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複眼単眼・やおい
FirstUPDATE2024.3.18
@Classic #複眼単眼 #フィクション #YouTube @クレージーキャッツ #笑い #アニメ・漫画 #性 ヤマなしオチなし意味なし 同人誌 芸術 HIKAKIN コント55号 コント 凝縮 落語 ストーリー @ドリフ大爆笑 全2ページ

好きなことで、生きていく

 この言葉は2014年に放送されたYouTubeのテレビCMの惹句です。
 出演者はいまやユーチューバーの第一人者であるHIKAKIN他ですが、やはりHIKAKINが出演したものが一番有名なはずです。

 では当のHIKAKINですが、『好きなことで、生きて』いってるのかというと、それは違う。大雑把に「動画投稿者」という職種としては「好きなこと」かもしれないけど、動画の内容的にはとても「好きなこと」をやってるようには見えないわけで。

 HIKAKINの動画が「ヤマがあって、オチがあって、意味がある」かというと、違うわけですよ。というかヤマもオチも意味もあるユーチューバーの動画なんてアタシはほとんど見たことがない。
 そういう意味ではHIKAKINに限らずユーチューバーの動画は「やおい」の精神を踏襲している。また「仮に<やおい>であっても面白いモノを作ることは可能である」ことを見せつけているとも言えるわけで、こちらの方が栗本薫が言うゲリラテーゼに近い。
 しかしね、HIKAKINをはじめとしたチャンネル登録者数が多いユーチューバーは軒並み視聴者の方を向いています。そこが「ただ得手勝手に自分の好きなことを描いた」やおいの語源となった作品群とあきらかに違う。
 つまり「ヤマもオチも意味もなくても、ちゃんと視聴者の方を向いてさえいれば面白いモノをこしらえることが出来る」んですよ。

 しかし実はユーチューバーからこの流れが始まったわけではありません。
 おそらく日本で最初に「ヤマなしオチなし意味なし」ながら世間を席巻したのはコント55号のコントではなかったか、という気がする。さすがに「全フィクションの中で最古」とは思わないけど、コントというかコメディアン、ヴォードヴィリアンのネタとしてはきわめて初期の例だとは思うわけで。

 コント55号より前のコントは、ま、意味はともかく<ヤマ>と<オチ>があるのが当たり前だった。だからコント55号より一世代前のクレージーキャッツのコントはコント本来の意味である「短い芝居」になっており、普通の芝居同様、ヤマがあってオチがあるのが当たり前だったんです。

 何しろ「短い芝居」なんだから作り込めばいくらでも精密に作れるし、最初から最後まで計算尽くしの伏線を張り巡らせた凝りに凝ったコントも作れる。
 ただし欠点として、ポイントを<笑い>に絞ってる以上、どうしても「大人のごっこ遊び」感が付きまとう。
 そこがコント55号のコントは違う。
 彼らのコントには「ごっこ遊び」の要素が微塵も感じられない。あるのは「大人同士の決定的な精神的対立」であり、<笑い>をポイントに絞っているにもかかわらずスリリングなリアリティが非常に高かったんです。
 こうなると、むしろ「オチなんかある方がおかしい」わけで、せっかくリアリティのある設定なのにオチなんかつけたら台無しにすらなってしまう、というか。

 落語の場合は「オチ」ではなく「サゲ」ですが、それまで語られてきた物語を完全に終結させるため、ある意味物語の世界観をぶっ壊すサゲも珍しくない。
 そもそもですが、物語っつーかフィクションを「どこで終わらせるか」はきわめて難しいのです。
 例えば「シンデレラ」で言うなら、ガラスの靴の持ち主がシンデレラとわかり、王子様と結ばれる。ま、これがオチです。
 ただ当然、シンデレラの人生はそこで終わるわけではない。その後も、おそらく王族となったシンデレラの人生は続いていくわけで、となると「主人公が死ぬまで」しか終わり方がなくなる。
 フィクションとは何か、を語るのは難しいのですが、アタシ個人の意見としては<凝縮>という言葉が一番ピッタリくる。もちろん、それこそ「24」のようにリアルタイム進行の作品もありますが、例えばヒッチコックの「ロープ」だって、短い時間の中で登場人物たちの「人生のクライマックス」と呼べる時間が流れるわけで、そんなことを言えば、ボーイズラブを含む<やおい>作品やコント55号のコントでさえ、<凝縮>は行われているのです。
 いや、この書き方では確実に誤解を招きます。
 実はフィクションだろうがノンフィクションだろうが、漫画だろうが映画だろうが舞台だろうが、<凝縮>は不可欠と言うか<凝縮のない作品や商品>などまず存在しないのです。

 すべてをたったひとコマに凝縮したものが、いわゆるひとコマ漫画と呼ばれるものですが、ココにも書いたように、時間さえ<一瞬>に圧縮してるわけです。
 さらに手塚治虫が好んだ、いわゆるモブシーンは徹底した時間の圧縮と人間関係の圧縮が行われており、しかもモブシーン自体はたいして意味がないことが多い。

 実際問題、フィクションにおいて「意味があるかないか」をはかるのは非常に難しく、ストーリーを進める上では意味がないかもしれないけど、視聴者だったり観客といった受取手を楽しませる、ということにおいては大いに意味がある、なんてことは往々にしてあることです。
 それこそシネミュージカルのレビュウシーンなど、ストーリー展開としてはまったく意味がないのですが、「やおい」で言うところの<ヤマ>になってるケースが非常に多く、意味のないシーンを観るために、言い方を変えれば<ヤマ>となるシーンだけを観るために劇場に観客が詰めかけたのです。

