Page1にて、エノケンらによって<客の入らなくなった浅草オペラ>から<音楽劇>(正確には音楽喜劇)が生まれ成功した、というようなことを書いたのですが、ここを少し掘り下げることから始めます。
浅草オペラから音楽劇への転換は、ただたんに「喜劇要素を増やした」だけではありません。一番肝心なのは音楽にジャズを使い始めたことです。
Page1でも書いたように、オペラは必ずしもクラシック音楽を使っているわけではないのですが、それでも発声法その他のクラシックに近い。オペラの発声法はいわば「自分の声を楽器に見立てる」と言われるように「朗々と歌う」と形容されたりしますが、マイクに頼らず、つまり音響装置がない中でも自分の声が届くように歌うわけで。
当然、クラシック音楽じゃなくても、つまりオペラの演目専用に作られた楽曲でも、こうした発声法に向く楽曲が作られることに他なりません。
しかしジャズを使うとなると話が変わってくる。たんに「音楽のジャンルが今風に変わった」だけでは済まないのです。
そもそも「朗々と歌う」「ジャズ」というのが違和感があるというか、無理がありすぎる。となると、ジャズを使う=浅草オペラ以来の歌唱法を捨てることになるわけです。
ジャズの歌唱法として有名なものに「クルーナー唱法」というものがあり、これは「ささやくように歌う」という「マイクや音響装置の発達があればこそ」誕生した歌唱法です。
当時の音楽劇が皆が皆、必ずしもクルーナー唱法ではないのですが、少なくともオペラほどは朗々とは歌ってなかったと思う。それは残されたレコードや映画を観てもよくわかる。
エノケンの師匠で浅草オペラの残党でもある柳田貞一はエノケン一座に所属していたこともあって、ほぼすべての戦前エノケン映画にも出演しています。
劇中で柳田貞一が歌うことはたまにありますが、クルーナー唱法ほどではないにしろ、基本的には時代に即したというか、とにかく軽く歌っている。ただ言ってもオペラ出身であり「朗々と」歌うことも出来るわけで、「エノケンの金太売出す」のラスト間際には浅草オペラ時代を彷彿とさせる朗々とした歌唱を見せています。
エノケン映画を見るとよくわかるのですが、喜劇的素養とは別に「軽く<も>歌える」中村是好は重用され、一座では二枚目役が多かったという北村武夫は軽く歌うことが苦手だったようで「朗々と歌う」ことが活かされる場面でしか歌えなかった。
つまり、戦前の時点で、エノケン映画という<喜劇>とは言え、旧来の浅草オペラ的な歌唱は淘汰されかけていたのです。
ここで一気に時代が飛びます。
現今、ミュージカルと言えばまず最初に名前が挙がるのは、浅利慶太による劇団四季でしょう。
アタシは劇団四季に明るくないので否定も肯定もしない。ただ、現今の「世間に浸透している音楽劇のイメージ」を作り上げたのは、間違いなく劇団四季だと思う。
何しろ明るくないので、それが本当に劇団四季の実態かどうかはわからないのですが、私見では劇団四季の歌唱法はかなり「オペラ寄り」で、たとえばWikipediaにはこう記されています。
演技にあたり、常に背筋を伸ばして腹式呼吸を意識し、母音をはっきり発音する独特の朗唱法(母音法)を「四季メソッド」として徹底させている。この発声方法は舞台上から観客の耳へと台詞がはっきり届くよう生み出された。
つまり、オペラ同様「朗々と」歌ったりセリフを喋ることを念頭に置いているわけで、良い悪いは一切抜きにして、やはりこれは<いい加減>な音楽劇ではなく<本格的>なアチラ式を目指したものだと考えられます。
先述のように、これが一般的な音楽劇のイメージで、いわゆる「2.5次元ミュージカル」と呼ばれるものも、基本的には劇団四季のスタイルを踏襲している。いや、現今、ほとんどの音楽劇は劇団四季がベースにあると言ってもいいと思います。
