いきなりですが、阪神淡路大震災で神戸市内でももっとも被害が大きかったと言われるのが新長田周辺です。
新長田駅から南へ300mほど下ったところにある大正筋商店街で、震災から27年目になる2022年1月17日にトークイベントがありましてね。
もちろん行なわれた日付を見てもわかる通り、震災復興のためのイベントなのですが、このイベントのゲストとして芸人の松村邦洋と、元阪神タイガースの掛布雅之が来てまして。
何しろ震災復興のためのイベントなので基本的には震災絡みではあったのですが、それでもゲストがこのふたりです。となると野球、ひいては阪神タイガースの話にならないわけがない。
正直アタシは開始時間を間違えて終わりの方しか見れなかったのですが、それでも、やっぱ、こういうのはいいなぁとあらためて思った次第でして。つかこういうイベントは何年経とうが定期的にやることに意義があるんですからね。
掛布雅之をナマで見たのは二回目です。
当然のことながら球場でプレーしている姿はもっと見てますよ。そうじゃなくて球場外でって話ね。
最初は、あれは小学5年生の時だったかなぁ。甲子園球場の試合終わりで出待ちをしてたんですよ。誰か選手が出てこないかなと。
そしたら掛布が出てきた。出てきたんだけど、アタシたちの姿を見たら逃げたんです。
でも、どうも、おかしい。逃げたのは逃げたんだけど、もう、子供の足でも追いつける程度の軽いジョギング程度の速度で、いくら掛布が足が速くなかったといってもプロ野球選手ですからね。子供が追いつけるスピードでしか走れないなんて、なんぼ何でもそこまで遅くない。
甲子園球場の周りはちょっと行けば普通の住宅地が広がっているのですが、その辺りまで行くと急に走るのを止めて、よし、サインするよ、と。
つまりはですね、甲子園の周りでサインをし始めると収拾がつかなくなるので移動したわけですな。
この時アタシはタイガースのジャンパーを着て行ってたので、どうせなら、と肩口のところにサインをしてくれと頼んだら、これは断られた。書きづらいと。あ、もちろん、普通に色紙には書いてもらいましたよ。
昭和50年代の、幼い阪神贔屓のアタシは掛布のサインを手に入れるのは念願でした。
田淵幸一は直接目の前でではなかったけど田淵がよく行くバーの人に頼んで書いてもらったし、岡田彰布もそんな感じだったと思う。岡田はあんまり憶えてないや。
あとは掛布、だった。とにかく掛布のナマサインが欲しいと。
これ、今でもあるのかわからないけど、球場のショップなんかでサインボールは普通に売ってたんですよ。でもそれらは、いわゆる「印刷」ってヤツなのですが、掛布の印刷されたサインボールは持ってた。
でもやっぱサインって、マジックで書かれたことに意味があるわけでね。
掛布のサインにこだわったのは当然です。だって当代きってのスター選手だったから。
もう今では掛布がどれほどすごかったのか、いや選手としての能力もなんだけど、当時の阪神贔屓にとって如何に掛布が絶対的な選手だったのか、憶えている人も少なくなりました。
というか、掛布ほど現役当時をリアルタイムで知ってるアタシような人間と、一切知らない若いファンで評価が真っ二つな人も珍しい。
「アホみたいに借金かかえて、自己破産ってどういうことやねん」
「読売に寝返るような発言ばっかりしくさってからに。なんであんなんがミスタータイガースや」
「解説いうても<流れが>どーとかばっかりやん」
「二軍監督時代?寝てただけやろ」
「4番は4番はって、大山にどれだけプレッシャーかける気やねん」
「とにかく野球観が古臭すぎるねん」
それこそ某なんJでも、掛布にたいしてポジティブなレスをほとんど見たことがない。しかも他球団ファンや<煽りカス>だけならともかく、あきらかな阪神贔屓からも評判が良くないのです。
ただね、それらの批判的なインターネット上の意見を目にして、腹が立つのかというと、立たない。むしろ、まァ、そういうこと言われてもしょうがないよなぁとね、どちらかと言うと同意する気持ちの方が大きい。
ただし、です。
「そこまでたいした通算成績やないやん。そんなミスタータイガースと言われるほどの選手やったんか?」
こうした、つまり「現役時代の能力への批判」だけは断固として同意出来ない。
たしかに、こと数字だけで言えば王貞治やイチロー、野村克也、張本勲、落合博満などの超一流と呼ばれた人に比べたらかなり落ちます。
それでもアタシは、掛布雅之こそ日本プロ野球史上ナンバーワンの打者だと思っている。ま、ちょっと「勝負弱い」ってのは差し引かなきゃいけないけどさ。
何故アタシがそこまで掛布を評価するのか。
少なくとも現役選手で掛布に似た選手はいない。比較的最近の選手でも<近い>と言えるのは元楽天の岩村明憲でしょうか。もちろん楽天時代の岩村ではなくヤクルト時代の岩村ですが。
しかし、はっきり言い切ってしまえば、悪いけど比較にならない。
