アタシはね、時間帯が合わないこともあって、基本的に大河ドラマは見ないのです。たしかに近代史以前の歴史に興味がないってのもあるんだけど、話のタネくらいにはなるんで、別に毛嫌いしてるわけでもないんですがね。
そういや2015年期の大河ドラマ「花燃ゆ」は内容もさることながら、異様なくらいキャッチコピーが叩かれていた記憶があります。
まァ、さすがに憶えておられる方も多いだろうけど「幕末男子の育て方」っていうやつね。
しっかし、もうどうなんだってくらい叩かれてましたよね。「男向けの大河ドラマに女向けのキャッチコピーをつけるな」とか、もっと言えば(当時のネット流行語で言えば)「スイーツ(笑)」とか。
しかしアタシは、上手いフレーズだと思う。
だってそうでしょ。だいたい大河ドラマのキャッチコピーなんて、他に有名なのってあります?つまりそれくらい記憶に残るコピーだったわけでね。
このコピーを誰が考えたかは知らない。だけれども、少なくともコピーライターは悪くないのはわかる。
んなもんコピーライターの独断で、こんな突飛なコピーになるなんて、今の日本ではあり得ない。たぶん「こういう内容で、こういう層をターゲットにしたいから」というのは製作者側からあったはずで、となると笑われようがダサいと思われようが、ちゃんと要望に則した、そしてインパクトのあるコピーを作ったのはたいしたものです。
はっきり言って、コピーライターにとって、内容なんて知ったこっちゃないんですよ。いくら内容がつまらなかろうが、それ、方向性として違うんじゃないの?と思おうが、クライアントの要望を最大限に汲み取ってインパクトのあるコピーを作る、それがコピーライターの仕事です。
というかね、コピーライターなんてもんを生業にするためには、やっぱ特殊な才能が必要だと思うんですよ。
それはね、クリエイティブな才能もあるのかもしれないけど、それだけじゃ不十分なんじゃないか、いやもしかしたらクリエイティブな才能よりも必要な才能があるんじゃないかと。
というわけで、今回のテーマはコピー、昔の言い方なら惹句です。
エントリタイトルはフザけてるっぽいですが、まさに<惹句(=コピー)>と<カネ>と<豆の木>は今回のテーマには欠かせないワードなんです。
もうはっきり言えば、<カネ>と<豆の木>というワードを用いることで<惹句>のすべてを語ることが出来るのではないかと。
さて、アタシが中学生くらいの時かな、やたらコピーライターなんて仕事が持て囃されましたが、その中でもっとも突出した存在感を放っていたのが糸井重里でした。
今振り返って考えると、糸井重里が本当にすごいのは「おそらく日本で初めての、矢面に立つコピーライター」だったことです。っていったい何がって話かもしれないので説明していく。
そもそもですが、コピーライターという存在は、少なくとも1960年代まではあまり知られていない職種でした。
アタシが好きな戦前モダニズムの時代で言えば、もちろん戦前期からポスターなどの広告にはほぼ必ず惹句が付いていました。しかし惹句作成者が誰か判明しているものは本当に少ないのです。
戦前期において数少ない著名なコピーライター(アドライター)と言えば岸本水府と片岡敏郎になると思います。
岸本水府はグリコや福助足袋など、片岡敏郎はサントリーやスモカ歯磨などの広告で辣腕をふるいましたが、いくら著名と言い張っても、仮にこれらの広告を見たことがある人でも「では惹句を誰が手掛けたか」なんて諳んじている人間なんて、まず専門的にアドバタイズメント(宣伝)を学んだ人くらいだと思う。
ココでも書きましたが、コピーライターはおろかグラフィックデザイナー(図案家)でさえ「戦前期の有名な図案家は?この広告は誰が手掛けたか?」など、やはり誰でも知ることではありません。それこそ亀倉雄策や山名文夫でさえ、普通の人からしたら「誰それ?」でしょうし。
グラフィックデザイナーの著名人化は1960年代くらいから始まりましたが、コピーライターはもっと遅い。
例えば自殺した杉山登志はコピーライターというよりCMディレクターですし、「男はだまってサッポロビール」などを手掛けた秋山晶という人の名がどれほど一般的か、と言われると、という話です。
そうこう考えると、やはり、日本初の<スター>コピーライターは糸井重里だと思う。
戦前期などはとくにですが、広告を手掛けたスタッフ個人の名前が表に出る機会はなかったし、そうした欲望すらなかったと思う。
電通は戦前期の時点で広告代理店になりましたが、当時広告は自社の社内の宣伝部などで、デザインからコピーまで手掛けるのが一般的であり、一企業の社員の名前をアピールするなんてあり得ない。というか著名になったところで著作の権利は企業にあり、あの惹句は私が考案しました、なんて声高に叫んでも何のメリットもなかったわけで。
しかし時代が変わり、広告は広告代理店が手掛けるのが当たり前、そしてフリーランスの(広告代理店などに属していない)グラフィックデザイナーやコピーライターの登場で「著名になることへのメリット」が生まれた。
とは言え、いきなりフリーランスのコピーライターとして活躍する人物などあり得ず、糸井重里も最初は広告を手掛ける企業に就職している。
しかしなし崩し的に(就職した会社が倒産したらしい)フリーランスのコピーライターとなり、となると「名前を売らないより売った方がいい」に決まってるわけです。
