ScribbleにしろTwitterにしろ「わざわざ嘘を書いてもしょうがない」とは思ってるのですが、同時に「仮に本当のことだろうと馬鹿正直に思ってることを書きゃいいってもんじゃない」って気持ちもあって。
先日、ドリフターズの仲本工事さんが急逝されました。
ってハッシュタグにもTwitterで表示される↑の箇所にも「仲本工事」とも「ドリフターズ」とも入れていない。というかわざと外した。
もちろんTwitterで仲本工事さんの追悼をされてる大半の人は純粋に偲ぶ気持ちだとは思うんですよ。でも、どうも、何と言うか、ほんのちょっとね、嬉しがってるようにも見えてしまう。
そう見えるのは、おそらくアタシが捻くれてるだけなんだろう、とは思うのですが、それでも自分が同じことをやりたい、とは思わないわけで。
正直言えば、仲本工事さんの急死はかなりショックがデカかった。下手したら藤子不二雄の安孫子先生が亡くなった時よりも動揺した。
少なくともね、安孫子先生の場合は「まさか」とか「急すぎる」とは思わなかったわけで、悲しいってことで言えばメチャクチャ悲しかったけど<ショック>とは違っていました。
でも仲本工事さんの場合は事故であり、比べるごっちゃないけど、どうにも<悲しい>という気持ちよりは<ショック>の方が大きくて。
2018年に書いた「仲本工事という生き方」という文章を再掲しようと一瞬思ったけど、あまりにもショックが大きすぎて、それも止めた。
もちろんあらたに、仲本工事さんについて書こうなんて気が起こるわけもなく、とにかく時間が過ぎ去るのを待とうと思っていたんです。
しかしTwitterのタイムラインには容赦なく、仲本工事さんの追悼ツイートが流れてくる。さっきも書いたように大半は便乗するつもりなどなく純粋な追悼だったんだろうけど、アタシはそれらを見るたびに、やり場のない怒りをおぼえた。
あんまり腹がたったんでしょう。仲本工事さんにかんするツイート、リツイートをすべて非表示にした。そんなもの、見たくない、と。
それこそいいトシして、実に心の狭い<やり方>だったと今は思う。でもそうやって自己防衛しないと「仲本工事さんが亡くなった」という事実に耐えられなくなっていたんです。
昨年の末にエントリした「アクションをつける意味」という文章に、仲本工事さんから「イイネ」を頂いた。これは嬉しいというよりは「ホッとした」という気持ちのが強く、つまり仲本工事さんの発言を曲解せずにちゃんと引用出来てたんだ、と。
アタシと仲本工事さんの接点は↑が「すべて」です。高木ブーさんのように私的にお話しさせていただいたことは一度もない。なのに、それこそ、そのショック度合いは、さすがに今年の春に死んだ愛猫の<ぽんぽこ>ほどではないけど、こと今年で言えば、その次、は間違いなく仲本工事さんです。
そもそもの話、仲本工事さんが逝去されたことはハッピーな話でもなんでもない。だからスルーしたりツイートやリツイートを非表示にしたり、というのは特別変なことではないと思う。
このエントリだって別に追悼文ではない。どちらかというと主役はアタシ自身だしね。
というかもう、ドリフターズのメンバーの誰某が亡くなって、なんて書きたくないよ。ただでさえドリフターズのメンバーは私生活が恵まれてるとは言い難いのに。
もう、マジで、嫌だ。