まず最初に、これだけは了解していただきたいのですが、アタシは中年男性にしては珍しく、ジャニーズ事務所援護派です。
と言っても「現今の事務所の<やり方>にたいして肯定的」とかではない。しかし、とくにジャニー喜多川氏による「タレント(≠アイドル)の<作り方>」にたいしては、何とも言えないシンパシーを感じているわけで。
いや、もっとはっきり言えば、ジャニー喜多川個人にたいしてシンパシーを感じている、と言ってもいい。
これは当サイトにある様々な駄文を読んでいただいて、アタシという人間の<好み>を理解していただければ、ジャニー喜多川の<趣向>とアタシの<趣向>に相当な近似を見い出していただけるはずです。
まァ、あくまで「エンターテイメント限定の<趣向>」であって<性癖>ではない。そこはぜんぜん違うんだけど、だからといってとかく批判の対象となりやすいジャニー喜多川の<性癖>でさえ、アタシはたいして否定的ではない。
そりゃあ、あれだけのことを普通のっつーか常人の<やり方>で成し遂げられるわけないもん。むしろそんな性癖があったからこそ、幾千万の人たちを楽しませるエンターテイメントが作れたと思っているわけで。
ま、これ以上深入りは避けるけど。
ジャニー喜多川氏が逝去したのは2019年です。
たいていの有名人は<死>をもって急速に聖人扱いになります。そして悪行は後ろに回されて功績のみが讃えられるようになる。
日本では「死者に鞭打つ」というのはよろしくないこととされているので、まァそうなるのはわかるのですが、ではジャニー喜多川氏の場合もそうなったか、というと、あんまりなってないと思うのですよ。
たしかに性癖云々のネガティブな話は後ろ回しにはされたけど、ではその功績が正当な評価を受けたか、というとまったく受けてないと言い切れる。
もしかしたら指摘した方がおられるかもしれませんが、アタシはひとつとして「ジャニー喜多川の<ブレ>のなさ」を看破した文章を読んだことがない。
あれだけブレずに、自分の理想とするタレントを作ることに邁進したジャニー喜多川氏にたいしてそうした評価がないのはあまりにも気の毒で、そこで不肖アタクシメが書いてみようと思ったわけです。
ではいったい何が<ブレ>なかったか、です。
もういろんなところで語られているのでアタシがあらためて書く必要はありませんが、彼が追い求めたものは「ダンスと歌にユーモアが混じったエンターテインメント」です。そしてついでに言えば、それらにプラスして「野球が出来る」ってのがジャニー喜多川の理想のタレントだった。
と書けば、アタシがこういったエントリを書く気になった理由がわかるはずです。
しかしそれはあまりにも過酷な道だった。そうしたオールドスタイルのタレントが通用しない時代に入っていったからです。
バラエティー【variety】
1 変化があること。多様性。「~に富んだ食事をする」
2 植物分類上の、変種。
3 「バラエティーショー」の略。
(デジタル大辞林)
唐突に引用が入りましたが、少なくとも戦前期までは<バラエティー>とは↑の辞典で言えば<1>の意味、つまり多様性、もしくは多少意味を拡大解釈したような<雑多な、何でもアリ>というような意味で使われる言葉でした。
実際、戦前期の雑誌や舞台でも<バラエティー>という言葉は使われていますが、この時点では<笑い>というニュアンスはない。あくまで、多少は逸脱したとしてもギリギリ<1>の範疇に収まるものだったと。
しかし1950年代後半になって、テレビジョンというものが勢力を持ってきた頃から<バラエティー>の意味合いが若干変わった。
おそらく適当な言葉がなかったからなんだろうけど「歌とダンスと笑い」を一体化した番組にたいして「バラエティー番組」という呼称が用いられるようになったのです。
「歌だけではありませんよ。ダンスだけではありませんよ。コント(笑い)だけではありませんよ。いろいろと<バラエティー>に富んだエンターテイメントをお見せします」という意味だったんだろうけど、だったら別に「ショウ番組」でも良かったはずなのに、何故か「バラエティー番組」ってことになった。
その後、バラエティー番組=<笑い>のニュアンスの入った番組、というふうになっていくのですが、ショウ番組の言い換えだった頃のバラエティー番組の金字塔は何と言っても「シャボン玉ホリデー」でしょう。
「シャボン玉ホリデー」は1961年に放送を開始し、ザ・ピーナッツやクレージーキャッツなどのスターを生み出しましたが、一定期間のみとは言え出演者の中に、あの「ジャニーズ」がいたのです。
今ではあまりそういう言い方をしませんが「シャボン玉ホリデー」はテレビ局と芸能プロダクションが合同で作る「ユニット番組の始祖」としても有名で、つまり著作とスタッフは日本テレビ、出演者はあくまで渡辺プロダクションから、という形だった。(もちろんゲストや出演者を兼ねていた放送作家(青島幸男など)はこの限りではない)
