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徹底比較「クレージーだよ天下無敵」VS「エノケンの頑張り戦術」
FirstUPDATE2023.6.8
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 ここからは、では何故、「頑張り戦術」の相手役という<笑いを生み出す>必要がある役に如月寛多が抜擢されたのか、を書いていきます。

 実は<必ず>というほどではないのですが、それでも大半のエノケン映画にはエノケンが縦横無尽に動き回るシーンが挿入されています。エノケンの売りは<歌>と<身体能力>だったのだから、まァ当然と言えば当然だけど。
 ただしエノケンはチャップリンやキートンとは違いパントマイム芸人ではなかった。だから、いわば技術なしに持って生まれた身体能力だけでアクションをこなしていたわけで、しかも完全にアイデアが不足していることもあって、エノケン映画のドタバタシーンはあまり、いや正直に言えばぜんぜん面白くない。
 「頑張り戦術」の監督であり、多数のエノケン映画の監督をつとめた中川信夫はエノケンの喜劇王という称号にたいして「それほどのものでもなかった」と回述しています。
 もちろん、だからと言ってエノケンを認めていないわけではない。いやむしろ、何故エノケンの身体能力が映画で活かされていないのかの分析をおこなっていたとおぼしい。

 小林信彦は「エノケンは逃げ回る時に真価を発揮する」と記していますが、いくら逃げ回ってもそこは絶対に、パントマイム芸人だったチャップリンやキートンにかないっこないのです。
 それよりも、狭い空間で、誰かを相手に、飛び回っている方がエノケンに向いているのではないか。
 これは「頑張り戦術」より後になりますが、同じ中川信夫監督の「エノケンの誉れの土俵入」が成功したのは、エノケンがアクションを見せるのが「狭い土俵の上」だったことにあると思う。
 狭くてゴチャゴチャした中でトンボを切ったり土俵を走り回ったりするのはエノケンの身体能力があればこそです。

 これがもし、もう少し広い場所であればパントマイムという芸があった方が有利で、有名なチャップリンのボクシングシーンもリングという土俵より広いというのが大きいと思う。逆に言えば土俵くらいの大きさであればパントマイム芸なしで十分イケるということではないか、と。

 「頑張り戦術」にもエノケンと如月寛多が取っ組み合うシーンがいくつか用意されており、ここでのエノケンは本当にイキイキしている。とくに旅館の布団の上や廊下で行われる取っ組み合いシーンは、空間の狭さが活きています。

 狭い空間での取っ組み合いが出来る相手、となると、これはもう如月寛多しかいない。
 師匠の柳田貞一に本気で飛びかかれるわけがないし(「爆弾児」での柳田貞一に飛びかかる場面を見れば一目瞭然です)、同格の中村是好や、この時出演が不可能だったとはいえ二村定一では絶対にエノケンが遠慮してしまう。
 その点、如月寛多は実家の煎餅屋の小僧で、いわば終生エノケンにつかえる身だったわけです。だから本気で飛びかかれる。如月寛多としてもある意味防御一辺倒で良いのだからやりやすい。
 結果、エノケンの演技はのちのプロレスに近いものになっているんです。小柄なエノケンがプロレス紛いのことをやるのだから、面白いに決まっている。

 さて、ここからは再び「天下無敵」と「頑張り戦術」の比較になります。
 Page1に書いたように「天下無敵」は「頑張り戦術」のリメイクではありません。では何故、坪島孝はリメイクではなくコンセプトだけ同じのオリジナルにしたのかを考えたいと思います。

