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複眼単眼・ほのぼの
FirstUPDATE2021.12.29
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 Googleなんかで「マイメロ」と検索すると、サジェストに「メンヘラ」という言葉が出てきます。
 もともとは2ちゃんねる(現・5ちゃんねる)用語で、というかメンタルヘルス板というものがあり、メンタルヘルスを略してメンヘル、そこに頻繁にレスする人のことをerを付けてメンヘラになった、らしい。

 ってこれではメンヘラの説明になってませんが、まァ、精神的に不安定な人、という意味で、メンヘラの特徴として

・リスカ(リストカット)痕が酷い
・強度の依存症
・(とくに女性の場合)浮気癖がある

 などと言われている。ま、幸いかなんかわからないけどアタシの周りには<メンヘラ>はいないので本当のところはよくわからないけども。
 で、ですね、何で「マイメロ メンヘラ」という検索サジェストが出てくるかというと、マイメロ好きはメンヘラが多い、という<噂>があるのです。
 これも本当のところはよくわからない。だけれども世間のイメージとしてはそういう風潮はあるし、あくまで知人から「聞いた話」ですが、マイメログッズで身を固めた女性の腕を見たらリスカ痕が盛大にあった、らしい。

 もちろん一例だけで正否をはかるわけではありませんが、しかし、これはまったく根も葉もない<噂>ではないと思う。
 精神的にきわめて不安定になった時、人は「すがりつくもの」が欲しくなるってのは一応健常のアタシでも理解出来ます。
 しかしその「すがりつくもの」はなるべくリアリティのないものの方がよいってのもわかる。出来るだけ現実とはかけ離れた、それこそ<ふわふわ>とした夢に近いもの。
 そう考えると、それこそサンリオの代表的キャラクターであるキティちゃんはまだ現実に近いし、数あるサンリオキャラクターの中でももっとも<ふわふわ>としていて現実感というか現存感がないのがマイメロだと思うからです。
 キティちゃんのベースが猫であるのは明白で(そもそも「キティ」ってのは英語で言えば子猫)、でもマイメロは赤ずきんちゃんやベースとなったうさぎからどんどんかけ離れ、もはやベースが何なのかもよくわからない。ちなみにアニメ版では『ヌイグルミで、体には綿が詰まっている』って設定らしいので、もはや生物とすら呼べない。

 つまりマイメロは登場から時間が経つ毎に、どんどん<性>から遠ざかった。
 マイメロ以外のサンリオキャラクター、あとディ○ニーキャラクター、ゆるキャラなど、どう考えてもセックスとは結びつかないキャラクターは数あれど、マイメロはその極北だと思う。
 Page1にて寺山修司がサザエさんの性生活という一文を書いた話をしましたが、マイメロにかんしてはそうした深読みというか下衆の勘繰りさえ不可能なのです。
 先ほども書きました通り、アニメ版のマイメロのアニメ版の設定は『ヌイグルミで、体には綿が詰まっている』ってことですが、<ヌイグルミ>や<おもちゃ>という設定は<セックス>を遠ざけるのに非常に有効な設定です。
 例えば、ディズニージュニアで放送されている「ドックはおもちゃドクター」(続編の「ドックのおもちゃびょういん」を含む)は主人公のドックと、あまり出てこないその家族や友人以外はすべて「おもちゃ、もしくはヌイグルミ」という設定であり、身体的にも精神的にも「絶対に成長しない」わけで、もちろん、どこまで行ってもセックスには結びつかない。
 また、先駆とも言える「トイ・ストーリー」にあった「おもちゃならではの悲哀」も内包させられるので、おもちゃの擬人化はかなりいい方法なのです。


 って、それだったら例として、ドックのおもちゃナンチャラよりもトイ・ストーリーの方が相応しいんじゃないかって?
 この辺は説明がいるんだけど、映画(一回こっきりのスペシャルドラマなどの単発物を含む)が「構成、もしくは見世物シーン(アクションやレビュウシーンなど)で物語を引っ張る」ものだとするなら連続ドラマや連続アニメなどの連続物は「キャラクターの魅力で物語を引っ張る」ものなんですよ。
 逆に言えば単発物はキャラクターはそこまで重要ではない。いやまったくではないけど、主人公とヒロインとか、あと敵方の中心キャラクターなど、せいぜい5人くらいのキャラクターが立っていたら十分です。
 一方、連続物はというと「キャラクターが立ってるキャラクター」が多ければ多いほど良い。それは時代関係なく、令和に入ってからでも「鬼滅の刃」が何故あれほどブームになったかといえば「キャラクターが立ってるキャラクター」をいっぱい創造して、物語に溶け込ませることが出来たからです。

