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複眼単眼・浅草
FirstUPDATE2018.7.25
@街 #東京 @エノケン @古川ロッパ @サトウハチロー #複眼単眼 #戦後 @戦前 #音楽劇 全2ページ 小林信彦 色川武大 渥美清 節操 サンバ 関敬六 軽演劇 清水金一 ★Best

 サトウハチローはこれほどまでに浅草を愛していながら戦後の浅草にたいしては批判的だったそうで、晩年はついぞ寄り付かなかったと言います。ご子息の四郎氏にも浅草はダメになった、とコボしたことがあったらしい。
 復刻版「僕の東京地図」の中にその言葉が入っているので、若干長いですが引用しておきます。
 

浅草が山手線から外れているから、都電がなくなったから取り残されたなんて言うのはどこのどいつだ。昔っから山手線はなかったし、交通の便だってとりわけよいほうじゃなかった。ハダカとヤクザ、クルマとクスリが浅草をダメにした。どぎついストリップ・ショー、恥も外聞もかなぐり捨てた生本番ショーなる舞台。本当の渡世人が怒り出す犯罪者集団、暴力団の自称ヤクザ。安心して仲見世も歩けやしない。(中略)浅草のほんとの楽しみ方を知らないアホどもが、一緒になって浅草を殺してしまった

 
 これはあくまでサトウハチローの私見です。浅草が衰亡したのが本当に上記のような理由であったかどうかはさだではないし、もっともっといろんな事情が複雑に絡み合って凋落していったんだと思う。もちろんサトウハチロー個人が浅草を見限った理由には違いないんだけど。
 ただ、サトウハチローが心底、今の(もちろんこの言葉を発した当時の)浅草にガッカリしていたのは間違いないところで、サトウハチローとしては浅草がいつまでも「大衆的で多少下衆だけど、安全に歩ける街であって欲しい」と思っていたのでしょう。実際「僕の東京地図」の中でも浅草でよく起こる犯罪に警告を促したポスターを賞賛しています。
 
 ここからはアタシが思うことですが、サトウハチローにしろ、色川武大にしろ、かつて心から浅草を慕った人ほど、戦後の変わり果てた姿に愕然としたんだと思う。といっても彼らは浅草という土地の人間ではないので、何もすることが出来ないし、する理由もない。ただただ、足が遠のくだけです。
 浅草六区の最盛期には休日なら100万人の人出があったといいます。今よりはるかに交通の便の悪い時代にです。東京の人口が今の半分以下だったことを考慮すれば、戦後の新宿や渋谷の比じゃないほどの、とんでもない数の人が浅草に押し寄せていた計算になります。
 サトウハチローや色川武大の浅草感を「所詮私見である」と完全に切り捨てられないのは、彼らが浅草から背を向けたのと浅草(六区)の人出が比例しているからです。
 つまり、各々細かい違いはあれど、戦前の最盛期の浅草に深い愛情を持つ人であればあるほど、みな、同じように、戦後の浅草に絶望し、愛情の裏返しで批判めいた言葉を口にするようになったのではないかと。
 
 サトウハチローはご子息の四郎氏にたいして、またこんな言葉を口にしたそうです。
 『浅草寺さん見てるのがつらいよ』
 このひと言だけで、サトウハチローの無念さがすべてわかる。
 かつてはサトウハチローと同じような無念さを抱えた人は、それこそ無数にいたと思う。
 そしてただ無念と思うばかりでなく、的確に「浅草にとって一番必要なもの」を分析出来る鋭い感覚を持った人もいた。
 戦前は色川武大と同じように一観客として浅草に通い詰め、戦後になると今度は舞台に立つ側になったひとりの男の浅草感について書いていきます。
 その男の名は渥美清。ご存知「男はつらいよ」の寅さんです。
 
 渥美清は浅草出身のコメディアンであった、というのは広く知られた話ですが、しかし彼は基本マスコミ嫌いで、インタビューの類いも非常に少ない。まして浅草について、それも思い出話の域を超えて語る、なんてことは本当になかった。
 しかし唯一の例外と言えそうなインタビューが残されています。ま、本当に唯一の例外かどうかは断言出来ないけど。
 それが浅草おかみさん会によって作られた「おかみさん」1991年八号で、ここで井上ひさしとの鼎談という形で、過去の浅草、現在の浅草、そして浅草の今後というべき未来像まで語っているのです。
 なおこの鼎談は「映画をたずねて 井上ひさし対談集」(ちくま文庫)に収められています。
 