 簡単に言ってしまえば、役者としてのタイプがまるで違うから、という身も蓋もない話になってしまうのですが、主演者ふたりの関係性もまったく違うことはここまで読んでもらえば理解していただけるはずです。
 師弟関係でこそないものの、エノケンと如月寛多は出会ってからエノケンが亡くなるまで、常にエノケンが圧倒的に上の立場だった。しかし植木等と谷啓は違う。年齢こそ7つほど違いますが同じクレージーキャッツというバンドのメンバーであり、同士であり、友人でもあった。格も完全に同じであるし、植木等は谷啓を、谷啓は植木等を生涯尊敬していたと言ってもいい。
 そもそもタイトルからして「頑張り戦術」は実質エノケンと如月寛多のダブル主演であるにもかかわらず「エノケンの頑張り戦術」なのです。少なくとも如月寛多の名前はタイトルには入っていない。
 しかし「天下無敵」は「クレージーだよ天下無敵」。当然「クレージー」の中に植木等も谷啓も含まれているわけで、同じ扱い、同じ比重でない方が不自然です。

 しかも植木等と谷啓はまったくアクションを、というか身体能力を売りにしていない。実際、このふたりが取っ組み合いをするのは想像出来ないし、ラストにやや掴み合いめいたシーンはあるものの、別にそのシーンが見どころになっているわけでもない。
 となると仕事や恋愛などで「抜きつ抜かれつ」をやるのが妥当で、どう考えても「頑張り戦術」のリメイクをやるより「コンセプトだけ同じのオリジナル」にした方がいいに決まっているのです。

 ここで「西の王将東の大将」についても触れておきます。

 藤田まこととダブル主演とはいえ、東宝としては初の谷啓主演映画で、監督はお馴染みの古澤憲吾がつとめたこの作品には少し珍しい趣向が入っています。
 艶笑劇、とまでは言えないものの、クレージー物に限らずここまで<セックス>が前面に出た東宝映画は珍しく、さすがにそれ自体の描写こそないものの事前と事後は頻繁に描かれている。
 古澤憲吾は「子供でも見れるようなもの」を念頭にどの作品も演出していたと語っていますが、これは例外中の例外でしょう。ただしそういう気持ちがあるせいか、けして下品なイヤらしさはなく楽しい作品に仕上げているのはさすがですが。

 内容は大学時代からのライバルである谷啓と藤田まことが同じ会社に就職し、ふたりが徹底的に張り合う様がメインテーマであり笑いのタネにもなっています。
 と書けばおわかりの通り、題材的には「天下無敵」と(ひいては「頑張り戦術」とも)まったく同じなのです。
 主演者のひとりが谷啓であることを含めて、「天下無敵」はどちらかというと「頑張り戦術」よりも「西の王将東の大将」の方が近い。極端に言えば藤田まことを植木等に代えて、艶笑要素を無くせば「天下無敵」と同一シリーズと言っても過言ではないほど酷似している。
 それ以外の違いは坪島孝と古澤憲吾の違い、というか監督の好みの違い程度しかないと言っていい。

 考えてみれば当たり前の話なのですが、古くから「主役のふたりが徹底的に張り合う喜劇」なんてどれだけあるかわからないほどある。つまりけして「頑張り戦術」の専売特許じゃない。もっと言えば喜劇の定形というか定石でさえあると言ってもいいわけで。
 だから内容の類似性で語るなら、まだ「天下無敵」と「西の王将東の大将」との比較をする方がマトモで、時代も出演者の特性も何もかも違う「天下無敵」と「頑張り戦術」を比較することなど何の意味もないということになる。

 それは最初からわかっていました。
 そして実際、「天下無敵」と「西の王将東の大将」を「坪島孝X田波靖男コンビ」と「古澤憲吾X笠原良三コンビ」の比較として、つまり「もし同じ題材で両コンビが映画を作ったらどうなるか」をメインテーマにした方が、より「クレージーキャッツの」ファンサイトらしい、というのもわかっていた。
 しかし坪島孝がたびたび「天下無敵は頑張り戦術の影響」を語っていたので、それを無視することは出来なかった。結論に結びつくわけではないけど、どうしても先に「頑張り戦術」との比較を済ませておかなくてはいけないことであったには違いないのです。
 しかし本エントリで本当にやりたいのは<そこ>ではありません。題材的なことではなく、坪島孝がどれほど中川信夫流喜劇に影響を受けているかの検証がしたいのです。

