ー音楽劇が好きな大人
この言葉はわりと深いと思うのです。
今の時代だけじゃない。おそらくいつの世も、いや正確には「音楽劇」という仕分けがされて以降、一定以上の年齢になって音楽劇が好き=<いいトシして>と言うニュアンスが付いて回るようになってしまっています。
<いいトシして>ゲームが好き
<いいトシして>アニメが好き
<いいトシして>特撮が好き
正しい正しくないは置いといて、これらの言葉も成立するのかもしれない。しかし、これらは将来なくなるのではないか、と思うのです。正確には「こんな考えをもった人はかなりのマイノリティになる」んじゃないかと。
しかし音楽劇は、ついぞ、そうはならなかった。
少なくとも我が国においては音楽劇の源流はオペラです。能や歌舞伎は?と言われても困るんだけど、現今の音楽劇で能や歌舞伎と言った日本古来の芸能の影響を感じ取ることはきわめて難しい。
とにかく、音楽劇にたいして、今よりはるかに音楽劇が盛んだった時代でさえ、<いいトシして>というイメージは消えなかった。源流であるオペラが「大人の、小金を持った人の嗜み」になったのに、音楽劇にはどこか「幼稚」とか「あんなものを喜ぶなんて」というニュアンスがつきまとう。同時に「音楽劇=莫迦にすべきもの」という空気を感じることさえ、あるわけで。
もしかしたら、そうした空気を作り出した、いや作り出してはいないけど「何故、音楽劇は<馬鹿馬鹿しい>のか」を言語化したのがタモリです。
タモリのミュージカル(≒音楽劇)嫌いは有名ですが、何度も(なかばネタとして)音楽劇の根本的な違和感を口にしています。
中でも有名なのが「(日本人で)あんなに突然、歌い出すヤツはいない」というものがありますが、単純明快であるにもかかわらず、本質を突いた意見だと思う。
さて、アタシは「我が国においては音楽劇の源流はオペラ」だと書きました。
オペラと音楽劇の違い。これは検索さえすれば明確な答えが記してあるサイトがあるのですが、その違いがわかってない人が大半だと思う。ついでに言うなら音楽劇をやっている人ですら、わかってないのではないか。
結論は間違いなく、このふたつ、つまり「タモリの見識」と「音楽劇とオペラの違い」の中にある。
そしてこのふたつの中に「何故音楽劇にたいして色眼鏡で見る人が多いのか」と、もうひとつ、何故アタシが昔の音楽劇には強い興味があるのに現今の音楽劇に興味がないのか。その答えも出るはずです。
というわけで今回のお題目は「音楽劇」です。
ミュージカル、でもいいんだけど、ミュージカルというのは本来「ステージ上で行われるもの」にたいして用いられる言葉でして、映画になると「シネミュージカル」という表現が必要になってしまう。
また「ミュージカル」となると、どうしても「音楽で物語を紡いているもの」以外を扱いづらい。つまりは厳密に「ミュージカルかどうか」の判断が必要になるのです。
まァね、ミュージカルの和訳が音楽劇とも言えるんだけど、あくまでアタシは峻別しているわけで、ついでに言えば
・オペラ(シネオペラやシネオペレッタを含む)
・ミュージカル(シネミュージカルを含む)
・レビュウ(シネレビュウを含む)
・音楽劇
この4つは本質的に違うものだと理解しています。
「オペラ」「ミュージカル」「レビュウ」は明確な違いがありますが、音楽劇はある意味一番いい加減なジャンルで、この3つのうちのどれかがそれなりの濃度で入っていたら、つまり純粋ミュージカルや純粋レビュウではないけど、ま、音楽劇ってことならいいのではないか、と。
何故「音楽劇」というような<ざっくり>した仕分けが必要かというと、映画、とくに邦画に至っては「シネミュージカル」や「シネレビュウ」など絶無に近いのです。
それではアタシの書くことがなくなってしまう。というかアタシ個人の趣味から言えば「純粋ミュージカル」などよりも、果てしなく<ざっくり>した音楽劇の方が好みなわけで。
ま、それでも、峻別だなんだと言い出したらややこしいので、今回のお題の「音楽劇」とは「オペラやミュージカルやレビュウ、その映画版を含めた、さらに<音楽劇>としか言いようがないものの総称」だとお考えください。
まず、かったるい話から片付けていきます。
日本に音楽劇が入ってきたのは大正時代のことです。イタリア人のジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシー(以下、ローシー)が帝国劇場に招かれ来日し、日本にオペラを普及させるべく奮闘します。
が、興行としては大失敗し、その後もローシーは私財を投じてまでオペラ普及に尽力しましたが、すべて失敗に終わり失意のうちにイタリアに帰国します。
しかし彼は大きな財産を残した。もちろん財産と言ってもカネではない。田谷力三や高木徳子、天野喜久代、沢モリノなどの優秀な人材を育てあげたのです。