 実像の渥美清は寅さんと違い、かなりシビアな批評眼を持っていたと言われていますが、「渥美清による浅草評」も裏に愛情が隠されているとはいえ辛辣で、しかもただ批判するばかりではなく提言も行われているというね、とにかく一読に値するものになっています。
 中でも面白い意見をピックアップしてみます。
 
 

その頃(筆者注・吉原が栄えていた頃)と今はセックスのあり方が違ってきているんですよ。今は◯◯のついでに映画でも見るかというのは、ごく一部の男だけれど、昔はそういうのが観客の大半だったわけですよ。(中略)だからセックス産業と浅草は今日、僕は結びつかないと思いますね。

 
 実際、吉原(言うまでもないけど遊郭)の衰退と浅草六区の衰退を結びつけて考える人はそれなりにいる(正確にはいた)のですが、はっきり「関係ない」と断言しているのが面白い。
 
 

インテリみたいな顔をした観客でレインコートを着て(中略)じぃーと笑いもしないで(筆者注・舞台を)見ている。あれ、妙に悲しかったね。(中略)俺たちが行きつけの飲み屋の角のところで(筆者注・舞台を見ていたインテリ顔の男が)コートの襟立ててどこ行こうかなぁって顔して立ってる。やっぱり行き場がないんだよな。

 
 これも面白い。
 これまで戦前の浅草について「行き場のない人の溜まり場ような場所だった」みたいなことを書いてきたけど、そのムードは渥美清が舞台に立つようになった戦後も続いていたということになります。
 その「行き場のない人」も、いわゆる最下層の人たちだけではなく、インテリ(これはおそらく渥美清用語、つまり「男はつらいよ」で放った渥美清のアドリブ「おまえ、さしづめインテリだな」と同じで、インテリ=ホワイトカラーの人、くらいの意味でしょう)までも「行き場がなければ、とりあえず浅草」という構図があったと見做すことが出来ます。
 
 

いつの世でも何したら金が儲かるという、昔でいう太夫元や小屋主とか、その手の人間はいるんですよ。そういう人たちがどうして昔あんなに栄えた浅草に興味を示さないのか。そこらへんの分析が、一番肝心なことなんですよ。

 
 これは面白いというよりも実に鋭い意見で、分析なんて言葉でオブラートに包んでいるけど、ズバッと言えば「浅草を復興させようなんてお題目ばかりあげても何の意味もない。単純に商売の成り立つ場所でないのが浅草の一番の問題」だと言っているんです。
 今までわざとボカして書いてきましたが、1970年代前半、浅草の灯を守ろうと軽演劇の劇団を旗揚げしたのは関敬六でした。関敬六と言えば渥美清の唯一と言っていいくらいの友人で、その付き合いは終生続いたわけです。
 だから直接的に関敬六を批判することはなかったんだろうけど、本心は若き日のビートたけし同様「こんなことしたって意味がない」と思っていたんじゃないかと読み取れるわけで。
 
 またこの渥美清の意見を受けて、鼎談に参加していたおかみさん(姓名不明)が『浅草が他所者を強く排除したことはあったと思いますよ。』と語っているのも興味深い。
 浅草おかみさん会はある意味浅草の本丸と言えるような存在なので、その人が『思いますよ』という言葉で若干濁しているものの、そういう実態があったと証言しているのはかなり真実味があります。
 
 アタシ流に解釈するなら、具体的にいつかはわからないけど、かつて<すでに寂れかけていた>浅草の街に目をつけた、商売に目ざとい人はいた。しかしそれを浅草の人間は排除していった。
 だけれども街は寂れる一方になり、商売として成り立たせるには困難で「昔の浅草を取り戻す」という、ある種の「商売抜きの心意気」だけに頼るようになってしまった。当然そんなものは長続きするわけがない。
 そのうちバブルなる時期が訪れた。東京のあらゆる街が大規模開発されていったが、かつて強固な排除にあった浅草はその対象に入らない。
 つまり、悪手悪手を踏んでいってるわけで、これだけ悪手を続ければ興行の内容関係なく、そりゃ寂れて当然だわな、と思ってしまうのです。
 