 というわけで、ここからは「天下無敵」と「頑張り戦術」の話というよりは、中川信夫と坪島孝というテーマで書いていきたいと思います。
 坪島孝と言えば、自ら「これを撮るために生まれてきた」とまで言わしめたラスベガスでのダンスシーンということになると思います。
 個人的には、音楽劇の演出家としての素養は、まったく音楽劇に関心がなかったはずの古澤憲吾の方が圧倒的に上で、とにかく坪島孝はレビュウシーン、歌唱シーンになると精彩がなくなる。
 さすがにこれはいただけない、と思ったのは「女はそれを我慢できない」の1シークエンスを模したような「天下無敵」の「それはないでショ」を歌うシーンで、アタシが個人的に「天下無敵」の評価が低いのはこのシーンがダメすぎるから、というのもある。


 だからこそ、なのですが、ラスベガスのあのダンスシーンは、一縷の隙もない、とは言い過ぎだけど、坪島孝としては完璧な出来で、時間の関係からすべてのシーンをラスベガスで撮影出来ないという制約を逆手に取ったような、ラスベガスの光景をチラチラ映り込ませながら、ラスト間際になってついに大通りの真ん中でクレージーの面々が歌い踊るカタルシスはシリーズでも白眉の大傑作シーンです。

 ただ、本当に、あのラスベガスのシーンだけで、「クレージーメキシコ大作戦」のラストは途中からクレージーが映らなくなるので不満が残るし、以降の作品にはショウ的なシーンすらない。しいて言えば「だまされて貰います」の「カモン!ニューヨーク」はショウ的にしようとした痕跡はあるけど、なってない。

 そもそもの話、坪島孝はエノケン映画が好きで、エノケン映画のような<喜劇>を撮りたいとは思っていたとはいえ、エノケン映画のような<音楽喜劇>(山本嘉次郎ふうに言うならシネオペレッタ)にはさほど関心がなかったのではないかと思うのです。

 Page1にてアタシは「坪島孝は中川信夫の影響が濃厚」と書いたのですが、しかし、一方で山本嘉次郎の影響はほとんど見て取れない。
 同じエノケン映画でも中川信夫監督作品と山本嘉次郎監督作品の違いは明白で、ただたんに挿入歌が多い少ないだけでなく、山本嘉次郎は<ギャグ>と<音楽>を同比重で考えていたとおぼしい。
 だからエノケンヤマカジコンビの映画には「ストーリー的にも<笑い>的にも無意味」なシーンがかなりある。「エノケンの青春酔虎伝」においてしつこく繰り返される「Printemps~恋する春~(Yes, Yes, My Baby Said Yes, Yes!)」をバックに女学生が戯れるシーンは言うに及ばず、「エノケンの千万長者」で二村定一と高清子の「ウブなふたりのように(I've got a Feelin' You're Foolin)」を歌うシーンに続いて、曲はそのままに女性ふたりがテーブルでダンスするシーンも、ギャグもなければストーリーが進むわけでもない、という意味においてレビュウシーンなんです。


 こうした「ストーリー的にも<笑い>的にも無意味」なシーンは中川信夫作品には存在しない。
 そりゃ、何たってエノケン映画だから歌唱シーンはあるんだけど、「頑張り戦術」で言えば「僕は泳ぎの名人だ(My Baby Just Cares For Me)」を歌うシーンにすらオチがついている。つまりギャグが入ってるということになる。

 中川信夫のエノケン映画で唯一レビュウシーンと言えるのは「エノケンのワンワン大将」の誕生日パーティーのシーンだけど、中川信夫のレビュウシーンへの「向いてなさ」が浮き彫りになってる。
 つまり坪島孝は中川信夫の「モダンで細かいギャグを大切にする」精神を受け継いた一方「レビュウシーンでは精彩を欠く」という欠点まで受け継いでしまった、というふうに思えるのです。

