どうも関西ローカルだったようですが(TVerで全国で見れたけど)、2019年3月6日に「祝60周年!大阪人も知らんかったよしもと新喜劇」(MBS)なんて番組が放送されました。
いやもう、読んでいただいている皆様が言いたいことは百も承知していますが、とにかく読んでくださいまし。
たしかにね、アタシはしつこく「笑いへの興味を失った」みたいなことを書いてきましたし、ましてや大阪の笑いっつーか郷土愛の象徴のような吉本新喜劇への興味は相当薄くなってしまっています。
だからまァ、何だってそんな番組を見たんだと。いや見るのはともかく、こんなエントリを書こうとするなんてどういう風の吹きまわしだ、と思われてもしかたがありません。
その理由を書く前に番組そのものの感想を書いておきます。
これが意外にも面白かった。とくに吉田沙保里が出た再現ドラマのギャグのいくつかはかなり笑ってしまいました。島田一の介の500円玉貯金のくだりなんか爆笑してしまったし。テレビを見てホンイキで笑ったなんて久々ですよ。
たぶんこの番組を見られた方が一番驚かれたポイントは「こんな稽古時間が短いとは!」ではなかったでしょうか。
もちろん吉本新喜劇の稽古時間の短さは一部には知れ渡っていましたし、アタシも知っていた。つか今まで、つまりこの番組を見るまでは「こういう漫才芝居はあまり稽古しない方がいいからなんだろ」と安易に考えていたわけで。
しかし吉本新喜劇のことなど考えなくなって早幾年月、いろいろ知識が変わった(≠知識が増えた)今現在のアタシが見ると、まるで違った感想を持ってしまったのです。
ああ、これは<アレ>の保存形だ、と。
進化形でも、まったく別の<何か>でもない。つか<コレ>こそ<アレ>そのものじゃないかと。
さっきから<アレ>とか<コレ>とか自己合点なことばかり書いてますが、順序建てて説明していきます。
吉本新喜劇はもちろん大阪発の演劇です。しかしね、実はこと演劇に限っては大阪と東京を分けて考えるのはあまり良ろしくないんですよ。
演劇ってのは昔から演芸よりもはるかに東西交流が盛んで、相互に影響を受けながら発展してきたんです。だから大阪演劇のルーツを辿ると東京の影響が濃厚とか、その反対とか、結構凡例があるんです。
古い話をします。
かつて曾我廼家喜劇というものがありました。今も曾我廼家の名跡は受け継がれていますが、せいぜい「松竹新喜劇に多い」くらいの認識の人が大半でしょう。
ひと口に曾我廼家喜劇と言っても、分裂と統合を繰り返したため、実に全貌が掴み辛い。しかし一般に曾我廼家喜劇と言えば松竹新喜劇の元になった、曾我廼家五郎が旗揚げした曾我廼家五郎一座を指します。
今でも曾我廼家五郎と言えば上方喜劇の祖と言われる存在なのですが、実は戦前モダニズムの旗手と言われた榎本健一や古川ロッパに多大な影響を与え、ほとんど師弟関係のようだった、とさえ言われるほどなのです。
五郎劇の大元はおそらく大坂仁輪加なのでしょうが、まず仁輪加の説明が必要かもしれません。でもそれをやり出すととてつもなく長いエントリになるので割愛。ま、いわゆる辻芝居、つまり路上などで行われた即興劇です。とくに大坂仁輪加がウケたのは現今のコントのようにオチをつけていたかららしい。
「ちゃんとするというよりは、その場のノリでオモロイことをやる」といったスタイルは上方演芸の方に見事に受け継がれています。
しかし、大坂仁輪加に影響を受けた曾我廼家五郎、その五郎劇に影響を受けたエノケンやロッパは、というと、これまた「その場のノリ」を大事にしていたことは残された資料を見ても明白です。
どうしても「大阪=その場のノリ」、「東京=キチンと作り込んでいる」と思いがちですが、少なくとも喜劇にかんしては、ぜんぜんそんなことはない。
実際、エノケンもロッパも稽古時間は本当に短い。エノケンはダンスや歌など音楽面はちゃんとやっていたようですが、芝居の稽古時間は短いっつーか、次の出し物が決まるや否やすぐに舞台にかけていた。つまりほぼ週替りのペースで新作を出し続けていたのですから稽古時間なんか取れるわけがないんです。
何が言いたいのかというと、吉本新喜劇はまさにエノケン一座やロッパ一座と同じシステムなのです。
練り上げてどうこうという類いの芝居ではなく、次々に新作をやってフレッシュさを保ち、稽古不足は経験と「その場のノリ」で補う。
だからね、「練り込みが足りない」とか「しっかり稽古してより<完成>に近づけないのは怠慢」とか、てんで的外れな批判なんです。
ものすごい昔から、ああいうスタイルの演劇が存在する。しかも大阪に限らず東京でも同様のスタイルの劇団は存在した、というね。
