もうちょっとだけ、みうらじゅんの話を続けます。
みうらじゅんと言えば「マイブーム」をはじめとして「ゆるキャラ」(というカテゴリ)の生みの親であり、他にも様々なことを研究し続けている。
しかし、そのほとんどは、いやほとんどじゃねぇな、すべてか、は大抵の人にとっては「どうでもいいこと」であり、同時に「そんなくだらないことを研究するなんて」というような、果てしなく馬鹿馬鹿しいことだと思う。
それでも、みうらじゅんは一切気にしなかった。
みうらじゅんが特定の物事に関心を寄せる、それはけして「好き」からの行動原理ではない。すべて「好きなわけがないんだけど、いやむしろ嫌いかもしれないけど、どうも、引っかかる」ことなんです。
それこそ「いやげ物」とかね、あ、これは「嫌」と「土産物」のかばん語ですが、何しろ自ら「嫌」って言ってるんだから好きなわけがないんですよ。しかし「何でこんなに嫌なんだろ」ということに引っかかり続けて、結果として「みうらじゅんの世界」としか言いようがない、独自の世界を築き上げたわけです。
そうした、みうらじゅんが「引っかかり続け」た末に形になったもので、糸井重里が大絶賛したのが「カスハガ」です。
カスハガってのも説明がいるかもしれないけど、大抵土産物屋で売ってる、裏面に名所の写真が印刷されているハガキセットは10枚一組とかになっています。
しかし、10枚もあれば1枚くらい<ハズレ>と言えるようなものが紛れ込んでおり、というかそもそも、これ<名所>なのか?みたいなのが入っているんです。
これに目をつけたみうらじゅんは名所なんかぜんぜん写っていない、マジで何が言いたいのかさっぱりわからないハズレのハガキ=カスハガの蒐集を始めた。
書籍「カスハガの世界」は糸井重里がデビュー前のみうらじゅんに示唆した「喋りと視点の面白さ」が充満しており、もちろん書籍だから<喋り>ではないんだけど、カスハガの解説はみうらじゅんの素の喋りの面白さがないと成立しないものになっているんです。
そういや一時期、「カスハガの世界」の表紙が糸井重里じゃないかと言われていたことがあります。
↑を見て「あ、糸井重里じゃん」と思う人がいるかもしれないけど、まったくの別人です。というかただのどじょうすくいをするオッサンです。(糸井重里もあまりに言われるので、ついに「アレはオレだ」と認めたらしい。ま、認めようが実際には違うんだけど)
でもね、そう言われるのもしょうがないというか、だって糸井重里ってぶっちゃけ言えば<田舎のとっつぁん顔>だから。
Page1にてアタシは、糸井重里がブランド化した理由のひとつに、あの<顔>がある、と書きました。
糸井重里の顔って本当にフシギな顔で、純粋に顔立ちだけを見ればそれこそ「カスハガの世界」のどじょうすくいのオッサンというか田舎のとっつぁん顔なんだけど、これもPage1で書いたように妙に都会的なムードがあるし、何よりフシギなのが「謎の主人公感」があるんです。
それこそ<世界の>という冠がまったく大袈裟ではない「スーパーマリオ」などを手掛けた宮本茂と対談しても「宮本茂X糸井重里」ではないんですよ。年齢とか無視しても、やっぱり「糸井重里X宮本茂」なんです。
というか糸井重里ほど中心にいないと収まりが悪い人はいない。何だか「話題の人の横にいる人」みたいな風刺があるみたいだけど、アタシはまったくピンとこない。むしろ隅っこにいようが隅っこが中心になる人、話題の人が刺身のツマになってしまう人だとも思う。
それもこれも、あのフシギな<顔>があればこそではないかと思うわけで。
ま、あんまり他人さんの顔についてとやかく言うのも趣味が悪いのでこの辺にして、話をテーマに、つまりコピー=惹句に戻します。
糸井重里が手掛けた惹句はいろいろありますが、どれを見ても、基本的には同じ感想を持ちます。
それは「ニッポン無責任野郎」のサゲのセリフと一緒、つまり「無ッ責任だなァ!ヒャッヒャッヒャッ!」という。
まさに糸井重里が手掛けた代表的な広告ですが、それにしても、です。