 そうこう考えれば、BLの、男性同士の性行為シーンも、意味があるかどうで言えばわからないけど、それ目的で購入する人がいる以上は<ヤマ>と言えなくもない。
 正直言えば「やおい」のうち、オチにかんしてはもう、本当にどっちでもいいのです。つまり「あろうがなかろうがどっちでも構わない」、もっと言えば「あるに越したことないかもしれないけど、無理に付加するようなものでもない」という感じか。
 それこそ落語では上演時間の関係で噺の途中で打ち切ってしまうことも珍しいことではない。というか長い噺の場合、最後まで演じられることはほとんどなく、キリの良いところで軽いサゲを入れて打ち切るのがデファクトスタンダード、なんて噺は本当によくあるのです。
 つまりフィクションの場合、最後まで語り終えられたかどうかは実はそこまで重要ではないのです。もちろん重要視するようなストーリーもあるんだけど、実は少ない。エピローグ的な展開が最後に用意されてるフィクションなどはそこを切ってしまってもたいして問題にならないケースが多く、となると大半のフィクションでは「オチなんかあってもなくてもどうでもいい」ということになってしまうのです。

 では<ヤマ>と<意味>ですが、これは「どちらかがあれば成立する」といった方がいい。そしてこれまた大半の作品は「<ヤマ>はあるけど<意味>はない」というふうになっています。
 そもそも<意味>とは何を意味するのか、何だか禅問答のようですが、高邁な意味でなければ意味ではない、とするなら、もうそれはエンターテイメントから外れてしまう。というか<意味>を追い求めたような作品は作者の理念というよりは「思い込み」が異様に強く、エンターテイメントとしては弱い、いやはっきり言えば作者のマスターベーションに近くなり、面白い作品になる可能性がきわめて低くなる。
 むしろフィクションに<意味>を入れろ、というのが非常に傲慢というか、意味があってなおかつ面白いフィクション、なんて超絶名作レベルであり、そんなものを新人漫画家に求めること自体が間違ってるとさえ言えるんです。

 先述の通り、BLも性行為シーンが<ヤマ>である、とするなら、逆に<ヤマ>のない作品を探す方が難しい。これはユーチューバーの動画にさえ言える。
 それこそHIKAKINがたまに、おもちゃ付きのお菓子を箱買いして、コンプリート出来るまで終われません、なんて動画を出してますが、意味もなければオチもないけど、コンプリートを達成した瞬間が<ヤマ>であることは否定し難く、つまり作品として見た場合、フィクションであるか否か問わず、どんな作品にも「人々を楽しませようとした瞬間に」<ヤマ>というものを考えるのです。
 いや実際に<ヤマ>があるかどうかは関係ない。それこそラジオなどでは<ヤマ>もなく平坦なままなのに全体としては面白いということもあり得ます。
 それでも、そんなラジオでさえ傑作回と言われるものは結果として<ヤマ>があるわけで、<ヤマ>を意識的に排除しよう、もし<ヤマ>が出来そうなら無理矢理にでも避けて通ろうとする、なんて作品としては失格も失格で、それこそ自分だけが高邁と思ってる<意味>という名のマスターベーションを撒き散らす勘違い作品が生まれるだけです。

 つまり人々を楽しませることにおいて本当に必要なのは<ヤマ>だけであり、「やおい」の語源となった作品も、そこから派生したBLも<ヤマ>があるかないかで言えば「ある」という結論になってしまう。
 ただし、では「やおい」というムーブメントが意味がなかったのか、というと大いにある。ある意味「やおい」は「オチと意味の徹底的な軽視」であり、「やおい」という文化が生まれたから実はたいして重要ではないオチや意味にとらわれない、人々を楽しませる作品の幅が広がったのではないか。
 話が逸れるようですが「ドリフ大爆笑」のオチに用いられるSE(♪ ズパパッズパズパパ~みたいな音)など「オチ軽視」の最たるもので、内容的にはまったくオチてないんだけど、効果音だけで「何となくオチた」と思わせているだけです。
 そしてそれが悪いことではない。どれだけキレイなオチがあっても、そのオチのおかげで完成度が上がったとしても<笑い>の量的にはそこまで違いは生まれないわけで、オチに頭を捻る時間があるなら他のコントの内容(というか<ヤマ>)を考える方がはるかに実利的です。

 今後、本当に変革が来るとするなら、それこそ<ヤマ>を意識的に排除して、なおかつ面白いエンターテイメントが誕生した瞬間でしょうね。
 でもそれはさすがに難しいよ。どうしても<ヤマ>のない、しかもそれなりに長尺のものだとダラっとした雰囲気になっちゃうし。ねぇ。

これ、2021年くらいから書き始めたのですが、どうやっても完成にこぎ着けられなかったエントリなんです。
途中でコント55号の話を入れたくらいから雲行きが怪しくなり始めて、そこから膠着状態に入ってしまった。一度はコント55号の話を抜いて書き直そうとすら思ったのですが、2024年になって何とかつなげる方法が見つかったので無事完成するに至りました。
いやあ、ロングスパンだなぁ。って他にも3年以上膠着状態のエントリがあるんでね、でもどれも完成させるためには発想の飛躍が必要なんだよなぁ。




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