もし仮に吉本新喜劇が台本を練り上げて、たっぷり稽古して、つまり<煮詰める>ってのをやり始めたら、もうぜんぜん別モノになると思う。まったく別種の演劇の下手な模倣になって面白くなくなるはずです。
コント55号とドリフターズがまったく違うやり方だったからこそお互いを認めあえたように、吉本新喜劇はコレだから数多の演劇人からも支持されているんだろうな、と。
ただね、こういう芝居って入場料が高いとダメだとも思うんですよ。つか吉本新喜劇は高すぎる。いくら漫才とセットだからって5000円弱ってのは如何にも高い。吉本新喜劇単独でいいから3000円以内にすべきですよ。
とか考えてたら、もしかしたらコイツが原因じゃなかったか、と思い当たったと。
またしても<コイツ>なんてよくわからない符号を書いてしまいましたが、話は「吉本新喜劇の元のひとつ」であるエノケン一座についてです。
ごく簡単に経緯を、と思ったけど、それじゃ伝わらないと思うんで、そこそこ丁寧に説明しておきます。
昭和のはじめ、浅草で人気が沸騰した榎本健一ことエノケンは、二村定一と二人座長という形で「ピエルブリヤント」という一座を立ち上げた。
経営にはエノケンの叔父があたっており、つまりは独立経営の劇団だったんです。
ピエルブリヤントはすぐさま人気劇団になるのですが、エノケン人気に目をつけた松竹は一座込みでの専属契約を持ちかけた。松竹と言えば大資本ですから大劇場を所有しているし、当然劇団経営も安定する。
というわけでエノケンはこの話に乗り、建前上は松竹専属という形になります。
松竹は映画会社も所有していたわけで、音楽喜劇映画を撮ることを夢見ていたエノケンは松竹に主演映画の話を持ちかけますが、松竹は蒲田調サイレント喜劇以外をラインナップに加える気がなく、この話を蹴っている。
そんなタイミングでエノケンに「音楽喜劇映画をやらないか」と持ちかけたのが新興映画会社だったP.C.L.で、松竹は難色を示したものの映画制作を蹴った手前強く出られず、劇場公演に差し障りがない範囲であれば、と注釈をつけた上で許可せざるを得なくなった。
てなわけでエノケン主演の映画は専属であるはずの松竹ではなくP.C.L.で作られることになったわけです。
ところが好事魔多し、というか、P.C.L.で撮られた主演第一作「エノケン主演 青春酔虎伝」の撮影中、シャンデリアに飛び移ろうとしたエノケンは手を滑らせてしまいそのまま落下、地面に激突してしまいます。
まだ撮影中の安全対策などなかった頃の話ですが、この様子はそのままフィルムに収められました。実際は地面に打ちつけられて、フラフラと立ち上がり、再び倒れるところまでキャメラを回し続けたらしいけど、本編ではさすがにそこまでは使われず、手を滑らせて落下した瞬間までしか使われていません。
先ほど松竹が他社で映画撮影を許可する条件として「劇場公演に差し障りがない範囲であれば」というのがあったと書きましたが、この怪我は思ったよりも重く、しかし松竹と約束した手前、エノケンはかなり無理して劇場公演を務め上げたらしい。
このようにエノケンの無理(というか頑張り)があったことで、この体制をしばらく維持することになった。
エノケンさえ元気なら、という注釈付きではあるものの、ここまでならそんなに問題はないのですが、P.C.L.が東宝との関係を強めたことで事態がややこしくなった。
東宝と言えば完全に松竹とライバル関係にあり、つまりエノケンは「舞台は松竹系、映画は東宝系」という歪な形になっていたのです。
舞台でもエノケンは浅草だけでなく丸の内(有楽町周辺)への進出をはかっていましたが、松竹は丸の内近辺に大劇場を持っていなかった。
エノケンの要請という形で、松竹はひと月だけ東宝所有の有楽座(も実は規模が小さいけど)を借り受けたりしましたが、さすがにエノケンにそこまで便宜をはかるメリットがなくなってきた。
大人数を抱えるピエルブリヤントはたいして利益をうまないし、何よりエノケン人気が頭打ちになっていたからです。
一方、東宝はP.C.L.やゼーオースタヂオ等を合併させ東宝映画を設立するなど勢力拡大の真っ最中であり、渡りに船とばかりに松竹で宙ぶらりんの形になっていたエノケンを迎え入れた。もちろん一座込みで。
こうしてエノケンは晴れて、舞台も映画も東宝専属になった。エノケンとしても念願の丸の内に進出出来るし、この月は映画撮影、この月は舞台、この月は地方公演と完全に分けられるようになり、スケジュールもゆとりが出来る。もちろん先述のような撮影中の怪我があった場合も、同じ会社内でのことなので考慮も配慮もしてくれる、と八方丸く収まった感があります。
しかしコトはそう簡単ではない。ということで、ここらでPage2へ。