もうそこから説明しないとわからないと思うのですが、これ、西武百貨店の広告なんですよ。つまりデパートの広告に「おいしい生活」とか「不思議、大好き。」なんてね、関係なさすぎるだろ、としか思えない惹句をつけた。
当たり前だけど、これらの惹句を見て、人々が我先にと西武百貨店に詰めかける、なんてあり得ない。
というかそんなことは不可能なんですよ。
「良いコピー=話題になる」、ま、これなら可能です。というかコピーライターはそこを目指してやっていると思う。
しかし目指すのは、もうそこしかない。
これが「良いコピー=商品が売れる、客が増える」になると、まったく責任が持てないと思う。つかそれは無理だよ。
極端な話、商品が良ければ、店として良ければ、キャッチコピーなんかなくても商売になる。もちろんそれ相応の宣伝は必要ですが、宣伝=キャッチコピーではないのは当たり前として、宣伝というのはあくまで<補助>でしかないんです。ま、売り上げを多少なりとも増やすためのお助け道具というか。
アタシはグラフィックデザイナーを生業としてきましたが、手掛けた仕事のうち半数以上は広告関係です。
長年そういうことをやってきてつくづく思うのは「ダメな広告」も「良い広告」も、そんなもんはない、ということです。
ここで言う「良い広告」とは「即、売り上げに直結する」広告のことで、クライアントもお世辞で「いやぁ、今回の広告で客がメチャクチャ増えたよ」なんて言ってくれたりもするけど、たぶん、せいぜい1割も増えたらいいところだと思う。
逆に言えば、仮に広告がダメだったとしても、それで客が激減する、なんてこともまずない。もちろん社会問題に発展するようなヤバい広告の場合は別だけど。
テメエが広告を手掛けておいてこんなことを言うのはどうかしてるんだけど、正直、広告で売り上げが変われば世話がない、と思っているんです。
だからどうしても、クライアントに気に入られるようなデザインばかりを考えるようになる。本来であればエンドユーザーである、その広告を見てくれる人に向けて作らなければいけないんだけど、なかなかそれは難しい。
それでもね、意識として、せいぜい「クライアント5、エンドユーザー5」くらいの割合で作らないととは自戒しているのですが。
ただし、エンドユーザーに目を向けたところで、それで客を呼び込もうなんて無理もいいところで、そこはもう、はじめから諦めている。
でもね、一秒でも二秒でも、長く目を止めてもらう広告にしなければ、とも思う。というか広告ってのはまず「目を止めてもらわなけばはじまらない」のです。
そして、なるべくなら「エンドユーザーの記憶に刻み込みたい」という意志を持って作る。ふとした時「あ、あれ、何だったっけ。ああ、そうそう、あそこの店の広告だった」みたいになれば理想です。
だからインパクトってのを考える。どうやったら手が止まるのか、どうやったら脳裏に刻まれるのか、それを考えるのが商業デザイナーの仕事だと。
とまあ、デザイナーならばね、インパクトを残すようにすることは可能っちゃ可能なんですよ。
しかしコピーライターはこうはいかない。というかどれだけ素晴らしい惹句があったとしても目に止まらないデザインに付随してあったらその惹句を読む人間は誰もいないということになります。
そもそも、仮にインパクトがあるデザインに付随した惹句であっても「惹句が頭にこびりつく」なんて「デザインが頭にこびりつく」よりもはるかに難易度が高い。
だからこそ思うんですよ。よくもまあ、コピーライターなんてハードルが高いことを生業にしようと思うよなァ、と。
一見、文章とも言えない文字数だけを書いてチヤホヤされてカネが儲かりそう、と良いように思えるけど、こんなの普通の神経ではやってられないと思う。糸井重里はそれを可能にしたけど、そんなの、才能溢れる一握りの人だけじゃないか。しかもその才能ってのも、どうもクリエイティブな才能とはさほど関係ないとしか思えなくて。
アタシはね、変なことをいうようだけど、言葉は言葉でしかない、と思っています。
言葉にも魔力があることには否定しないけど、言葉だけでは薄っぺらい、実のないものになる可能性が高いんです。
