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複眼単眼・孫悟空
FirstUPDATE2018.2.7
@戦前 @エノケン @岸井明 @柳田貞一 @山本嘉次郎 #複眼単眼 #映画 #東宝 #音楽劇 #戦争 全2ページ @孫悟空 検閲 @エノケンのざんぎり金太 色川武大 小林信彦 PostScript

 1940年、というと、どんな時代を想像されるでしょうか。

 太平洋戦争が始まったのが翌年の1941年なので、一見最後の平和な年に思えるかもしれないけど、もちろんそんなことはない。すでに支那事変は1937年に勃発しているわけで、しかも戦局はこう着状態。少なくとも平和でも勝戦ムードに浮かれている状況でもなかった、ということになります。
 たぶん口にする庶民はほとんどいなかったと思いますが、そんな遠くない未来に中国よりもさらに大国との戦さが待ち構えている、くらいの察しはついていたと思うわけでして。

 時代の空気は一般庶民が感じられるほど重苦しくなりはじめていました。
 前々年の1938年には1940年に開催が決まっていた東京でのオリンピック開催を返上し、また同じ年に開催予定だった万国博覧会も中止された。そして、おそらく大半の庶民は知らなかったと思われるけど、1940年に開始されるはずだったテレビジョンの本放送も延期になっている。
 また1940年といえば、全国のダンスホールが一斉封鎖になったことも忘れてはならない。
 こうして、こと娯楽にかんしては、締め付けが始まったのがこの年と言えるんです。

 しかし生活そのものが圧迫されだしたわけではなく、たとえば配給制が始まったのは翌1941年の春だし、外来語(というか英語)も禁止されていたわけではない。娯楽にかんしても、ジャズが大幅な制限を受けて実質演奏が出来なくなったのも1942年に入ってからです。
 つまり1940年は「制限が始まりだしたが、まだがんじがらめというまではいかなかった」年、と言えます。
 ただ、これだけはっきりと足音が聞こえてくると、近い将来、さらに大幅な制限がおとずれる、当時の芸能関係者はその程度は読めていた、とするのが妥当でしょう。

 映画の検閲はすでに始まっていました。が、まだそこまで、無茶苦茶な言いがかりで脚本が大幅に改定させられたり、制作が中止させられるようなことはほとんどなかった。まァ、当局を刺激する内容だったり、当時のモラルから極端に逸脱したものでなければ問題はなかったんでしょう。
 しかし1940年にもなると、ヒステリックな検閲も行われはじめている。
 東宝と山本嘉次郎監督は1937年に大ヒットを記録した「エノケンのちゃっきり金太」の続編を同じエノケンこと榎本健一の主演で予定していた。ところがこれが当局からクレームがきた。題名の「ちゃっきり」というのがいけなかったらしい。

 エノケンの著書「喜劇こそわが命」でもこの件について触れられているけど、この本を読んだところで何故「ちゃっきり」という言葉がいけないのか、イマイチ理由がはっきりしない。
 スリを連想させるから、ということだけど、主人公の金太はスリの名人という設定にもかかわらず何故か内容は問題ないというのに(途中で更生するからという理由らしい)、タイトルだけがダメってのはよくわからない。だいたい「ちゃっきり」といえば普通は「ちゃっきり節(ちゃっきり=茶切り)」の「ちゃっきり」であり、そこからスリを連想するというのは無理があると思うのですがね。(ちなみにこの映画の「ちゃっきり」とは「巾着切り」を略しての「ちゃっきり」)

 とにかく、予定されていた「続・エノケンのちゃっきり金太」というタイトルは使えなくなり、結局「エノケンのざんぎり金太」という題で公開されることになります。(ざんぎり=明治時代が舞台なのでざんぎり頭から)
 たぶんこの一件も影響があったのでしょう。公開された「ざんぎり金太」はエノケン・ヤマカジ(山本嘉次郎)コンビで撮られたエノケン映画の総決算のような内容になっており、元となった「ちゃっきり金太」だけでなく、「エノケンの青春酔虎伝」「エノケンの千万長者」など、過去の名場面をリテイクしたようなシーンが随所に見られるんです。