もちろん<矢面に立つ>ことへのデメリットというかリスクはあるんだけど、その分リターンも大きいわけで、というか職種にかかわらずフリーランスで商売をしようと思ったら、矢面に立つ気構えがないと商売にならないんです。
その結果、たぶん本当に結果でしかないんだろうけど、糸井重里は<スター>になった。
ただし、まだ一般的ではなかったコピーライターという職業で名前を売るのは難しく、とにかく、これでもか、とフィールドを広げ続けたのです。
糸井重里が手掛けたものをざっと上げていけば
・ヘンタイよいこ新聞(「ビックリハウス」誌上で連載された読者投稿記事)
・矢沢永吉の自伝「成りあがり」の構成と編集(実質的なゴーストライター)
・「TOKIO」(沢田研二)などの作詞
・「YOU」(NHK教育=現在のEテレ)の司会
・「となりのトトロ」における声優
・「MOTHER」(任天堂)のゲームデザイン
糸井重里という人を鑑みると、なかなか、一筋縄ではいかない人だというのを痛感します。
「芝で生まれて神田で育」ったような顔をしているのに実は群馬県前橋市で育ったとか、如何にもノンポリっぽいのに学生運動に身を投じて5回も逮捕されてるとか。
仕事を含めて糸井重里をやってきたことを精査しても、なかなかね、糸井重里というのはこういう人である、というのが掴みづらいのです。良くも悪くも一貫性のようなものが見えづらいというか。
糸井重里が手掛けたフィールドを見ても、ただただ「面白そうと思うことに手当り次第手を出している」ようにしか見えないんだけど、手当り次第のわりには今も続く「ほぼ日刊イトイ新聞」を含めて、ほとんどのことで結果を出し続けているわけで、そうなると思い付きで手を出したってわけでもないってのもわかる。
ただひとつだけはっきりしているのは、フィールドを広げ続け、すべてにおいて結果を出し続けたことで、糸井重里は<スター>を超えて<ブランド>になったことです。
とにかくすごいのが
あの糸井重里がコピーを考えた
というのが実際に糸井重里が作ったコピーよりも強力なコピーになっていることで、「○○がコピーを考えた」というのがブランドであり最大のコピーになってる、なんて糸井重里だけです。
ジブリ映画なんかまさにそうで、今回も糸井重里がコピーを考案しましたってのがすでに<売り>になっているのは驚異的です。
これまで名前を挙げたコピーライターも、そして名前を出してないコピーライターも、誰もその域まで行ってないわけで。
では何故、糸井重里はここまでの存在になり仰せることが出来たのか、です。
もちろん、そのワードセンスがあればこそだし、先程より書いてるように、無限にフィールドを広げ続けたというのもあります。
しかし、変なことを言うようですが、アタシはあの<顔>が相当重要な役割を果たしたんじゃないかと思っているのです。
その前に、みうらじゅんの話をします。
ご存知の方には当たり前かもしれませんが、みうらじゅんは糸井重里の愛弟子と言える存在です。たしかにフィールドは違うんだけど、みうらじゅんは「コピーライターとしての弟子」ではなく「この世界でやっていく弟子」ということになると思う。
つまり、みうらじゅんという人間にとって「向いてない」コピーライターへ導かなかっただけで、糸井重里はことあるごとにみうらじゅんに示唆を続けてきたし、みうらじゅんも糸井重里の示唆に応えてきたわけです。
糸井重里とみうらじゅんの付き合いは古い。
ミュージシャンを目指していたみうらじゅんが、どこをどう勘違いしたのか、糸井重里を音楽関係の人間だと思い込み(ま、「TOKIO」の作詞とかしてたし)、友人が糸井重里の事務所の社員だったのをいいことに、強引にコネを作ったのです。
糸井重里は呆れながらも、みうらじゅんをかわいがった。みうらじゅんの初連載作「見ぐるしいほど愛されたい」では「相談 糸井重里」とクレジットに入れることで連載が実現した。
いや、もちろん、正式な師匠と弟子ではないんだけど、これほどの師弟関係は現代では珍しいレベルの<在り方>だと思うわけで。
糸井重里はまだデビュー前だったみうらじゅんに、現在のみうらじゅんを形成するために必要な発言を度々していた、と言います。
中でも「お前の漫画はまったく面白くない」という、ま、言えば「お前にはフィクションを作る才能はないよ」というね、ある意味クリエイターとして死亡宣告というような言葉まで突きつけている。
しかし同時に「お前の喋りや視点は面白いんだから、それを漫画にしたらいい」というアドバイスを送った。
それこそ「見ぐるしいほど愛されたい」では「お前、水原弘のホーロー看板とか面白がってたじゃん。だったらそれを漫画にしろ」という言葉を受けて、みうらじゅんも「それ、漫画として成立するのかなぁ」と思いつつも「でも糸井さんがそういうなら」と素直に受け入れた。
みうらじゅんの才能を見抜き、ダメな方向は諦めさせて、向いてる方向だけを徹底的に伸ばそうとした糸井重里も糸井重里だけど、糸井重里の示唆を徹底的に突き詰めて独自としか言いようがない世界を切り開いたみうらじゅんも、やはり才人だと思う。
というかさ、マジで、この関係は心底羨ましい。
いやアタシも糸井重里のような師匠がいればな、と思わないことはないけど、何だか惹句の話から逸れてるような気がするのでPage2に続く。