しかし、あくまでアタシの<好み>の問題なのですが、この手の「朗々とした」ものは違和感が強い。だからタモリの見解を無条件で否定出来ないのです。
たしかに、あんな日本人はいない。歌舞伎のような一種の様式美だと納得さえ出来ればアリかもしれないけど、仮に納得が出来ようが、好きかどうかで言えば、まァ、あんまり好きじゃない、としか言いようがないわけで。
突然かどうかはともかく、日本人がセリフの続きで歌い出す、という、根本的な違和感はエノケンらによってうみだされた「ジャズを使う→朗々とは歌わない」というのはひとつの答えを提示した、と言っていい。
朗々と歌わない=軽く歌うことのメリットとして「地声を活かせる」ということがあります。
というか下手な音楽劇はここで失敗している。セリフは限りなく地声で喋っているのに、歌い出した途端、突然「違う声」になるのだから違和感が出て当然です。ならば劇団四季同様セリフも朗々とやればいいのに、セリフはリアルに、歌は本格的に、とやるから異様にガタピシして見えるわけで。
Page1でアタシは音楽劇=いい加減、としましたが、実は「歌も本格的には歌わない、ある種のいい加減な歌い方をする」のが音楽劇の最大の魅力なのです。
この辺りのことに意識的だったと思われる意外な人物がいます。クレージーキャッツ映画のメイン監督だった古澤憲吾です。
古澤憲吾は右寄りの人であり、もともと戦争映画が撮りたかったような人でした。だから音楽や音楽劇にたいして並以上の関心があったとは思えない。
しかし東宝内で立場の弱かった古澤憲吾は「向いてるとは思えない」軽い音楽喜劇映画ばかり撮らされていました。
ところが、そうした素養がないと思われていたにもかかわらず、古澤憲吾は音楽喜劇において独特のスタイルを確立し出した。
「突然歌い出すことの不自然さ」を解消するためか、とにかく古澤憲吾演出のクレージーキャッツ映画にはふたつのルールがありました。いやルールかはわからんけど、徹底はしていたと思われるわけで。
① セリフからいきなり歌唱シーンにしない
② 歌唱シーンは誰もいないところ、もしくはステージ上、もしくは<とある仕掛け>を施した
①にかんしてはクレージーキャッツ主演の第一作「ニッポン無責任時代」の「五万節」の歌唱シーンのみ例外ですが、何しろまた第一作なのでスタイルが確立してなかっただけでしょう。
しかし以降は必ずカットが切り替わった後に歌唱シーンが入る。(他に「大冒険」での「犬山音頭」という例外はあるけど、あれはかなり意図的)
このことで、仮に街中での歌唱であろうが「登場人物が突然歌い出した」という違和感が消えるのです。
②に関してはかなり徹底しており、とくに<とある仕掛け>にかんしては、たぶんハリウッドのシネミュージカルにもない<発明>じゃないかと。
その前に別の話をします。
アタシがロンドンに滞在中に、大ボリュームで歌いながら歩いてる、あきらかにア○マのオカシイ人を見たことがあります。
この話はココに書いたので詳細は割愛しますが、あえて書かなかったことを書きたい。
面白いのは周りの人のリアクションです。
もちろん、それだけのボリュームで歌ってるんだから、他の通行人はそのア○マのオカシイ人に目をやる。当然です。
しかし一瞬のうちに「ああ、関わっちゃいけない人だ」と察したかのように、パッと目を伏せる。ま、伏せはしなくてもア○マのオカシイ人から目を背ける。きわめてリアルな反応です。
これをやってのけたのが古澤憲吾です。
もちろん物語の設定として、植木等演じる主人公は「ア○マのオカシイ人」というふうになっているのですが、これは物語のためだけではないとアタシは見ます。
とにかく「主人公がア○マのオカシイ」となったら、もうそれだけで「街中で突然歌い踊る」ことが不自然ではなくなるのです。