 時代が圧迫されていったこともありますが、この頃の山本嘉次郎はエノケン映画の監督、という枠を大きく超え、日本を代表する監督のひとりに数えられるまでになっていたのも大きい。
 1939年頃からは大監督になった山本嘉次郎に代わって、戦後になって化け猫映画や怪談もので名を馳せることになる中川信夫がエノケン映画のメイン監督になっていた。つまり今後、山本嘉次郎にエノケン映画のお鉢が回ってくることはめったにないという状況だったんです。
 どのみち、もう、若い頃のエノケンと山本嘉次郎が熱く語り合った「喜劇映画への夢」が実現できる状況ではないことは火を見るよりも明らかになりつつあったわけで。
 ならば「最後に総決算的な映画を作ろう」となったのは自然な話だと思う。

 ところが偶発的要素から、再びエノケンと山本嘉次郎がタッグを組むことになるんだけど、その話の前にまずお断りしておきたい。
 今回のタイトルはすべて「孫悟空」で統一していますが、これは公開当時のタイトルが「孫悟空」だったからです。
 しかし今は「エノケンの孫悟空」とするのが一般的で、単に「孫悟空」となっているものはほとんどない。(ただし2020年にDVD付きムック本として発売された「黒澤明DVDコレクション」では原題通り「孫悟空」となっている)

 戦前、少なくとも「孫悟空」が制作される前までは、エノケン主演映画はすべて「エノケンの」という冠がついていた。「エノケンの青春酔虎伝」の正式タイトルは「エノケン主演 青春酔虎伝」だし、「エノケンのどんぐり頓兵衛」は「エノケン十八番 どんぐり頓兵衛」だけど、まあこれらもタイトルに「エノケン」という冠が入っていることには違いない。(余談だけど「エノケンの江戸っ子三太」と呼ばれる映画の正式タイトルは「エノケンの吾妻錦絵 江戸っ子三太」)
 しかし「孫悟空」には冠はついていない。後に再公開、もしくはメディア化するにあたって、シリーズであることを強調するために「エノケンの」という冠をつけたんだろうけど、公開当時は冠がついてなかったというのは重要です。

 今の日本で作られることはまったくありませんが、かつては「オールスター映画」というものが存在しました。
 主演映画しか撮らない、映画会社にとっては金看板といえるスターを一堂に集めて、大金を投じて大作を作る。
 戦前の松竹や日活は毎年ではないもののオールスター映画を作っていましたが、新興映画会社だった東宝はオールスター映画をほとんど作っていなかった。しいてオールスター映画と言えるのは1939年に作られた「忠臣蔵(前後編)」とP.C.L.時代の「楽園の合唱」(1937年)くらいでしょう。

 と書くと「孫悟空はオールスター映画として作られた」ととられそうだけど、実は「孫悟空」はオールスター映画ではないんですよ。
 もしオールスター映画として作っていれば、孫悟空はエノケンだとしても、三蔵法師は長谷川一夫、猪八戒は古川ロッパ、沙悟浄は藤原釜足、妖々女王は入江たか子、金角銀角はエンタツ・アチャコあたりが演じたはずで、また何らかの役で原節子や山田五十鈴が出演していてもおかしくない。
 しかし実際は大物といえるのは、エノケンの他は高峰秀子と李香蘭くらい。岸井明、高勢実乗、花井蘭子、三益愛子、竹久千恵子、中村メイコといった、準主演クラスもしくはプログラムピクチャーの主演クラスも出演しているけど、あとはエノケン一座の人たちでキャストが埋められているのです。
(ほぼ歌うのみで渡辺はま子と服部富子、ダンサーとして益田隆、出演シーンが全カットされたとはいえ徳川夢声も撮影には参加しているけど)

 つまりキャストだけを見ればまったくオールスター映画ではないのですが、予算やかけられた手間暇を換算すれば、超大作として作られたことには変わりありません。
 予算や手間暇は、それまで作られていたエノケン映画とはスケールが違う。
 それまでのエノケン映画で最大の予算がかけられた映画は「エノケンのちゃっきり金太」と言われていますが、「孫悟空」はその比はない。そこだけ見てもこの映画が「エノケン主演ありき」ではなく「超大作ありき」または「企画ありき」で作られたことがわかる。
 「孫悟空」というか西遊記が題材に選ばれた理由は簡単です。要するに「悪い妖怪が住む唐(=中国)を正義の三蔵法師たち(=日本)がやっつける」という、まあ間違いなくプロバガンダ映画として作られたのです。
 西遊記は当時からすでに馴染み深い話だったらしく、わかりやすく、子供にまでメッセージを届けることができる筋です。支那事変が思うように進まない中だったという時代背景を考えれば、これほど相応しい題材もないと思う。

