大阪の人は<浅草>について決定的な誤解をしているらしい(小林信彦著「喜劇人に花束を・第二部 藤山寛美」より
アタシは「大阪の人」ではないものの、まァ関西の人間なので似たようなものですが、いくら関西の人間でも文献をあたればある程度「浅草」がどういう街なのかはわかるはずです。
たとえば上記の書籍で書かれているような『浅草六区が興行のメッカだったのは敗戦までである』なんてことは、すぐに調べがつくし、そこは東京の人間だろうが関西の人間だろうが、人が溢れかえっていた浅草を知ってる者と寂れた後の浅草しか知らない者とでも、差はない。この辺は所詮知識の問題だからです。
アタシが一番引っかかるのは、大阪の人が浅草について誤解しているかはともかく、では東京の人は誤解してないのか、というところなんですよ。
まずややこしいのが、浅草はけして新興の盛り場ではないというところです。だから歴史を紐解かなきゃいけない。
これが「大阪の浅草」扱いされることが多い新世界なら新興の盛り場だったという人の気持ちもわかるのですが、浅草はいつの時代も浅草寺という土台みたいなものが昔からあったわけです。
ところが新世界にはそんなものはない。博覧会会場となったことで、突然、といった感じで街が誕生した。そこが浅草との決定的な違いです。
しかし浅草が芝居や演芸といった、いわば文化の香りがするようになったのは江戸の末期であり、それこそ新世界とそこまで歴史が変わるわけではない。ま、それでも「新興」と言い切るには無理があるのですが。
雷門から仲見世、そして本丸とも言える浅草寺を中心に発展していった浅草ですが、江戸末期になって六区と呼ばれる地域に芝居小屋が乱立するようになります。
実際に浅草に行かれたことがある方ならおわかりでしょうが、雷門から六区まではそれなりの距離があるんです。店が立ち並んで華やかなので気づきづらいけど、六区は浅草の外れの方と言えんこともない。
ただ吉原もそうなんだけど、浅草寺の境内を弄り倒すわけにもいかないといった事情もあって、周辺が発展する傾向にあったのも間違いないわけで。
でもね、六区にかんして言えば、そりゃ地名は浅草かもしれないけど、仲見世を含む浅草寺と「ごっちゃ」にしちゃいけないと思うんですよ。
というよりも、「ごっちゃ」になってることが今現在の浅草の最大の問題なんだと思う。
たとえばサンバカーニバル。歴史は意外と古く、1981年に始まったらしいですが、いろいろ批判もあるようです。
たしかに浅草寺と仲見世こそが浅草と捉えるなら、こんな不似合いなものもない。しかしこれが六区を含めた浅草となると、何となく合ってる気もする。
ここで六区のことを詳細に書いておきます。
六区には、先ほども書いたように江戸末期から芝居小屋が乱立するようになったのですが、特徴的なのが、けして伝統などを作ろうとせず、常に新しいものを取り込んでいった、というところです。
歌舞伎や古いスタイルの演芸が駆逐され、大正に入ると活動写真(映画)や浅草オペラの小屋が立ち並ぶようになる。
関東大震災でそれらも立ち行かなくなると、今度はモダンなレビュウや軽演劇(喜劇)を上演する小屋が出来、戦争が終わるとストリップ小屋が次々に出来る、といった塩梅で、実は浅草と言えばコレ、というような芸能はないんです。時代に合わせてというか、とりあえずニーズがあるものを貪欲に取り入れていった、というか。
そんな良くも悪くも「機を見るに敏」な浅草のカラーが薄れてきたのは、六区が本格的に寂れていった1970年代に入って以降でしょう。
この頃から「浅草の伝統を守ろう」と声高に叫ぶ軽演劇の人が出始めた。この浅草の伝統ってのが、まァ何しろ声を上げたのが軽演劇の人なので、当然軽演劇ってことになる。
しかしここまでの話を読んでもらえれば理解してもらえるだろうけど、軽演劇なんてあまりにも日が浅いものでしかないわけです。そもそも軽演劇が浅草に根付いたのは、甘めに言っても1930年代半ばからで、浅草オペラやレビュウなどのモダンなスタイルの芸よりも、少なくとも浅草という場所においては新しい。まさに新興の芸能です。そもそも軽演劇というもの自体、エノケン他が築き上げた音楽劇から音楽色を薄めて喜劇色を強めたものであり、極端なことを言えば傍流、は言い過ぎにしても、派生して出来たもの、と言えなくもない。
だからこそ、どうも浅草=軽演劇、という風潮には抵抗がある。
しかし誰も、音楽とダンスと笑いが混然となったモダンな音楽劇こそが浅草の象徴、という人はいない。そういうことを研究したりしている人の間でさえも言われない。
