ここまでならエノケンの丸の内進出は成功っぽいのですが、有識者の、というか、浅草時代のエノケンを知る人たちの総意は「エノケンの丸の内進出は失敗」であり、その主な理由として「ギャグの枯渇」と「菊谷栄の戦死」が挙げられていました。
たしかに、こと舞台に限るなら東宝のトップはロッパ一座で、エノケン一座(ピエルブリヤントから改称)は二番手扱いだったわけで。(東宝設立10周年(1943年)に出版された「東宝十年史」でもロッパ一座→エノケン一座の順列になっている)
アタシの年齢で当時のエノケン一座を見れるわけがないので推測でしかありませんが、小林信彦著「日本の喜劇人」の言葉に倣うなら『丸の内でのエノケンの興行は、まことに冴えないことになる』という評価は妥当である気がします。
ただし「日本の喜劇人」の中にあるエノケンの言葉「菊谷栄の戦死が痛かった」って理由は少々怪しいと思っている。
もし仮にギャグが枯渇しなかろうが、菊谷栄が生きてようが、どのみちエノケンの丸の内進出は失敗したのではないか、と。
と思うのも、エノケンのスタイルが如何にも丸の内に合わないと思うんですよ。
その前にエノケンの終生のライバルであった古川緑波(以下、ロッパ)のことを書いていきます。
実はロッパもエノケン同様、浅草を根拠地としていた頃があった。しかし下積みがなく、あっという間に座長格になり、東宝傘下で丸の内を根拠地とした自身の劇団を持つことになったロッパはエノケンほどは浅草に染まっていませんでした。
裕福な家で育ったロッパには最初からハングリー精神のようなものがまるでなく、丸の内の興行システムにもすんなり慣れた。
丸の内での興行は多くて1日2公演で、客が入るとなると3公演も4公演もやる浅草とはまるで違う。つまりは、そういった意味ではユルいのですが、にもかかわらずロッパは日記に「マチネ(昼公演)は嫌だ」と何度も書いているくらいで。
ロッパは頭脳明晰だったと思う反面、重篤な病気を抱えながら禁煙出来ないとか、金銭が困窮しているにもかかわらず食道楽を止めないなど、相当な自堕落者であるのも間違いなく、いわゆる「自分に甘く他人に厳しい」典型だったとも思う。だから慕われなかった。
ロッパ一座は吉本新喜劇と同じく<煮詰めない>芝居をやっていましたがロッパ本人はさらに酷く、初日の時点ではほとんどセリフが入っていない、なんてこともザラだった。これも日記に書き残しているので間違いない。
しかし改善する気はさらさらなく、戦後になって人気が凋落していたにもかかわらず同じこと(セリフが入ってない状態で舞台に立つ)をやって、当時まだ新進気鋭だった越路吹雪に呆れられています。しかも日記に「自分は反省魔」と記すなど、まるで自覚なしなのが余計タチが悪い。
少なくとも戦前の時点でロッパがエノケンを凌ぐほど人気だったのは「企画の新しさ」「座組の上手さ」「プログラム構成の妙」であり、肝心の「ロッパの<芸>」は勘定に入っていない。
いわばロッパはプロデューサーとしての能力一本でのし上がったと言えるわけで。
というかロッパの公演は今のテレビ番組に近い。芸そのものを見せる(魅せる、でもいいけど)というよりは人目を惹く企画をやり、大衆が求める人を出演させる。その嗅覚が抜群だったからこそ芸歴が極端に浅かったロッパが、浅草オペラ以来修練を積んできたエノケンを追い抜くことが出来たわけです。
しかもこうした「新しさ」を全面に押し出したことで、興行を行う場所は関係なくなる。浅草から丸の内に移ってもあっさり受け入れられたのは<芸>云々よりも<今>を押し出したからです。
ロッパは戦後になると一気にプロデュース能力が錆びついてしまった。もともと錆びついて困るような芸を持ち合わせてなかったので、プロデュース能力が凋落して奈落まで突き落とされた、というか。
それでもロッパとエノケンなら、どう考えても現今のテレビタレントに近いのはロッパであり、逆に言うならエノケンの方が圧倒的に古風な道化師ということになります。
プログラムを見比べると嫌でもわかるのですが、エノケンの狂言ってね、歌舞伎や落語といった旧来の芸能をベースにしたものが多く、パッと見の目新しさはまったくないんです。
その点ロッパは狂言のタイトルを見るだけで「新しいものを貪欲に取り入れている」というのがわかる。だから時局便乗モノの芝居も積極的にやっているし、中国人捕虜で結成された合同公演さえ受け入れている。
一方エノケンは時局便乗モノが極端に少ない。こんなに少なくてよく当局に睨まれなかったな、と思えるほど少ない。