しかし最初から「言葉なんて、所詮薄っぺらいもんなんだ」というところから始めれば、また違った展開があるようにも思う。
薄っぺらいんだから、深みとかを求めちゃダメ。とにかくインパクトだけを最大限に重視する。
言葉を生業にする人は、タレントもそうだし小説家もそうでしょう。もちろん作詞家なんかも含まれる。
しかしその極北にいるのがコピーライターだと思う。
コピーなんて、すべてをそぎ落とさないと成立しない。といっても文字とか意味をそぎ落とすってことじゃなくてね。
そぎ落とすべきなのは「言葉への信頼度」です。だって、所詮言葉でしょ?んなもんで売り上げが変わったりしたら世話ないよ、みたいな。
つまり、コピーライターに必要な才能はワードセンスでない。いやワードセンスは必要最低限であって十分条件ではないと言った方がいいか。
一番必要なのは、才能というよりも人間性かもしれないけど「どれだけ刹那的か」だと思う。そして刹那的であればあるほどカネになる、それが惹句という名の豆の木ではないかと。
長々と糸井重里のことを書いたのは、糸井重里のようにブランド化に成功した人でさえ、惹句というのが刹那的すぎてコピーライターを続けていくのが不可能のように感じているからです。
これがグラフィックデザイナーならまだ逃げ道があるし、映像系の広告関係者も逃げ道はあります。
しかしコピーライターは逃げ道がない。結果、糸井重里が現今やっていることはコピーライターだったこととはほぼ関係ないことで、そこでもキチンと結果を出していること自体は本当にすごいんだけど、同時にコピーライターという職業の限界も感じてしまう。あれほどの才人でも、と考えると虚しくさえ、なってしまう。
ココに書いたことと重複しますが、2013年の年末、糸井重里はこんなことを呟いています。
このツイートについてアタシは「慧眼を通り越した千里眼」と書いてますが、こうした「周りを的確に見通せる力」は、少なくとも令和になった今もまったく衰える気配がない。
これは2022年の映像ですが、相変わらず、みうらじゅんにたいして的確な示唆をしている。
こうやって書けば、もう、如何にコピーライターが多種多様な才能が必要がわかる。
・ワードセンス
・刹那的
・無責任
・千里眼
ここまで揃って初めて糸井重里になれるし、その糸井重里でさえ、現今糸井重里と言えば「MOTHER」シリーズか「ほぼ日」で、もはや誰も「糸井重里と言えば「おいしい生活」だよね」なんて人はいないと思う。
結局、惹句という<豆>はカネを生むだけの木でしかなかったのか
しかもその<豆>がちゃんとカネの成る木に育つのは、ほんの一握りの才人だけなんじゃないか
もしかしたら、その答えを持っているのは、実はみうらじゅんではないかという気がする。
というか、一回みうらじゅんに聞いて欲しい。
「いったい糸井さんって何者なんですか」
と。
まァね、どうもここ数年、ネット民からの糸井重里の評判が良くないみたいだけど、何となくそれはわかるんですよ。 本当に上手く言えないんだけど、もうこの人、天然の立ち回りの上手さみたいなのがあって、たぶんそれがイラつかせる原因だと思う。 でもね、別に「上手く立ち回ろう」なんて気はさらさらなくて、もう<天然>で出来てしまう。というか2013年の「あまちゃん」フィーバーの頃からだけど、あくまでアタシ的には「こんなにSNSの活用が上手い人はいない」と思ってるくらいなんです。 その一方、みうらじゅんが恐ろしいほどインターネットというメディアを使いこなせていないのは驚く。 一応自分のYouTubeチャンネルも持ってるんだけど、まるで活用出来ておらず、SNSをやってる様子もないし、もし始めてもたぶん上手く活用出来ないと思う。 ま、糸井重里のやってきたことは「人を集めること」で、みうらじゅんのやってきたことは「自己完結なこと」とか如何様にも言えるんだけど、糸井重里もそこんとこをレクチャーしてやればいいのに。ま、みうらじゅんからしたらありがた迷惑かもしれないけどさ。 |
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