上に冷たい態度で門前払いを食わされる。
この安藤という探偵、タフで有能かというと、ちょっと疑問符もつく。なにかを調べるにしても、調査対象の業界に格別明るいわけでもなく、おまけにいつも金欠だ。元新聞記者だが、調査のやり方もどこか素人くさい。記者を辞めたときから貯えはなく、自動車を叩き売って、生活費と調査費を捻出したという。ちょっと無茶で、ハラハラとさせる。調査を行うたびに、目減りしていく預金通帳とも格闘しなければならない。そんな内情まで書いているがゆえに、この探偵から目が離せなくなってしまう・・・・・・。


当然これは安藤健二について書かれたものですが、何も安藤健二当人だけの話ではなくノンフィクション作家全員に当てはまるのではないか。
ちなみに安藤健二の調査対象は「封印」がキーワードになっており、漫画だったりアニメだったり特撮物だったり、どちらかというと子供向け寄りというかサブカル的な題材である場合が多い。
もしこうした題材を結論だけ書いて、つまり「こうこうこういう理由で封印されてます」としたら面白くもなんともないんですよ。つかその手のゾッキ本に近い書籍はいっぱいある。
しかし安藤健二の著作はそれを乗り越えている。著者を全面に出すことで「謎本」ではなく「ノンフィクション」として成立しているのです。

ただし、あまりにも著者が出すぎてしまうと主題がブレてしまう。要するに著者が、というよりは著者の主張ですよね、は「抑制された形」で出てこないとダメなのです。

主役はあくまで題材そのもの
著者はいわば<精神的主役>である

このバランスが非常に難しい。
以前も書いたように、いくら丹念な調査をしていても著者がまったく出てこないものは「読み物」として面白くないし、主題がわからなくなるほど著者の主張、とくにバイアスやエゴが強ければ読んでて不快になりやすい。
アタシが面白いと感じるノンフィクションは軒並み驚異的なバランスが取れてるものばかりで、過去に記したものだけでも「プロレスに興味ゼロの人間がプロレスを語る」で書いた「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(増田俊也著)や「やぶにらの戦慄した事件大全」で書いた「完全版下山事件・最後の証言」(柴田哲孝著)、そして冒頭の「沙漠に日が落ちて 二村定一伝」(毛利眞人著)はその条件にピタリと当てはまります。

また、これもいろいろ書いたけど<真実>ということからはまったく程遠いとはいえ完全に読み物に徹した一橋文哉や近藤唯之の著作も大好きです。
一橋文哉や近藤唯之の著作なんて、こと<真実>に近いか否かの観点から言えば、いい加減の極みなのですよ。でも隅々まで調査が行き届いた、でも著者の存在が消された著作より面白いというのがノンフィクションの面白いところで、それこそ裁判記録を面白がって読むってメチャクチャ難しい。つか裁判記録なんて最終到達地点で、それまでにぺんぺん草も生えないほど調べ抜いてないと面白がれるわけがない。

というかさ、ノンフィクションもだしフィクションもだし、どころかこんなインターネットに発表するだけの駄文でさえも「著者の存在を隠し通そう」としたものなんて面白くないのよ。ま、アタシは多少ぶっちゃけすぎのような気もしますが。







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