ここにも「良く言えば新しいモノを積極的に取り入れる、悪く言えば節操がない」ロッパと「良くも悪くも、どんな時代になろうが何も変える気がない」エノケン、というコントラストがはっきり見て取れます。
それでもエノケンがまったく時代を気にしていなかったのかと言うと、そんなことはないと思う。
古風な道化師であり、努力家であり、ガッツの塊だったエノケンは己の存在だけで現代との接点を持ち続けていた。ま、極端に言えば「時代に合わせるのは自分ひとりで十分、その代わり劇団として、演目としては変える必要がない」と考えていた、かはわからないけど、プログラムを見る限りはそう受け取れるわけで。
しかしこの「パッと見は浅草時代と何ら変わらない」ものでは「パッと見からして新しい」ロッパに比べると古臭く見えて当然なんじゃないかと。
先ほど「菊谷栄が生きてようがエノケンの丸の内進出は成功しなかったのではないか」と書きましたが、いくら菊谷栄が優秀な人で<中身>が新しくて面白いモノをこしらえたとしても、<パッと見>を新しくする気がないエノケンという根幹がある以上、少なくとも「浅草よりもさらにトレンドな街だった丸の内」においては、興行成績、評判ともにロッパに太刀打ち出来なかったのではないかと思うわけでして。
というか丸の内という場所においてはどう考えてもロッパのやり方の方が向いてるんですよ。
しつこいですが、浅草と丸の内では興行システムがまったく違います。浅草は今で言うなら小劇場のような収容人数があまり多くない劇場で1日3公演やる。んでこれも書いたように、客が入るとなると一部を省略させて1日に4公演5公演やったりする。
ま、粗製乱造になりやすいという欠点はありますが、客からすれば入場料が安いというメリットもあるし、もともとが<煮詰めない>芝居なので、多少端折ったところで極端にクオリティが落ちるわけでもない。
重要なのは、エノケンは浅草オペラ以来約15年にわたって「このやり方」でやってきたのです。
丸の内は劇場の<構え>からして一流で、当然入場料も高い。公演も多くてマチネとソワレの2公演です。
そうなると「高い入場料に見合う出演者を揃えることが出来る」、「丸の内に多いホワイトカラーを惹きつけることが出来る企画力がある」プロデュース能力に加えて、芸自体は脆弱、そして自堕落者である=無駄に働こうとはしない、と言ったロッパの本質のすべてが丸の内にマッチしていた、と言える。
エノケンはと言うと「パッと見の目新しさに無頓着」「3公演4公演やっても平気なガッツがある」といった浅草時代には強みだったことが全部マイナスに転化してしまった。
ならば<煮詰めない>芝居から脱却して、悪く言えば目新しさのない、良く言えば重厚な演目を活かした旧来の<煮詰めた>芝居にすれば良かったのかもしれないけど、変わるにはエノケン自身があまりにも浅草のやり方に染まりすぎていた。ずっと<煮詰めない>芝居をやってきて、そんなに急に変われるわけがありませんから。
実際「丸の内でのエノケン」は1941年に東宝国民劇団との合同公演「エノケン龍宮へ行く」他を除いてほとんどがピエルブリヤント時代の焼き直しで、新作至上主義だった浅草時代とはその辺も後退してしまった感があります。
エノケンは有楽座や日劇といった劇場と1日2公演で丸の内に相応しい入場料というシステムに翻弄されていた。つまり丸の内であることを何も活かせなかったと言っていい。(念のため書いておけば有楽座はけして大劇場ではない)
自慢のピエルブリヤント管弦楽団も東宝管弦楽団と合併させられ、手持ちでコンボ規模のジャズバンドを作ったものの上手く活かせなかった。
劇場サイズを活かした大スケールのミュージカル(「龍宮へ行く」)を演ってみたりはしたものの、これも戦争によって骨抜きにされている。(「龍宮へ行く」の翌々年にほぼ同キャストによって「桃太郎」を行っているが、時局柄ジャズが使えず大幅に制限されたものになっている)
ま、こうして見ていくと、どうも「ギャグの枯渇」や「菊谷栄の戦死」と「エノケン丸の内進出失敗」は関係ないんじゃないかと思えてしかたがないんですよ。むしろ他に上手くいかない要素が多すぎるというか。
というか何でエノケンはそこまで丸の内進出にこだわったんだろ。たぶんロッパの成功へのライバル心からなんだろうけど、エノケンには映画って武器があったんだから、そこは張り合わなくてもよかったんじゃね?
