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インターネットメディアの行方
FirstUPDATE2022.5.8
@Classic #2000年代 #電脳 #インターネット #物申す 全2ページ ネチケット 捨てアカ eメール 独自ドメイン Gmail リアル社会との紐付け 正義マン

 こりゃまた、とんでもなく幅広く出たな、と思われるかもしれませんが、アタシはね、いきなり結論めいたことを書くようですが、インターネットは徐々に「たいらになっていく」と思ったのでね。

 インターネットが世に広まる以前、映画、ラジオ、テレビというメディアがありました。ま、新聞や雑誌もあったけど、今回はとりあえず置いておきます。
 テレビについてはココに詳しく書いたけど、これらのメディアにはすべて「管制塔」と言えるものがあった。管制塔があるから様々なことが徐々に整備されていき、秩序のようなものが生まれた。
 もちろんそれは<不自由>と背中合わせですし、秩序も行き過ぎるとやがてつまらないものになっていく。これもしょうがない。
 ところがインターネットには管制塔がない。正確には「ガイドラインはあるけど管制塔がない」のです。管制塔がない=命令系統がないので、とりあえず、ガイドラインにさえしたがっていれば誰にお伺いを立てることもなく、何をしてもいい。逆にガイドラインから外れるが許されても良いような、いわば人間の情のようなものはまったく存在しない。
 こんなメディアは空前絶後です。こうした特性があるからこそ多少の流行り廃りはあってもインターネット全体が古びることもなく、いつまでもフレッシュな存在でいられる反面、成熟の速度が既存のメディアとは比べものにならないほど遅いのではないかと思うのです。
 
 インターネットの歴史を見てあ然とするのは、今なお、インターネットは黎明期なんです。
 ここでごく簡単にインターネットの歴史を書いておきます
 インターネットの概念が生まれたのは1960年ということですが、研究に時間を費やし、商用サービスが開始されたのが29年後の1989年です。
 しかし本当の意味でインターネットが一般的になったのは2005年前後だとアタシは思う。つまり概念が生まれてから50年近く経った頃。
 何を言ってんだ、その前から云々と言いたい人の気持ちもわかりますが、アタシはあくまでインターネットという<メディア>の話をしているのです。つまり技術的な話じゃない。
 もちろん技術の成熟があって、つまりブロードバンド回線やモバイル回線の成熟があっての一般化なのですが、比較対象は映画やテレビなのです。それらと肩を並べる存在になった、とは言わないけど、いずれ、そうなる、ということを誰も疑わなくなったのが2005年前後ではないかと。
 それからさらに15年以上経ちましたが、相変わらずインターネットに黎明期の空気があるのは、まったく成熟の<せ>の字も見えないからなんです。

 ネチケット(ネット+エチケットのかばん語)なんて言葉が生まれたのは1980年代(つまりインターネット用語ではなくパソコン通信用語)ということですが、実際、2000年前後の「インターネットという言葉は知ってるが利用してはいない」という人が多かった頃に盛んに使われました。
 アタシはね、ネチケットは「成熟の第一歩」だったと思う。つまりこの時点ではまだ「インターネットを成熟したメディアに育てよう」という意識が利用者側にもあった証明ではないかと。
 ところがこの試みは失敗に終わった。というか利用者が限られていた頃ならまだしも、利用者の年齢層が多岐にわたるにしたがってどんどん<ネチケット>という自浄作用が効かなくなっていったのです。
 冒頭に書いたように、インターネットには管制塔も命令系統も存在しない。だからこそ、本来であれば利用者に、自分たちは利用者ではあるが、故にメディアを破壊するような行為を慎まなければならない、という、いわば自重が必要だったのです。

 当たり前ですが、人間そんな、聖人君子ではない。まさか自分がメディアの形成の一端を担っているなんて思いもせずに、その時々の感情を撒き散らしてしまう。
 こうしていつの間にかネチケットという言葉は物笑いのタネになってしまった。結果、ガイドラインというものだけが生き残った。ガイドラインにさえ沿っていれば、後は誰に遠慮することはなく、何をやってもいい。そんなふうにというかそんな風潮になってしまったのです。

 以上、ここまでは<概要>というかインターネットがこうなった経緯です。んでここからが本題です。
 これからアタシが書いていくポイントはただ一点。それは「インターネットは成熟したメディアになるのか、ならなきゃいけないのか」です。
 映画やテレビなどの先例を見るまでもなく、成熟が訪れたメディアは、その後、必ず衰退に入ります。
 例えばテレビであれば、至近距離から電波と飛ばして、イロハの<イ>の字がブラウン管に映し出されたのは1926年。カラーテレビ受像機がモノクロテレビ受像機の台数を上回ったのが1973年であり、つまり1973年を以って一応テレビの成熟は完了したと言える。この間47年。
 インターネットの場合、本格的に研究が始まったのが(つまりイロハの<イ>の字の映像に相当するのが)1969年ですから、すでにゆうに50年以上経っている。つまり成長速度が異様に遅いと言えるはずです。
 もし成熟を始めたとしても映画やテレビよりははるかに寿命は長いとは思う。そして間違いなく、インターネットが衰退期に入る頃にはアタシはこの世にいません。
 だから結果はわからない。というか結果がわからないままアタシという人間はあの世に行ってるのは確実です。
 結果がわからないことを書いていく、というのはモヤモヤするのですが、ま、こんなことを考えていた人がいたよ、というのが残れば、という気持ちで書いていこうかと。