 バブルも終わり、不景気な時代に突入していった日本ですが、その間に浅草東宝のオールナイト上映のような局地的な盛り上がりはあったとはいえ、浅草六区全体を盛り上げるまでには至らない。
 そしてさらに時が流れ、代替わりしていき、もう最盛期の浅草六区を知ってる人など数えるほどになった現在。
 では今の人は浅草六区を含めた浅草をどのように見ているのか。
 そもそもアタシがこのような文を書こうと思ったきっかけは「大阪の人が浅草を誤解しているかはともかく、東京の人は誤解してないのか」という疑問が渦巻いていたからです。
 もっとはっきり言えば「東京の人こそ浅草を誤解してるんじゃないか」というね。
 
 浅草六区が「一流の(かはわからないけど、とにかく他の追随を許さないような)興行街」だったのは1930年代前半までであり、以降は「二流の興行街」、そして「寂れきった、ただの古臭い街」になった。今では(演芸場も残っているとはいえ)もはや観光名所ですらありません。
 今、浅草六区に行っても、実のところどこも行くところがない。浅草ROXといっても有り体のショッピングセンターでしかないし、「まるごとにっぽん」なんていう商業施設が出来たみたいだけど、浅草でなければいけない意味が薄い。
 フランス座東洋館で演芸をと思っても、そこそこチケットも高いし、知ってる人もほぼ出ていない(テレビでお馴染みなのはナイツくらいか)。表に張り出されているポスターの名前を見て、それでも中に入ろうなんてするのはよほどの物好きだけでしょう。
 街のあちこちには、ご大義ぽくエノケンやロッパの看板を掲げているけど、彼らに愛着のあるアタシでさえ「だから何なんだ」って気持ちになるし、エノケンやロッパを知らない若い人が見ても何も感じないと思う。
 
 というか、当たり前すぎる話だけど、ロクな興行が行われていない興行街に何の価値があるというのか。んで、そんな街をどうやって盛り上げていこうというのか、渥美清の意見じゃないけど、そんな儲け度外視の<やり方>が何になるのか、正直意味がわからないのです。
 だけれども東京の人には今でも、それこそ小林信彦の言う通り『大衆芸能ゆかりの地』と信じている人は山のようにいると思う。
 一応念のために書いておけば、浅草公会堂を大衆芸能の殿堂なんて思ってる人がいるかもしれないけど、浅草公会堂とか区役所をぶっ潰して出来たのが1970年代後半ですからね。手形のモニュメントがあったりするから勘違いしやすいとは思うんだけど。
 
 しかしここまで読んでもらえればお判りの通り、現状は一切無視するとしても本当に浅草が『大衆芸能ゆかりの地』なのかも怪しい。それなら江戸時代に数々の芝居小屋が立ち並んでいた芳町(今の人形町界隈)の方が相応しいし、浅草で言っても猿若町(浅草寺の北東、浅草寺を挟んで浅草六区とは反対の位置)の方がまだ理解出来る。
 大衆芸能=軽演劇って解釈だったとしても、軽演劇が発展したのはエノケン他の音楽に強い役者や座付きの優秀なコンポーザーが去り、音楽面を強化出来なかったことから笑いに特化した軽演劇をメインにするしかなくなった、という側面を無視しちゃいけないと思う。
 
 だから、どうも、アタシの中で軽演劇というものにたいするイメージが良くない。
 それでも心ある軽演劇人は「音楽が弱い」ことへのコンプレックスがあったはずで、戦前に浅草でデビューしたビートたけしの師匠である深見千三郎は、タップを踏み、指がないにもかかわらず器用にギターを弾いたと言います。深見千三郎のような人は立派だったと思うけど、一番問題なのは大半の軽演劇役者が「音楽に弱くて、何が悪い」と開き直ったことだと思う。
 戦時中、浅草の人気を一手に引き受けた清水金一は音楽に弱かった(本人はオペラ歌手の清水金太郎の弟子と自称していたらしいが、清水金一の年齢からしてあり得ない。実際はエノケンの師匠でもある柳田貞一最後の弟子と言われる)らしいし、事実シミキンは歌がマズいという評判だったそうです。
 ただ清水金一の作った「音楽が弱くても、やっていける」という流れは戦後になって、本流になっていった。それが軽演劇の正体です。
 もちろん音楽に弱い者が無理に歌う必要もないし、ある意味無駄とも言える音楽要素を取り払って笑いに特化させたのは実利的とも言えるんだけど、ただそれがさも「正道である」みたいになっちゃうと、おいおい、と思ってしまうわけで。
 