何故ならモダンな音楽劇でさえ、ちゃんと歴史がわかっていれば「新興の芸能」であることを理解しているからなんです。
本当はサンバカーニバルなんか、ウケるのであれば何でも取り込む、といった意味において、実に浅草的(正確には浅草六区的)なんですよ。ま、何でまた「サンバ」なのか、はわからんけど。
こうして見れば、浅草のイメージが一筋縄ではいかないことを了承してもらえると思います。
関東大震災が起こって以降、つまり昭和に入ってからの話ですが、日本の二大興行街はずっと有楽町界隈と浅草でした。
これは平成になってからも基本変わってないと思う。たしかに浅草はご覧の有様だし、有楽町界隈も最近日比谷にTOHOシネマズ日比谷が出来たりなんかしましたし、帝劇や東京宝塚劇場は今でも健在ですが、それでも戦前の頃と比べると特別な場所という感じではなくなった。
では他に変わる興行街があるのかと言えば、残念ながらない。だから「浅草も有楽町界隈も落ちたけど、興行街というもの自体がなくなった」ってことなんです。
浅草、正確には浅草六区の最盛期はいつになるのか、ということになるとかなり難しい。
作家の色川武大が学校をサボって浅草を彷徨いだしたのは1940年頃らしい。しかし色川武大が活写した当時の浅草は、とてもじゃないけど「華やかな興行街」というイメージから程遠いのです。
野宿者(浮浪者に限らず定宿のない者や、家に帰るに帰れなくなった人もいっぱいいたらしい)も多いし、実際色川武大は「底辺を漂う役者や芸人」に親近感を覚えて浅草通いが止められなくなったといいます。
もちろん後の創作が入っていないとは言わない。浅草を根城にしながらも一流の人は一流なりの暮らしをしていたと思う。
だけれども、1940年頃の浅草と言えば、エノケン(榎本健一)やロッパ(古川緑波)といったスターはみんな出世して「一流の興行街」である有楽町界隈の劇場に進出した。そして彼らはまた映画にも進出したことで、全国的に知られる存在にまでなりおおせていたのです。
有楽町に進出出来なかった役者や芸人は浅草で頑張るしかなかったのですが、残念ながら大半の人は「どおってことない」人たちでした。
その中で気を吐いたのはシミキンこと清水金一で、太平洋戦争末期の浅草はシミキンがひとりで支えたと言っても過言ではない。
ただしシミキンも所詮は浅草のローカルスターに過ぎなかった。エノケンの後を追うべく何度も映画への進出をはかりますが、失敗を繰り返している。つまり当時浅草最大のスターでさえ、中央では「モノにならない」程度の存在でしかなかったわけで。
それらを考慮するなら、色川武大の筆を「作家の創作」と片付けるわけにはいかない。たぶん、仮に浅草で天下を取ったとしても、どうやっても中央には相手にされない、そんな二流の興行街であったことは間違いないはずです。
1940年代前半、ほぼ戦時中と重なりますが、昔の名前で出ています的なかつてのスター(二村定一など)、新進気鋭ではあるものの小粒なローカルスター(清水金一など)、実力のわりには正当に評価されない者(森川信など)、あと能力的に劣る者。当時の浅草はそんな役者の吹き溜まりだった。劣等感の渦巻く場所、と言い換えてもいい。
冒頭で「浅草六区が興行のメッカだったのは敗戦まで」という小林信彦の一文を引用しましたが、すでに太平洋戦争が始まる前の時点で凋落は始まっていた、と言うことになります。
が、凋落、つまり落ちることが可能だったということは、それ以前はもっと高いところにあったということになる。
浅草のスターであり、中央のスターになり得たエノケン、ロッパが浅草に腰を据えていたのは1930年代半ばまで、ということを鑑みれば、彼らがのし上がっていった1930年代始めからが、そして彼らが去った1930年代半ばまでが浅草の全盛期である、と仮定してもいいと思います。
それ以前となると、ポテンシャルはあったんだろうし、勢いとしては1930年代前半よりもあったかもしれないけど、ここは全盛期への助走期間、と言うことにしても良いんじゃないかとね。
そう考えれば、浅草の全盛期は長めにみて10年、厳しくみるならたった5年しかない。それ以降は中央で成功するようなスターもおらず、有楽町界隈に一流を標榜する劇場が出来たこともあって、二流の興行街に甘んじたわけです。
もちろん1930年代までは抵抗の色を見せていた。関西の吉本興業が進出してきたり、松竹は国際劇場なんていう馬鹿デカいレビュウ劇場を作ったりもしました。