 西遊記は日本でもすでに何度か映画化されていましたが、当時の東宝で作るなら一大エンターテイメントにするしかないわけで、そうなると舞台で何度も西遊記を劇化していたエノケン以外の主演者は考えられない。
 猿の真似を当たり役としていたエノケンほど孫悟空にピッタリの役者が存在するわけがなく、ましてや監督は東宝を代表する監督にして、エノケンと何度もコンビを組んできた気心の知れた山本嘉次郎なのです。
 こうなると何故「孫悟空」がオールスター映画として作られなかったかもはっきりする。
 エノケン主演の映画はエノケン一座がユニット出演する契約があったらしい。これは当然で、舞台でも主役のエノケンが不在になれば舞台をやることも出来ない。大人数を抱えていたエノケン一座を遊ばせておくわけにもいかず、「孫悟空」もそれまでのエノケン映画同様一座込みの出演という形に収まったのでしょう。

 ただエノケン一座は若干女優陣が弱かった。宏川光子や北村季佐江といったヒロイン役はいたけど、通常のエノケン映画ならともかく、超大作のメイン女優としては少々弱い。
 そこで高峰秀子や李香蘭といった女性スターの起用が可能になったんだと思う。
 また猪八戒に相当するような太った役者もエノケン一座にはいないため、何度かエノケン映画への客演経験がある岸井明を起用している。
 つまりオールスター映画でこそないものの、超大作に相応しいキャスティングをし、大金を投じたプロバガンダ映画として馴染み深い西遊記を映画化することになった、という。

 こうして「孫悟空」は制作されることになるのですが、東宝としても「圧倒的スケールの超大作」として西遊記を映画化するのだから、ひと目見ただけでもわかる<違い>が欲しかったのは間違いない。
 そこで本格的特撮が導入されることになった。正直本格的、というには足りないところが多すぎるのですが、それでも特殊技術撮影に若き日の円谷英二を起用し、合成やミニチュア撮影をおこなっている。
 もちろんこの時点での円谷英二は特撮の巨匠でもなんでもない、特殊撮影の技術を持つカメラマンにすぎなかった。そして、はっきりいえば技術も未熟でした。
 翌々年(1942年)に円谷英二は「孫悟空」と同じ山本嘉次郎とのコンビで「ハワイ・マレー沖海戦」を作っていますが、たった2年で円谷英二の特撮技術が飛躍的に向上しているのが確認できます。
 しかし逆にいえば「孫悟空」の頃の円谷英二はまだ若く経験不足で、おまけに特殊撮影のためのスタッフも少なく(のちにビープロを設立する、うしおそうじくらいしか部下がいなかった)、すべての面で手探りだったのは否めない。

 エピソードとしては、この映画で孫悟空は筋斗雲(雲)には乗らず、小型飛行機で空を飛ぶ。しかしこれは空軍の力を見せつけるプロバガンダ要素からではなく、雲に孫悟空を乗せて飛んでいるように見せる自信が円谷英二になかったため飛行機に落ち着いた、というのです。
 後に円谷英二は孫悟空が飛行機で空を飛ぶシーンについて「フィルムがガタガタ揺れて、ハラハラした」と語っています。つまり雲どころか飛行機であっても自信がなく、上手くいかなかった自覚があった、と。つまり今の目で見ると「円谷特撮の原点」程度の価値しかないものになってしまっています。
 それでも喜劇映画に特撮を用いたことは大変話題になり、はるか後年にはクレージーキャッツ主演映画「大冒険」という特撮を大々的に導入した喜劇で、再度円谷英二は特撮を担当することになるのですが、それはまた別の話。

 しかし東宝はもうひとつ、とんでもない隠し玉を用意していました。もしこれが実現出来れば「喜劇映画に本格的特撮を導入した」どころの騒ぎではない、まさしく本邦初の試みをやろうとしていたフシがあるのですが、その話はPage2に続く。







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