 これは何度もしつこく書いてることですが、アタシは東宝クレージー映画はすべて古澤憲吾に任せるべきだった、と考える極端な人間です。
 しかしそれは古澤憲吾と比べて坪島孝を下に見ているからではなく、坪島孝が真価を発揮するのは大作ではなく、レビュウシーンのない、シブいプログラムピクチャだったと思うからなんです。
 それこそ「奇々怪々・俺は誰だ?!」なんか坪島孝以外作れない作品ですし、「クレージーメキシコ大作戦」での、ラスト間際、ダイナマイトを持った植木等が海に飛び込み、後を追って浜美枝も飛び込んだ後のシーンが好きなんですよ。
 ああいった感じを前面に押し出したような、東宝クレージー映画のカラーとは違った、んでちゃんとしたキスシーンがあるようなね、植木等と浜美枝によるダブル主演のロマンチックコメディを作れば結果的にクレージーキャッツの<幅>が広がったような気がする。

 もしかしたらそれは「エノケン映画に憧れていた」坪島孝にとっては本意ではなかったのかもしれない。
 しかし、それで言えば「戦争アクションが撮りたい」と思いながら音楽喜劇ばかりやらされた古澤憲吾もそうで、何でそうなったかはココでも書いたけど古澤憲吾は音楽喜劇が「やりたくないかもしれないけど何故か向いていた」からです。

 これは坪島孝の東宝クレージー映画以外の監督作品を見るとよくわかる。
 「愛のきずな」は松本清張原作(原題は「たづたづし」)だけど、こんなミステリでさえ坪島孝流というか様々なシーンがギャグで処理されているし、「ルパン三世・念力珍作戦」もパロディ要素の大きい「ごっこ遊び」作品になっています。完全なアクション映画である「蟻地獄作戦」も谷啓が登場するシーンに<笑い>が入っている。
 唯一「鬼輪番」はギャグのない作品だけど、原作が漫画というか劇画ということもあって「リアル」というよりも「漫画的なシリアス」に留まっている。
 ま、どんな題材であれ坪島孝のカラーが濃厚で、言い方を変えれば不器用なのかもしれない。つまり「とくに撮りたいジャンルもなく、何でも撮った=何でも撮れた」中川信夫とはあきらかに違う。

 もちろんね、それが悪いわけではないのですよ。ただ、坪島孝の特性を東宝が理解して、ある意味「東宝クレージー映画の枠にとらわれない、クレージーキャッツのメンバー誰かひとりを主演に使った小品」に特化させたら、もっともっと佳作が作れたんじゃないかと思うわけで。
 谷啓主演物は実際にあるから割愛するけど、植木等主演はさっき書いたロマンチックコメディにする。ハナ肇主演作は山田洋次作品とはまた違った感じになったろうし、犬塚弘主演作も谷啓作品とは違った意味で風変わりな作品になったと思う。
 そして結果的に主演作がなかった桜井センリ、安田伸、石橋エータロー主演映画を坪島孝が撮ってたら、と思うと、それだけでワクワクします。

 クレージーキャッツの話になるとどうしたって「たられば」の話になってしまうのですが、東宝クレージー映画で言えばやっぱね、大作や本流の作品はすべて古澤憲吾に任せ、坪島孝は小品の監督と超大作の脚本として関与する、という形がベストだった気がしてならないのです。

いかがだったでしょうか。ま、もちろん「beforeWW2Beats」にも入るんだけど、あくまで「CRAZY BEATS」用のエントリなので、クレージーキャッツファンがあまり詳しくないであろう「エノケンの頑張り戦術」を中心としたエノケン映画並び中川信夫監督のことをかなり詳細に書いていきました。
たしかに本文中でもあるようにエノケン映画を観ることは容易ではないのですが「東宝クレージー映画の原点」という視点でエノケン映画を見ると意外と楽しめると思うので、機会があれば是非観て欲しい。
もうひとつ。ここ数年もクレージーネタは書いてきたのですが、すべて「クレージーファン以外の人が読むような場所」でのエントリであり、完全にファンサイト向けの文章を書くのは実に13年ぶりなので、かなり楽しかった。だってファンサイトってことは「クレージーキャッツって、何?」って人に向けた説明をすっ飛ばせるから。ま、その分エノケン関係の説明が結構大変だったんで<いってこい>だったけどさ。




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