設立当初のジャニーズ事務所は渡辺プロダクションと提携しており、というかもともとジャニーズ事務所は渡辺プロダクションの系列会社として設立された関係で、渡辺プロのユニット番組「シャボン玉ホリデー」にもジャニーズは出演することが出来たのです。
ジャニーズ事務所にとっての初めてのタレントだったジャニーズ、そして社長だったジャニー喜多川は、当然のように「シャボン玉ホリデー」という番組を隅から隅まで観察していたとおぼしい。
ここからはあくまで推測の話になりますが、極端に言えばジャニー喜多川氏の理想は「シャボン玉ホリデー」だったような気がする。
ああいう、歌とダンスと笑いに彩られた、ショウ番組の言い換えだった頃のバラエティー番組、あれこそがジャニー喜多川氏が目指したものであり、よく言われる「ウエストサイドストーリー」ではないと思う。
となると、ある種の理想に近いタレントはクレージーキャッツだったのではないかと。
しかしクレージーキャッツでは年齢が高すぎる。過酷なダンスのレッスンは厳しいし、いろんなことにチャレンジさせるには残された年数もない。
ならば若ければ若い方が良い。絶対にその方が将来的な幅が広がるからね。
だからアタシはこう思う。ジャニー喜多川氏の理想のタレントは、本当は郷ひろみではなく、やっぱりSMAPだった、と。
SMAPの全盛期を知らない人にSMAPのすごさを説明するのは本当に難しい。
いわばSMAPは社会現象のひとつだった。もちろん社会現象なんだからいくらでも数字的なすごさを出すことは出来るんだけど、本来男性アイドルのターゲットではまったくない、老若男女の間でSMAPが如何に「当たり前の存在だったか」は数字では表わせられないのです。
こう言ってはファンが怒るかもしれないけど、その「当たり前感」はそれ以前の近藤真彦や田原俊彦、光GENJI、以降の嵐などともまるで違う。もちろん他のジャニーズタレントをクサしているわけではなく、あまりにもSMAPが突出しすぎているのです。
そんなSMAPの魅力をすべて収めた番組が「SMAP X SMAP」でした。
「SMAP X SMAP」は奇跡のような番組で、そりゃあ多少は現代風に染め上げられてはいたけど、もはやあんな「歌とダンスと笑いがない混ぜになった」オールドスタイルの、つまりショウ番組の言い換えのバラエティー番組が成立するなんて誰も思ってない頃に成功させたんだから。
こういう番組が出来るタレントを育てたかったんだ、というジャニー喜多川氏の夢の具現化ではないかと、ね。
アタシは常々「SMAPこそテレビが生んだスターの中で最高峰」だと言い続けてきました。
もちろん<芸>として歌とダンスと笑いが出来るかどうか、も重要なんだけど、それにプラスして「そういうオールドスタイルの番組企画が通ってしまう」くらい、SMAPに底知れぬパワーがあったのは見逃せない。
もし完全に男性アイドルのターゲットである<若い女性>だけにファン層が限られていたら、潮流とはまったく反する内容の番組なんか作られるわけがないわけで。
そのSMAPは、実に不可解な形でグループ活動に幕を閉じ、メンバーの半数以上がジャニーズ事務所から離れる形で問題が終結したのです。
何であんなことになったんだ、という疑問はとりあえず無視して(考察しようにも推測だらけにしかならないし)、それよりも「そもそもジャニーズ事務所はSMAPをどういう形にしたかったか」を考えたい。
前提として押さえておかなくてはいけないことは「SMAPの人気は未来永劫続くわけではない」という当たり前の話です。たぶん日本に芸能というものが出来て以来、そんな人はひとりもいない。
となると、どうやってソフトランディングさせて、伝説化させられるか、を考えないといけない。然るべきタイミングで、できるだけキレイな形でグループとしての活動を終了させて、あとは幻影で商売をする。これがビジネスとして一番正しいやり方だと思うわけです。
アタシは二十一世紀になったくらいに「これはもう、ドリフターズのやり方しかないだろ」と考えてました。
ザ・ドリフターズは渡辺プロダクションの所属でしたが、担当マネージャーを社長として、ナベプロの傘下という形でイザワオフィスを設立しますが、所属タレントはほぼドリフターズだけ、という状態で始まりました。(ドリフターズと担当マネージャーの詳しい記述はココ)
ドリフターズにしろSMAPにしろ、担当マネージャーはスケジュール管理するだけのマネージャーではなく「育ての親」であり「もうひとりのメンバー」、さらにいえば「事実上のリーダー、最高責任者」なわけで、極端にいえば、マネージャーなしではグループが成立しない。それほど重要なポジションを担ってきたわけです。
ドリフターズもけして仲が良いグループではなかったわけですが、たったひとつの共通認識がマネージャーにたいする信頼であったはずで、ここさえ失わなければグループがバラバラになることはないのです。
そしてもうひとつ、それはジャニーズ事務所の特性にかかわることなのですが、その話はPage2に続く。