しかし流れは変わらない。有楽町界隈が着々と「一流の興行街」として地盤を築いていっていたのと対照的です。
浅草の最大の弱点は「ガラの悪さ」と「劇場が多いと言っても大半が(今でいう)小劇場」だったことです。
「ガラの悪さ」は時代を考えればやむを得ないことなのですが、それは同時に「入場料を安価に設定しなければ客が入らない」ことでもありました。
小林一三の肝いりだった日劇や有楽座がいち早く「劇場のランクに相応しい入場料」と「<マチネ>(昼公演)、<ソワレ>(夜公演)の1日2公演」にしたのにたいし、浅草の劇場は値上げできない入場料を補うために1日3公演、客が入るとなると平気で一部を端折らせて4公演、5公演にしたと言います。
これではクオリティを保てるわけもなく、次第に「安かろう悪かろう」になっていった。客層が悪いことも相まって、どんどんイメージが悪くなったのも致命傷になったはずです。
1970年代になって当時の軽演劇の人が浅草の復興を目論んだみたいな話を書きましたが、浅草という場所柄に相応しい入場料と興行主を潤すほどの収益を得ることの両立が出来たのは、浅草六区が人で溢れ返っていた1930年代半ばくらいまで(甘めにみても戦争が終わるまで)なのです。
1970年代と言えば浅草六区を歩く人もめっきり減り、興行として成立するのか疑問な(こういっちゃナンだけど時代遅れの)軽演劇を復興させるなんて土台無理な話で、まァ、自己満足に近いものにしかなるわけがない。売れてない頃のビートたけしがボロカスに批判したというけど、真っ当な批判です。
浅草軽演劇の復興をブチ上げた当時の軽演劇の人は、そういうことに気づいていたのだろうか。
もし「軽演劇」を復興したいのであれば、浅草にこだわらず地方公演に活路を見出すべきだし、浅草という場所にこだわるなら、軽演劇ではなく当時盛んだった小演劇を誘致すべきだった。今でこそ小演劇と言えば下北沢だけど、まだこの頃はそうじゃなかったわけでね。
さてここからは若干趣旨を変えて、あるひとりの人間を通して浅草について書いていきたいと思います。
と言ってもここまでに名前が出てきた色川武大や小林信彦ではありません。年齢で言えばもっと上、つまりアタシが「浅草の最盛期」と仮定した1930~1940年前後に大人だった人物です。
その人物の名前はサトウハチロー。詩人であり、作詞家であり、喜劇作家であり、ユーモリストであった、そして存命の、と言ったら失礼だけど、あの佐藤愛子と異母兄妹のサトウハチローです。
アタシは彼らにたいして、大いなる賞賛の意味を込めて「キ◯ガイ一族」と書いたことがありますが、とくにサトウハチローにはキチ◯イ一族でなければ不可能なスケールの大きさを感じざるを得ません。
彼の著作で現在一番知られているのは、21世紀に入って復刻された「僕の東京地図」でしょう。
これがとんでもなく面白い。名ばかりのユーモリストが多い中、現代人であるアタシが読んでも吹き出してしまうくらい面白いのです。
あくまで街の紹介というテーマを崩していないのに、そこにこれでもかと言えるほどギャグを入れ込んでいってる。とくに括弧内をツッコミとして利用しているのがすごい。つかこれ、たまにアタシも真似してるんだけどね。(真似に溺れるなかれ)←こんな感じで。
「僕の東京地図」の最大の読ませどころは浅草にかんする記述です。いろんな街を紹介してあるけど、浅草と他の街では愛情のかけ方がぜんぜん違う。
ここには最盛期の浅草の姿が、あまりにも深い愛情で、オモテからウラまで、何も余すことなく書き尽くされています。まるでサトウハチローに連れられて1930年代半ばの浅草を歩き回っているような錯覚に陥るほどです。
具体的な値段も書かれてますが、どの店も安い。値段だけではなく気安いのも特徴で、飲み屋嫌いのアタシでも「こういう雰囲気であれば、少なくとも入りづらいってことは、ないな」と思わせる店が立ち並んでいたようです。
また時代が時代だからでしょうが、店のオヤジから手伝う娘まで実名で書かれているのがウレシイ。実名が入ってるだけで、読んでるこっちまで「本で読んだだけじゃない、まるでちょっと知ってるような」錯覚が出来ますからね。
サトウハチローは浅草を心から愛し、また浅草の街の人に愛された人でしたが、生まれながらの才人であり変人、いや奇人と言った方がいいか。そんな自分を当たり前のように受け止めてくれた浅草。のみならず一人前の仕事が出来る場まで提供してくれた浅草。そりゃあ、サトウハチローが浅草を愛したのは当然です。
ここいらでPage2に続きます。