イチローなら好打者、落合なら強打者となるのでしょうが、掛布を例えるなら「猛打者」というのがピッタリくる。
ヒットは日本語でいえば単打ですから、どうしても軽くミートしたみたいなイメージがありますが、掛布のは違った。もちろんレフトへ合わせたようなヒットもあったんですが、引っ張ったヒットが凄かった。
まさに地を這う、というか、しかも打球がメチャクチャ速い。一塁手も二塁手も一歩も動けず、みたいな、そんなヒットばっかりでしたから。
そしてホームランです。
あれは掛布が引退した1988年でしたか。引退したばかりの掛布がね、ドラフト会議のテレビ中継のゲストで来てたんですよ。
で、せっかく掛布がゲストなんだからってことだったんだろうけど、1979年に掛布雅之が48本塁打打って初めて本塁打王を獲得した年のホームランをVTRにまとめて流したのです。
これはもう、忘れない。VTRが終わった後で進行役のアナウンサーが「編集した人が驚いていましたよ」と言ってたのが印象的で。
と言うのも、この年の掛布のホームラン、ほぼすべて弾丸ライナーのホームランだったんです。
たしかにこの頃の甲子園はラッキーゾーンがありました。でも掛布のホームランはラッキーゾーンなんか関係ない。弾丸ライナーで、ライトのポール際に、スタンドの中段あたりに叩き込んでいるんだから。
あんなホームランをまぐれではなく、シーズンに何本も打ったなんて掛布しかいない。金本知憲も弾丸ライナーのホームランを打ってたけど飛距離も数も違う。
田淵幸一はホームランアーチストと言われたように高々と舞い上がる弾道だったし、ランディ・バースも弾丸ライナーって感じじゃなかった。
いや阪神に限らず、どこの選手だろうがどこの球場だろうが、弾丸ライナーであんな飛距離がある選手なんて外国人含めても見たことがない。
だからアタシは掛布こそナンバーワンだと思うのです。
さらに言えば人気も破格だった。
当時、近所の米屋に掛布が茶碗と箸をもっておいしそうに白米を食べているポスターが貼ってありましたが、あきらかにスターとしてのオーラを身に纏いながらも庶民的で、とくに若手時代はファンが応援したくなるタイプの選手だったんです。
おそらくその集大成が「GO!GO!掛布」でしょう。
っても何のことかわからないでしょうが、そういうレコードがリリースされて、しかもかなりヒットしたんです。
1980年代の前半くらいまでかな、は野球選手がレコードを吹き込むってのはわりとあって、てな話は別のエントリに譲りますが、この「GO!GO!掛布」を吹き込んだのは掛布自身ではない。ということは要するに「期待の若手である掛布雅之の応援ソング」ってことです。
しかしこの曲はすごい。ま、何にしろ聴いてもらう方が早いので、まずは聴いてください。
途中に実況中継が入ってますが、これは1977年の神宮球場で行なわれたヤクルトとの開幕戦、一回表に二死満塁から6番掛布が満塁ホームランを打った時のもので、当時の様子がよくわかる良い構成です。
しかしさ、そりゃ時代が違うとはいえね、特定個人選手の応援ソングがリリースされてヒットする、なんて考えられないですよ。それこそ佐藤輝明の応援ソングが作られたかというと作られてないもん。
というかココでも書いたように、まだ1977年頃って阪神人気はたいしたことがなかったんです。なのにってのを換算するとすごすぎる話で。
歌詞に謳い込まれている「若虎」はまさに掛布の代名詞でした。
間違いなく阪神タイガースの、いや日本のプロ野球を代表する大打者になるに違いない。そう考えていたのは阪神贔屓だけではありません。
ちょうど掛布が台頭した1976年の翌年、いや「GO!GO!掛布」のレコードがリリースされた年と言った方がいいか。とにかく1977年の10月から、あの大ヒット作「巨人の星」が装いも新たに「新・巨人の星」として再びテレビアニメ化されたんです。
オリジナルでの星飛雄馬のライバルと言えば花形満であり左門豊作であり、すべて架空のキャラクターでした。「新」でも基本的には同じなのですが、唯一の例外が掛布で、代走屋としての道を選んだ星飛雄馬の必殺技「殺人スライディング」を打ち破ったのが実在の選手である掛布雅之だったんです。
たしか、掛布が星飛雄馬を打ち破る回が放送される直前に梶原一騎が珍しくテレビのインタビューに出てきて「悩んでいる」「掛布の人気を考えると、ただ飛雄馬に負けさせればいいってわけにはいかない」みたいなことを喋ってたのを今でも憶えている。
もちろん、実際にはもう決めてあったんだろうけど、そんなインタビューが成立するくらい「星飛雄馬は対若虎掛布をどうするのか」に注目が集まっていたのです。
アニメでも星飛雄馬に掛布が虎の化身になって襲いかかる演出がされており、極端に言えば当時の掛布はアニメのキャラクター並みの存在感と扱いを受けていた、というかね。