 話を戻します。
 正確にいつまで、というのはそこまでちゃんと調査していないのでわからないのですが、少なくとも日本で言えば戦前期までは「おもちゃの擬人化」ではなく「動物の擬人化」が<ほのぼの>の方法でした。
 それこそミッキーマウスもだし、トムとジェリーなど「動物の擬人化だからこそ可能」というような作品がたくさん生まれました。
 ただしこの頃は<ほのぼの>を実現させるため、というよりはキャラクターを動物に置き換えることによって毒を弱めることが出来るって方が強かったと思う。実際、今の目で見るとディズニーの一連の作品もトムとジェリーもかなり毒というかアクが強い。もし実写ならば、いや実写じゃなくてもキャラクターが「人間」ならかなりどぎついイメージになるはずです。
 フライシャー兄弟の「ポパイ」や「ベティーブープ」はまさに「擬人化のない、人間が登場する」作品で、当たり前だけどディズニーなどに比べると<セックス>の匂いが圧倒的に濃厚です。
 前に、マニアの方から「ベティーブープ」のDVDをお借りして一気に見たことがあるのですが、ただたんにベティーがセックスシンボルというだけでなく、いろんな意味で性的なんですよ。

 令和の今、ほぼ同時代に作られたディズニー作品やトムとジェリーは生き残り、ポパイやベティーブープはほぼ消滅している。先ほども書いたように、ディズニー作品にしろトムとジェリーにしろ<ほのぼの>とは程遠いのに<セックス>要素がないだけで作品寿命にこれほどの差が出来た、と見做し得ることが出来るのです。
 そう考えるなら、作品寿命が長いのは「クレヨンしんちゃん」か「ちびまる子ちゃん」か、となると、アタシは「ちびまる子ちゃん」だと思う。
 それは<ほのぼの>かどうかではなく、<セックス>要素の有無で「ちびまる子ちゃん」の方が作品寿命がある、と思うわけで。

 さて、ここまではあまりにも<ほのぼの>と<セックス>要素の相性の悪さに話が振り切っているので、ここからはもうひとつの「<ほのぼの>と<悪夢的ファンタジー>の意外な相性の良さ」について書いていきます。
 アタシの持論として「ほのぼのも極限まで行ってしまうと、限りなく悪夢的ファンタジーに近づいてしまう」と思っているのです。
 ココでも触れていますが、アタシは「江戸ッ子健ちゃん」という映画が大好きなのですが、上記エントリとの重複覚悟でこの映画の説明をしておきたい。
 「江戸ッ子健ちゃん」の原作は横山隆一の「フクちゃん」であり、1936年の連載開始当初のタイトル(正確には「江戸<っ>子健ちゃん」だけど)で1938年に東宝にて実写映画化されました。
 「フクちゃん」はとくに戦時中において軍事色が強くなっていくのですが(ま、風刺的ではありますが)、根本は<ほのぼの>とした作風で、映画版も徹底的に<ほのぼの>を活かした作風になっており、観ていて実にあったかい気持ちになれるのです。

 何度観ても、一種のユートピアのような世界に癒やされる。何しろ主要スタッフや主要キャストはエノケン映画の人たちなので(主役の健ちゃん役からしてエノケンの実子の榎本銕一だし)、ギャグもいろいろ入っているんだけど、ギャグが<ほのぼの>を邪魔していない。どころかギャグがあるから余計に<ほのぼの>が引き立つ、というふうになってるのがすごいのです。
 とくに中村メイコ演じるフクちゃんの子供らしい愛らしさと健ちゃんの関係が素晴らしい。オチを含めて本当にあったかい気持ちになれるんです。
 で、観終わったら、必ず、こう思う。

 ああ、この世界の、この街の、住人になってみたい

 と。
 これは映画を観て通常持つ感想とはまったく違う。面白いとか面白くないでは測れないもので、だから「また観たいな」ではなく「また健ちゃんやフクちゃんに会いたいな」って感じになるんですよ。

