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複眼単眼・やおい
FirstUPDATE2024.3.18
@Classic #複眼単眼 #フィクション #YouTube @クレージーキャッツ #笑い #アニメ・漫画 #性 ヤマなしオチなし意味なし 同人誌 芸術 HIKAKIN コント55号 コント 凝縮 落語 ストーリー @ドリフ大爆笑 全2ページ

 おいおい、ちょっと待て、と。お前さんはなんだ、こんなことまで興味があったのか、と思われるかもしれません。
 まあまあ、そう慌てなさんな。その辺の事情を含めてしっかり書いていきますんで、ゆっくりしていってね!

 現今、<やおい>という言葉は死語に近くなってしまっています。
 2ちゃんねる(5ちゃんねる)の「801板」はもうとっくに消滅したし(ま、これは別の事情だけど)、もはや、オタクであっても若い人は「やおい」という言葉がわからないかもしれない。

 一般に「やおい」という言葉は「BL」に置き換えられた、と言われています。
 BL、こっちはこっちでわからない人が多そうだけど、つまりは「ボーイズラブ」(美少年同士の恋愛物。性的描写が含まれる場合もある)の略語です。

 ということは、なんだ、お前さんはこれからボーイズラブのことを書くのか、と思われたら困る。残念ながらアタシはその界隈のことへの興味も知識も、完全にゼロです。
 じゃあ何を書くつもりなんだ、と言われると、やっぱり困ってしまうのですが、これを書くにあたってひとつのきっかけがありました。それはWikipediaの「やおい」の項目を読んだからなのですが、その前に「やおい」という言葉の興りから説明していきます。
 「やおい」は完全なる造語ですが、要するにこういうことです。

<や>ヤマなし

<お>オチなし

<い>意味なし

 フィクションにおいて、「ヤマ」と「オチ」と「意味」というのはきわめて重要なファクターだとされてきました。
 ヤマやオチや意味があって、フィクションというものが成立するし、王道と言われている展開にはもれなくこの3つが高度な形で存在している、と。
 これが事実であるかはおいおい検証していきますが、とにかく「やおい」という言葉が生まれる前の時点で「このフィクション、ヤマもオチも意味もないな」と言われるイコール、それは侮蔑や罵倒のニュアンスがあったんです。

坂田靖子の主宰する漫画同人会ラヴリに、会員の磨留美樹子の描いた「夜追い」(夜追)という漫画があり、真面目に付けられたタイトルだが、作者自身が後に「ヤマもオチも意味もない」とタイトルに当てはめていって言っていたという。(「やおい」」より。以下同。括弧内省略)


 こうして見ればお判りのように、「やおい」という言葉は同人誌から生まれた。これはもしかしたらイメージ通りというか、ああやっぱり、と思われるかもしれません。
 しかし重要なのは以下の内容です。

当時は同人誌の参加者はたいてい(筆者注・プロの)漫画家を目指しており、漫画を雑誌に投稿すると編集担当者から「ヤマがない」「オチがない」などと批評されており、編集者はストーリー構成に厳しく、書き手には山・落ち・意味をきちんと備えたものを書かなければならないという強迫観念があったといわれる。


 今さらWikipediaの信頼性をあれこれ言ってもしょうがないのですが、「ただの事実誤認」ならともかく、たしかに「一部の人間の完全な妄想がずっと後々まで残存する」なんてことが多いのも間違いない。
 それでも、少なくとも上記引用部にかんしては、アタシは真実だと思う。何故なら当時の大衆的な漫画雑誌の編集者が新人漫画家に「ヤマ・オチ・意味」を蔑ろにした作品を推奨するわけがないと思うのです。
 ただ、この「ヤマ・オチ・意味」を自作のフィクションに活用する、というのは、かなりの知識と経験が必要です。
 まず王道パターンをどれだけ知っているか、そして王道パターンをどうやって自身の発想に結びつけられるか、これは知識の溜め込みと「数をこなして学ぶ」ことが不可欠で、若い新人漫画家志望者にはなかなか難しい。

 ここからもっと根本的なことを書きます。
 若い、人生経験が浅い頃はよくこの手の勘違いをしやすいのですが

・フィクション=脳内にあることを形にする

・ノンフィクション=調査や取材をしたことをまとめる

 このような仕分けをしがちです。
 しかし、少なくとも元来はそうとも言い切れなかった。というか表現方法が違うだけで、どちらも基本的には同じなのです。

・フィクション=調査や取材をしたこと(「経験」でも構わない)を架空の設定を用いて<物語>として落とし込む

・ノンフィクション=調査や取材をしたことを実名等を用いて「実際に起こったこと」という形式で書く

 つまり、どちらも調査や取材は必要で、<素材>をどう調理するかでフィクションかノンフィクションかに分けられていた、と言ってもいい。
 別の言い方をすれば「脳内にあることを形に」した物語なんて、ほとんど、と言ったら言い過ぎだけど、あまり存在しなかった。
 人間が脳内で考えられる架空の話など、きわめて似通った、しかも得手勝手で共感性の薄いことしか思いつきませんし、何より<リアリティ>が希薄になる。さらに、少なくとも<多様性>のようなものはまったくない。
 だから漫画家に限らず、フィクションを創作する人は、国内外の様々なフィクションを受動して王道パターンを学び、調査をして、取材をして、交友関係を広げる。