んなことは全部結果論なのですがね。
ここから若干追記していきます。
エノケンもロッパも戦後になって人気が凋落しますが、そもそも「人気コメディアンが自分中心の恒久的な劇団を持つ」ということ自体が時代に合わなくなっていきました。
「日本の喜劇人」では森繁久彌の森繁劇団が公演の度に都度メンバーを集めて劇団としての運営をしない、これからはこういう形しかない、というようなことが書かれています。
では吉本新喜劇や松竹新喜劇はどうなんだ、となりますが、あれはスター喜劇役者中心の劇団ではないんですよ。
吉本新喜劇は言うに及ばずですが、Page1の最初の方にも書いたように曾我廼家五郎一座は松竹家庭劇と合併して「曾我廼家十吾一座」とも「渋谷天外一座」ともせずに、会社名を冠にした松竹新喜劇とした。
これは劇団内から藤山寛美というスターが出てきても変わることはなかったわけです。というか松竹新喜劇が「藤山寛美を輝かせるために出来た劇団」ではないのだから、名前がどうであろうがエノケン一座やロッパ一座とは根本的に異なります。
さらに特殊なケースが吉本新喜劇、なのは、ここまで読んでいただいた方にはご理解出来ていると思います。
現今、目立った<煮詰めない>芝居を恒久的にやる劇団は吉本新喜劇以外はほとんどなく、ということは吉本新喜劇で育った役者は吉本新喜劇に特化した役者になってしまう。花紀京、岡八郎、木村進、間寛平、池乃めだか、辻本茂雄、小籔千豊など新喜劇出身のスターが生まれようと、頭から爪先まで<煮詰めない>芝居の体現者である彼らが、では他の劇団でも輝けるかというとかなり難しい。となると仮に彼らが「自分中心の劇団」を立ち上げたとしても吉本新喜劇の亜流になるしかないんです。
ただでさえ劇団の維持が難しいこの時代に、吉本新喜劇の亜流劇団を立ち上げるなど自殺行為でしかないわけで、ならば素直に吉本新喜劇に所属していけばいいし、劇場公演以外の箇所でオリジナリティというかパーソナリティを発揮すればいいってことになる。
本来なら「西の吉本新喜劇」と対になるべきだった軽演劇が壊滅状態になったのも痛かったと思う。
そのあたりのことはここらへんに書いたので割愛するけど、東西の、煮詰めない劇団が上手く交流出来ていたら、もっともっと、いろいろ広がって面白くなった気がするんですがね。
どうも関西人には正面切って「吉本新喜劇のことを語るのは恥ずかしい」という心理があるようです。 実はアタシも、最大級の評価はしながらも「論じてどうこうという類いのものではない」という感覚があるのですが、では何故、ああいうスタイルの芝居が生まれたのか、知ってる人はほとんどいない。間違っても「松竹新喜劇の吉本版」ではないし、では何の派生なのか、それとも完全オリジナルなのか、というと誰も(じゃないけど専門家以外は)答えられない。 しかしこの世に「完全にゼロから作り上げたもの」なんてほとんどない。ましてや芸能なんか、何かから派生して、発展していったものと考えて間違いありません。 とまあ、そういうことが書きたかったのですが、結局吉本新喜劇の話よりもエノケン一座とロッパ一座の話が長くなるのよね。もう、勘弁してくれ、としか言いようがない。 |
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