ローシーから教えを請うたこれらの人たちが自力でオペラを日本に根付かせようと試行錯誤し、本格的なオペラというよりはオペレッタ(喜劇要素の強いオペラ)をさらに下世話にし、当時日本でもっとも最先端の興行地であった浅草で興行を始めます。
これが俗に言う「浅草オペラ」と呼ばれるもので、ついに日本で音楽劇が花開いた。もちろんアチラ式の本格的オペラとはかなり違ったものにはなったのですが、それでも日本の観客に合うように上手くアダプテーションしたとも言えるわけでね。
たしかに当時の日本が未成熟だったというのは否めない。しかし、アタシが考えるにそもそも「オペラはあまり日本には合わないのではないか」と思うのです。
アチラ式のオペラと下世話な浅草オペラ、このふたつを並べてみると、現今でさえ、日本人に合うのは浅草オペラではないかと言う気がする。
ただ、その浅草オペラも全盛期は短かった。関東大震災の影響で劇場やら楽譜が全部やられ、その後何とか復旧しますが客足は戻りませんでした。
この頃は興行そのものが上手くいかなくなっても人材の継承は上手く行われており、ローシーから教えを請うた、いわばローシーの弟子筋たちのさらに弟子の人たちが浅草オペラに変わる、昭和という時代にふさわしい音楽劇を始めるに至るのです。
1900ヒトケタ年代の彼らは、必ずしもローシーの孫弟子ではなかったけど、世代的には20世紀生まれの人たちが支えた。具体的には二村定一、中村是好、榎本健一、藤原釜足などです。
彼らも当初は浅草オペラの復興を目指したのですが、もう客は戻らなかった。ならば、と、オペラから離れて、より喜劇要素を強くして、同時に音楽面も当時流行していたジャズを積極的に取り入りて成功します。
ここで微妙に浅草オペラに話を戻しますが「オペラはクラシック音楽を使用する」と記載してあるサイトがわりとあるのですが、ま、本当はそうとも言い切れ無い。
現今、もっとも有名なオペラの楽曲と言えば「恋はやさし野辺の花よ」だと思うのですが、これは「ボッカチオ」というオペレッタ用に作られたもので、日本でも「ボッカチオ」を上演する時に和訳され、この題名と歌詞になりました。
つまりは、クラシック音楽を使ってるかというと使っていない。「ボッカチオ」からもう一曲、これもそこそこの知名度がある「ベアトリ姐ちゃん」も、やはり「ボッカチオ」の時に作られたものです。
こうした「外国曲のメロディだけを<イタダイて>日本的な歌詞を付ける」というのは原曲がジャズになって以降も受け継がれた。
たとえばココに詳しく書いた「孫悟空」(1940、東宝)という映画にて「ハイホー」や「狼なんか怖くない」「星に願いを」などデ○ズニーの曲が出てきますが、これらは当然無許可です。ま、嫌な言い方をすればパクリということになってしまう。
しかしエノケンをはじめとした当時の人たちに「パクリ」という感覚など皆無だったはずで、それは浅草オペラの頃と同様、メロディは外国曲を使って、歌詞は日本語にするが訳詞ではなく日本人向けにし、アレンジも微妙に日本人に合うようにアダプテーションする、というのが「ごく普通」のことだったんです。
音楽単体で扱うからパクリだなんだという感覚になってしまうのですが、これを突き詰めるとむしろ「音楽劇とは何なんだ、オリジナリティとは何なんだ」という話になる。
アタシはこの当時の考え方を無条件に否定する気にはなりません。アイデアは共有財産であり、もちろんオリジナルアイデアを考え出した人には敬意を払うが、それを自分たちなりに発展させて自分たちのものにする、というのも、芸能文化が発展する上でかなり大切なことのような気がするわけで。
おそらくこの当時は、メロディもアイデアと同じ考えだったような気がする。オリジナルとは「そこに何を<乗っける>かじゃないか」という考えに基づけば、メロディは流用するけど歌詞や歌唱やアレンジは独自のものであるわけで、オレたちは<そこ>で勝負してるんだ、と考えていたのではないかと。
この辺は本当はきわめて難しいことなんです。
メロディと歌詞はオリジナルかもしれないけど、曲全体のコンセプトや歌唱法、その他パフォーマンスを含めて<パクリ>でも、著作権法では許されているのです。
つまり
・メロディ以外全部オリジナル→アウト
・メロディと歌詞以外全部パクリ→セーフ
となるのが、どうも納得出来ない。というか戦前期と今とで「どっちがオリジナリティで勝負しているか」となれば、アタシ個人の意見としては<どっこいどっこい>じゃないかと。つまり今は著作権法を上手くかいくぐってるだけで、昔は無法状態のオリジナリティ皆無ってことじゃないよね、という話です。
何だか音楽劇から話がズレてるように思われているかもしれませんが、大丈夫です。こうした「オリジナリティ」も今後大きく関わってきますから。
てなわけでPage2へ続く。