古澤憲吾は無意味とも思えるほどのエキストラを大量に使うことでも有名でしたが、このエキストラの、植木等が歌い踊っている姿へのリアクションがアタシがロンドンで見たのとまったく同じなのですよ。
あ、前から関わっちゃいけないレベルのオカシイ人が来た。おい、お前もあんまりジロジロ見るなよ
エキストラにそんなセリフがあるわけではないけど、リアクションはまさにこれです。
日本人が突然歌い出すなんてあり得ない。というタモリの見解に、もし仮に、そんな人物がいるとするのなら、それはもう、ア○マがオカシイってだけだろ、というアンサーを古澤憲吾が用意した、と言ってもいい。
もちろんタモリがミュージカル嫌いネタを言い出したよりも、クレージーキャッツ主演映画の方が前です。だから順番としては逆なのですが、タモリの見解への答えがあるかないかで言えば、ある、と言うことになるわけで。
残念ながら古澤憲吾の<発明>は後世には活かされなかった。当然、これを実現するためには「主人公はア○マのオカシイ人」って設定にしなきゃいけないんだけど、アイデア次第で突然歌い出してもおかしくない人、という設定は考えられると思うんです。
三谷幸喜はミュージカルを作るにあたって、突然歌い出すことへの不自然さを解消するために「普通にしゃべることができず、常に歌い、踊り続ける」主人公を考案した。これも<作戦>のひとつだとは思う。
ただし、ここまで、古澤憲吾や三谷幸喜のように「そんな日本人はいない」という問題に真摯に向き合って音楽劇を作っている人がどれだけいるか、となると疑問が残ります。
いや、そんなアイデアもなしに音楽劇を作ること自体がどうかと思うんだけど、ならば劇団四季をソツなく踏襲すればいいと思う。つまり「朗々と」喋って「朗々と」歌えばいい。
アタシやタモリからは否定的に見られるかもしれないし、結局は<コレ>が音楽劇が莫迦にされやすい最大の原因だと思うのですが、興行的に成功してるなら別にいいんじゃないの?と。
あくまでアタシの<好み>は「地声」で喋って「地声」で歌う音楽劇です。それを実現させるためには先述の通りアイデアがいるとは思う。
いい加減かもしれないけど、肩肘の張らない、芸のすごささえどっかに吹っ飛んでいっちゃうような、楽しい音楽劇が観たい。
日本人で無理なら日本人以外がやればいい。ハリウッドでもイギリスでも、今もって普通に音楽劇を作ってるインドでも、いや、ローシーに敬意を表する意味でイタリアがいいかもしれない。
でもやっぱり、アタシは日本でやって欲しい。せっかくエノケンや古澤憲吾が「日本人がやっても不自然ではない音楽劇」のアイデアをいろいろ考案したんだから、それを無駄にして欲しくない、という気持ちが強い。
ま、出来るが出来ないかはまた話が別だけどね。つかマジでミュージカルよりも下手したら音楽劇の方が「積み重ね」と「継承」がないと無理だと思っているんで。
つくづくタモリって人は見巧者だと思う。だってさ、タモリのミュージカル嫌いの理由を感情論一切抜きで反論するのはメチャクチャ難しいんですよ。つまりはそれほど「芯を食ってる」ってことなんじゃないかと。 根っこの考えが、アタシはタモリに近いからかもしれないけど、芯を食った意見を理屈で(多少屁理屈だったとしても)返すには、結局これだけ長々と書かなきゃいけないってのがね。 あと補足ですが、今回は「大正、戦前期から脈々と続く」音楽劇のメッカ、宝塚歌劇(と松竹歌劇)のことはオミットしました。ま、これはこれで調べたら面白いのは面白いんだけど、ちょっと話がとっ散らかりすぎるからね。 本当は松竹楽劇団のことを含めてちゃんとやりたいんだけど、まだまだ調査半ばなので、そのうち、ということで。 |
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