 そうした経緯を「大阪の人は知らない、東京の人間なら知ってて当然」とするのは乱暴すぎる話でして、たぶん東京の人でも知ってる人はほとんどいないと思う。
 というかもう「寂れかけた時にストリップ小屋が出来て、やや立ち直った頃の浅草」でさえ実感として知ってる世代は減り、ましてや浅草オペラから浅草がのし上がっていく過程、戦中戦後のカオスな時期、とずっと見たきた人なんて、この世にひとりいるかいないかレベルの話です。
 実感として知らないのであれば、もう東京の人間であろうが大阪の人間だろうが関係ない。
 大阪の人間にとって浅草など「観光地のひとつ」でしかなく、別に誤解してようが何の問題もない。ただ東京の人はそういうわけにはいかない。
 しかし『大衆芸能ゆかりの地』くらいのイメージしか持たない今の東京の人の中にある「浅草ってのはつまり、こーゆー場所でしょ?」みたいなものが消えない限り、浅草の本格的な復興はほとんど無理なんじゃないかと。
 
 アタシの出身は神戸、つまり関西の人間です。だからこんなことを言われると浅草の人は怒るかもしれないけど、それでもひとつだけ言わせてください。
 もし浅草(六区)を本気で復興させたいのであれば、方法はひとつしかない。
 それは「徹底的な節操のなさ」を復活させることです。はっきり言えば大衆芸能とか軽演劇とか、時代とズレたものこそ浅草には一番必要ない。
 節操なく、とにかく今流行りのものをこれでもかと取り入れていく。もちろんそれをやったところで小林信彦言うところの『奉公人(という文化)の消滅』があるのだから元通りにはならないけど、それでも徹底的に安価で今流行りのものが観れる場所なら、少なくとも今よりはマシになると思う。
 
 今の時代、とにかく芝居は高い。というか芝居イコール高いイメージが付きすぎてしまって、芝居鑑賞自体が特殊な、小金を持ってる人の趣味みたいになってしまいました。
 しかし戦前の浅草はそうではなかった。奉公人や色川武大のような子供が「暇つぶし感覚で」気軽に入れる入場料だったわけで、おそらく今に換算すると500円以下の感覚だったんじゃないか。
 さすがに500円とは言わないけど、いろんな芝居や演芸が、それも今の流行りに即したものが1000円以下で楽しめる、ということであれば、それ目的で浅草六区を訪れる人は増えると思う。
 1000円以下なんて無理と言われるかもしれないけど、そんなことはない。1公演30分(長くても1時間)の完全入れ替え制でいい。ま、テーマパークのアトラクションみたいな感じにして、1Dayパス的なものを発行してもいいわけだしね。(実際、浅草オペラ華やかなりし大正時代には「三館共通チケット」なるものがあったそうです)
 それに今の時代、短いのはぜんぜん大丈夫ですからね。むしろ1公演の時間が長ければ長いほど客は入りづらいと思うし。
 
 もしサトウハチローや色川武大、そして渥美清、深見千三郎が生きていたとして、こんなことをやって喜ぶのがどうかわからない。むしろ批判しまくる可能性だってある。
 だけれども、たぶん日本中を探しても、こんなことが成立するのは浅草だけだと思う。ほっといても浅草寺を中心に観光客は来るのだし、そういうスポットがあれば六区まで足を延ばすと思う。
 ただし「大衆芸能」とか「軽演劇」という言葉はご法度です。古臭いイメージが付くだけ。せめて「伝統ある興行街」くらいに留めておく。伝統ある興行街で、今はこんなことをやってる。今の日本が凝縮された芸能の街だ、そんなイメージになれば外国人観光客には「Anything goes」な街として興味を惹くだろうし、そうなったらそうなっで日本人だって無視出来ないはずなんですがね。

最初、ここまで長文にするつもりはなかったのですが、書いていくうちに入れなきゃいけないネタをどんどん思いついてこんな感じになったという。
どうでもいいけど、あのエノケンとかロッパの看板はいらないよなぁ。あれ、むしろ晒し者にされてるみたいで嫌なんですよね。




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