 まァ、それほどの、突き詰めたレベルの<ほのぼの>が充満している作品なのですが、もう一度言いますがこの作品が作られたのは1938年です。舞台設定ははっきりしてないけど、間違いなく東京の下町のどこかでしょう。
 つまり、これから7年後に起こる、例の下町大空襲で焼跡になったのは確実なんです。
 さらにフィクションと史実をゴッチャにするみたいだけど、健ちゃんを演じた榎本銕一は1957年に26歳の若さで早逝している。
 そういうことを考えると、つまり登場人物たちの未来に想いを馳せると、あのユートピア的世界は一転して<悪夢的>なものに変わってしまうのです。
 ユートピアというのは永遠に続くと予感させるからこそユートピアなのであって、悲劇的な終わりが確定しているユートピアはもうユートピアではない。

 でも、逆に言えば、そんな<ほのぼの>があるからこそ、未来から見たら<悪夢的ファンタジー>になる。
 この表裏一体感も、実は<ほのぼの>の魅力なのかもしれない。
 アタシが「江戸ッ子健ちゃん」を愛して止まないのは、実は表裏一体感があるからではないか、とも思う。もし、ただ<ほのぼの>なだけだったら、これほどまでに深く心に染み渡ってなかったんじゃないか、と。

 そう考えるなら「サザエさん」があれほど長く人気を集められるのは、やはり表裏一体感があればこそだと思う。
 あの、サザエさん時空とも言われる、つまり「登場人物が一切トシを取らない」ループ時空は、怖さというか<悪夢的ファンタジー>とも言えるわけで、時代設定が固定されている「ちびまる子ちゃん」よりもさらに悪夢感が強い。
 つまり、意識的かどうかはともかく「サザエさん」の永続的な人気は「なるべくしてなった」とも言える。これは同じく永続的な人気を誇るミッキーマウスなどにも言えることですが、<ほのぼの>と<悪夢的ファンタジー>、そして<セックス>要素の皆無さのすべてが揃わないとこうはならない。
 もちろんすべての要素を兼ね備えながら長寿命化として成功しなかった作品はあるし、それこそ「江戸ッ子健ちゃん」もそうだけど、映画の「江戸ッ子健ちゃん」のように単発ではなく連続物である限り、これらの要素なくして「作品としての成功」はともかく、長寿命化など不可能だと思うわけで。

 こうして見ていけば、アタシが実体験ベースの<ほのぼの>を書こうとして失敗した理由は明白です。
 実体験である以上、んでアタシが今もピンピンしている以上、悪夢感なんか生まれるわけがない。いや、悲劇的結末を迎えるとわかっていることを<ほのぼの>タッチで書けたら良かったんだろうけど、そこまで開き直れなかった。だからいろんな意味で中途半端になったんだろうね。
 「辛い感情がある実体験を、あえてほのぼのとしてやる」ってのは本当に難易度が高い。それは資質というよりは、最終的には「開き直れるかどうかがすべて」だから。

 動物や子供を出しときゃ<ほのぼの>になると思ったら大間違いだよ。いやいっときは上手くいくかもしれないけど、浅いものにしかならない。
 結局は<業>ですよ。そこが一番難しいんだけどね。

こう見えて、いやアタシがどう見えてるかはわからないんだけど、サンリオは結構知ってるんですよ。
1990年代に一回ちゃんと調べようと思って「いちごのお家」にも行ったし、もちろんピューロランドも行ったことがある。2021年には六本木ヒルズでやった「サンリオ展 ニッポンのカワイイ文化60年史」にまで馳せ参じたくらいです。
まァ、何というか、ひとつの文化として見るとサンリオは非常に面白い。面白いんだけど、別にマニアではないので、それこそ「複眼単眼・サンリオ」みたいなのは書けないです。でもどっかでサンリオについて書きたいな、と思っていてはいたわけで。
今回、「ほのぼの」というテーマでやろうと思って、いろいろ書いてみたんだけど、どうも上手く書けない。つか<軸>がなかった。そこで、ふと思い付いてね、マイメロを軸にしようと。それで書けたんです。
あんさんマイメロまで抑えてはるとか、なんぼなんでも守備範囲広すぎひんか?と思われるかもしれませんが、ま、そういう人間なんだよ、としか言いようがないわけで。




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