中島梓(栗本薫)は(中略)単行本で、やおいという言葉は「「意味のあることだけが正しい」とされてきた既成社会への挑戦」であり「ヤマありオチありイミあり」社会に対するゲリラのテーゼ」と捉えている。


 ま、反論してもしょうがないけど、アタシの意見は違います。
 正直言って、「やおい」はゲリラテーゼでもアンチテーゼでもなんでもない。ただの開き直りです。「自分はヤマもオチも意味もあることなど描けない。ただ脳内にある<妄想>を垂れ流すことしか出来ない。しかし、それの何が悪い」という開き直りを感じる。
 そしてここからが重要なのですが、こうした「開き直り」は必ずしも悪いことではないのです。
 開き直りから世の中が広がるなんて往々にしてあることで、たったひとりの、磨留美樹子なる漫画家志望の女性の開き直りが、アタシは日本の文化を変えたとさえ思っている。

 えらく大仰な、と思われるかもしれませんが、アタシはひとりの<開き直り>からBLなる文化が生まれた、そんな小さいことを言いたいのではありません。というか「やおい」という言葉の誕生以前から同性愛物も美少年たちによる恋愛物もあったしね。
 そもそも「やおい」という言葉が出来た当初、「ボーイズラブ」とは何の関係もなかった。

最初は「やおい」には性的な意味は含まれていなかった。(中略)ストーリーがなくても、書きたいところだけを書いてもいいという自由さを提示し、売れて高く評価されたことで、こういうことをやってもいいんだという免罪符のようなものになり、ストーリー性の薄い、作り手の読みたい・描きたいシーンだけを集めた創作物が作られるようになった。作り手の読みたい・描きたいシーンだけを集めると、結果的に「男同士のあぶない話」ばかりだったのだという。


 こうして「やおい」は「ヤマなしオチなし意味なし」から「女性作者による男性同性愛」の作品、というふうに意味が変化したのです。
 しかし、変化後の、つまりボーイズラブの原型になって以降の「やおい」にたいしてアタシは何の興味もないし、批判も言及もするつもりがありません。
 ただ、どうも、語源というか、もともとの意味である「ヤマなしオチなし意味なし」には引っかかる。先ほどの引用にある『ストーリーがなくても、書きたいところだけを書いてもいいという自由さを提示し、売れて高く評価されたことで、こういうことをやってもいいんだという免罪符のようなものになり、ストーリー性の薄い、作り手の読みたい・描きたいシーンだけを集めた』というところが、とくに。

 ひとつだけ引用から補足するなら、やはり、どこかに<脳内>という言葉を入れたい。『ストーリー性の薄い、作り手の<脳内にあることだけで作り上げた>読みたい・描きたいシーンだけを集めた』とした方がしっくりきます。
 アタシは何も<脳内にあることだけ>で何かを表現することにたいして否定的ではありせん。
 ただし、それは商品ではなく<作品>です。言葉尻を捉えられても困るけど、アタシは商品と作品を峻別しています。
 商品というのは、言い換えれば「金銭的な価値がある」ということになる。誰からも称賛される可能性を持った創作物です。
 一方作品は「金銭的な価値を度外視で作ったもの」と言える。闊達に、誰にも遠慮なく創作することは出来るけど、間違っても金銭的見返りや称賛を求めてはならない創作物というか。
 つまり、前者はいわば「商売」であり、後者は「芸術」です。
 芸術は芸術で本当に素晴らしいものですが、5ちゃんねるの某板や某ニコニコ動画のように「金儲け=悪」という価値観が正しいとも思ってない。
 ただ、自分の好きなようにやりたいのなら、称賛も金銭も、あきらめなければならない、この状態が当たり前だったのです。

 そうした常識に一石を投じることになったのが「やおい」だと思うんです。
 これまで引用した中でとくに重要なのは、やおいという文化が生まれて、つまり脳内の妄想の垂れ流しが『売れて高く評価された』ことです。
 これはもう、価値観の変化と言ってもいい。「お客様第一」でなければ商品として成立しなかったはずが「得手勝手な妄想」も、実は商品として成立した。アタシの言う『日本の文化を変えた』とは、つまりはそういうことです。

 やおいの起点は1970年代後半ですが、一気に現今のようになったわけではありません。
 布地に染みが広がる如く、徐々に、あ、そういうことが出来るんだ、と多くの人が気づき始め、浸透していった。
 気がつくと、旧来の「ヤマありオチあり意味あり」フィクションと「ヤマなしオチなし意味なし」フィクションは、ほぼ対等になっていました。
 「やおい」か「やおい」でないか、そこは問われない。「ヤマありオチあり意味あり」であろうが「ヤマなしオチなし意味なし」であろうが、それをどれだけ受け取り手が面白がるか、そうしたことが問われる時代になったのです。

 ここまでは、たったひとりの漫画家志望の女性の開き直りが如何に日本の文化を根本から変えたかの説明に費やしてきましたが、Page2ではさらに現今の状況について掘り下げていきます。