ま、「SPレコード入門 」という書籍のレビューなのですが、もう発売から1年ちかく経っていますので、かなり変則な感じで書いていきます。
思えばアタシが、今の今までインターネット上に駄文を書いてきた一番のモチベーションは「若き日の自分のため」なのかもしれません。
とくに「複眼単眼」と称したシリーズは「浅いってほどでもないけど、とても研究レベルまではいかない」程度の感じで書いているのですが、何故そこまで掘り下げるのか、そして何故そこまで<しか>掘り下げないのか、その基準にあるのはけして面倒とかではないんです。
とくに上記3エントリはそうなのですが、これらはアタシの若き日、つまり高校とか大学の頃に「浅草って何であんな感じなんだ」「演歌って」「時代劇って」みたいにフシギに思っていたことなんです。
そうは言ってもあくまで「ボヤーっと」でしかなく、これらの疑問を解決するために調査したりはしなかった。当時は遊ぶのに忙しかったし、よしんば本気で調べたいとなっても調べる方法さえわかってなかったんです。
そういうことが引っかかりながら無事ジジイになったのですが、こうやってね、20年にもわたって駄文を書いていくとだんだんテーマが枯渇する。当たり前です。
そこで、ふと、思いついた。あの頃の自分の頭の中にあった疑問に答えていこう、と。
だからね、この「複眼単眼」の掘り下げるべきラインは「若き日の自分の疑問が解消出来るレベルまでは掘り下げて、逆に若き日の自分では噛み砕けないレベルより深くは掘り下げない」と決めたんです。
もし、若き日の自分がこれらのエントリに出会ったら、そうそう、こういうことが知りたかったんだ!こういう文章が読みたかったんだ!そう思えるものを書きたい。これはここ数年の自分の中のテーマになっています。
何故人は何かを書くのか、いやもっと言えば何故果てしのない調査だとわかっていても調べる手を緩めることが出来ないのか、何故無限だとわかりながら試行錯誤が止められないのか。そしてそれを何らかの形にしようとするのか。
アタシは「日本一の色男」の光等の名言じゃないけど「オール自分のため」だと思っている。正確には「オール(若き日の)自分のため」というべきか。
もちろん真意は知りませんが、アタシは「SPレコード入門 ~基礎知識から史料活用まで」を読んで、同じ<ニオイ>を感じた。
著者である毛利眞人氏は「沙漠に日が落ちて 二村定一伝」のような評伝も書いておられますが、「SPレコード入門」は「読み物」というよりは「TIPS」に近い内容になっています。
世の中にはいろんなTIPS本がありますが、TIPS本である限り「参考」や「実用」にはなるにせよ「共感」や「感動」は生まれないのが普通です。
実際、この「SPレコード入門」もほとんどの人には非常に優れた実用書であるのは間違いない。
たしかに、SPレコードの蒐集家、そしてこれから蒐集を始めようという人には最高グレードの実用書であると思う。というかこの書籍を買い求めるのはそうした方がほぼすべてでしょう。
でもこれは、もしかしたら毛利氏は「若き日の自分のため」に書いたのではないか、と感じた。
もし、自分が(=毛利氏が)若い頃、つまりSPレコードの蒐集をはじめた頃に、こんな書籍があったら、どんなに良かっただろう、どんなに助かっただろう。そんな思いで書かれたものではなかったか。
自分でも本当に変だとはわかっているのですが、「SPレコード入門」を読了して、何だか感動してしまった。ほとんどの人には実用書なのに。
ま、アタシと毛利氏はジャズ評論家の瀬川昌久先生の寵愛を受けた関係(といっても毛利氏と直接お会いしたことはないけど)というバイアスがあるのかもしれない。
これも言うまでもないけど、同じ瀬川先生から寵愛を受けたにしろ、アタシと毛利氏では月とスッポンです。だからこんなことを書くのはおこがましいのかもしれない。
そもそもアタシはSPレコードの蒐集家ではない。さすがに一枚も持ってないわけではないけど、エラそうに蒐集家です、なんてとても言えない。
それでも、こういう書籍が発売されます、と知った時、何だかピンときた。これはどれだけ金欠でも買わなきゃいけない本だって。
「沙漠に日が落ちて」や「ニッポン・スウィングタイム」の著者が「SPレコード入門」のような書籍を出す。つまり読み物や研究書を執筆されてきた人がTIPS本を出すなんてケースを、アタシはひとつも知らない。
どんな理由があったにせよ、これは並々ならぬ<覚悟>がないと無理だったんじゃないかと思うわけで。
アタシの持論として「純文学とは過去の自分に向けて書いたものではないか」と思っているのですが、もしかしたら「SPレコード入門」は実用書にして純文学かもしれない。何度もしつこいけど真相はわからないんだけど、それでアタシは本書の陰に「若き日の毛利氏」がいるような気がするのです。