 まず、何故、インターネットがこれだけ社会問題になりながらも、ある意味放置状態なのかというと、早い話が平和だからです。
 なんて書くと「いや、戦争自体はないわけではないだろ」と言われるかもしれません。かと言ってあれは戦争ではなく紛争だ、とかその手の言葉遊びをしたいわけではない。
 ただし所詮二国間の争いでしかないわけで、しかも両国とも、ことインターネットメディアにおいては受動側です。
 これがもし、インターネットの根幹を握っているアメリカが主役となるような大戦が起これば、インターネットは無傷では済まない。
 太平洋戦争中に映画に国の検閲があったというのは有名ですが、戦争を行うにはどれだけ国がひとつになるかはきわめて重要なわけで、反乱分子だけでなく<醒めた>人たちをも何とかしなくてはいけないのです。
 アメリカが当事者となる戦争が起こったとしたら、インターネットを上手く活用するような気もする。実はアメリカはそうしたプロパガンダが得意で、だからこそ、あれだけ国土が広く、人種も様々な国民を上手くコントロール出来たと思うのです。
 ところが日本はそうではない。というか、はっきり言えば日本は本当にプロパガンダが下手な国で、戦意高揚映画がまったく戦意高揚になってない、という事例を挙げるだけでも十分でしょう。

 もちろんそれは遠い過去の話ではあるんですが、震災下やパンデミック下でさえ、国はインターネットを上手く活用出来なかった。もうこれは国の体質だと思う。だからもし戦争になったからといって突然、インターネットで国民の戦意高揚が出来るとは思えないんです。
 それでも一旦は、何とかインターネットを活用出来ないとのかと試行錯誤はするとは思う。それでも結局は成果が上がらないまま、最終的に「インターネットの使用を大幅に制限する」という方向に行くような気がする。
 というかこれも歴史が証明している。日本は「上手く活用出来ないとなると、最後はルールでガチガチに縛る」ってやり方をずっと続けてきたんだから、インターネットも例外ではない、というだけの話です。

 結局メディアってね、一回、国が介入してガチガチに縛らないと、大幅に変えることは出来ないんですよ。
 映画なんかまさにそうで、戦前期の自由度が10だとするなら、戦時中には1とか2になった。そして戦争が終わって揺り戻しがあったんだけど、元の10に戻ったのかというと戻っていない。でも人々は1とか2の時代を憶えているから、下手したら10以上の自由な感覚があったと思う。
 この「一度極限の不自由を味わうと、その後たいした自由じゃなくても無限の解放感を得られる」というのは普遍の真理で、もし、インターネットがその状態になるのであれば、というか本当にメディアとして成熟の方向性を目指すのであれば、一度、日本が戦争の当事者になって、インターネットの利用がガチガチに縛り付けられた後なんじゃないかと。

 こんなことを書くと「インターネットの将来のために、日本は一度戦争をするべきだ」と捉えられかねないので怖いのですが、もちろんそんなことを言っているのではありません。
 アタシは「少なくとも自分が死ぬまで日本が当事者の戦争は起こらない」と勝手に決めつけているお気楽な人間なので、するべきとかしないに越したことはないというレベルの話ですらない。ただたんに「ない」と思っているんだから。

 では他に、技術的なことではなく、インターネットを取り巻く<仕組み>が変わる要素があるのか、というと、少なくともアタシは思いつかない。
 どれだけヘイトレスが盛んになっても、どれだけヘイトが理由で自殺者が出ようと、そして多少法が改正されたところで、結局は大きく利用が制限されるということはないと思うし、利用者の自重に任せられることには変わりがないと思う。
 いや、そう言っちゃうと身も蓋もないのでもう少しちゃんと書きますが、例えば「ヘイト行為にあたる書き込みが禁止、しかもかなり量刑が重い」なんて法律が出来たとしても、やっぱ、ヘイトはなくならないですよ。
 はっきり言えば今の法律でも私刑=リンチは禁止されているんだから逮捕しようと思えば無限に逮捕出来るんです。でもしないじゃないですか。
 たぶん「そこまでやってしまうと収拾がつかなくなる」ってことだと思う。だってさ、日本国内から書き込まれたものだけでもどれほどあるんだってほどの数で、それを毎日毎日チェックし続けるなんて不可能です。

 そしてこれが重要なのですが、そもそも日本国内で使われている「アカウント」がどれほどあるんだろうか、ということです。
 ここでは例としてTwitterをダシにしますが、日本の人口が1億2千万として、後期高齢者はアカウントを持ってないし、後期高齢者ではなくてもTwitterをやってない人が人口の9/10と過程すると、それでも最低1千万はあるってことになる。
 1千万?たった?そんなわけがない。
 アタシが勝手に推測するに、現在もバリバリ使われているアカウントは最低で2千万はあると思う。(Twitter発表のアクティブユーザー数は2021年12月現在、4500万らしい)
 ま、サブアカもそうなんだけど、サブアカだけではない。おそらく毎日、おびただしい数のアカウントが作られ、おびただしい数のアカウントが二度と使われなくなっている。
 つまり「捨てアカ」の話です。

 個人的にはこの捨てアカへの議論が一番重要だと思うのですが、その話はPage2へ続く。







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