あきれた。誠意は(以下略
FirstUPDATE2018.1.11
@Scribble #Scribble2018 #テレビドラマ #違和感 #フィクション 単ページ 宮藤官九郎 福留孝介 監獄のお姫さま 種明かし どんでん返し 見る目が肥える

昨年(現注・2017年)末の「2017年テレビ総まくり」を書いた時点では未完結だった「監獄のお姫さま」について書こうと思うのですが、エントリタイトルのあきれた云々はドラマの出来についてではありません。

大半はネットニュースの類いですが、一見考察めいた、その実考察でも何でもない主観バリバリの御託を並べた駄文が溢れかえる世の中です。昨年も「べっぴんさん」にかんしての、この手のネットニュースが如何にデタラメかずいぶん書いてきました。
そうしたネットニュースやTwitterの感想についていろいろ意見を書くのは馬鹿らしいと思いつつも、もう書かないとやってられない。それくらい酷いから。

「監獄のお姫さま」についても同様で、いったいどんなふうに見たらそんな感想になるのか、みたいなのが多すぎて。これはもう意見の相違といった生易しい話ではない。つか「そんなふうにしかフィクションを見れないのであれば、面白いフィクションなんか存在しなくなるだろ。それって結局損するのは自分じゃないのか」と。

いやね、アタシは「モゾモゾした立ち上がり」を否定してないんです。たしかに視聴率は取れないかもしれないけど、これはこれで持ち味だと思うんですよ。(中略)「ごめんね青春!」は全体としては悪くないドラマです。役者もハマってるし、演出もいい(2015年1月13日更新「クドカンの弱点」


「序盤の評判は芳しくないし、視聴率も取れない」といったクドカンドラマのいつもの傾向は、まんま「監獄のお姫さま」にも当てはまります。
たしかに「監獄のお姫さま」は初回に終盤に持ってくるような展開を用意し、以降9話までは回想のような感じでドラマを展開させていった。
「いきなり」事件が起こるので、初回を見た時点では何がなんだかわからないし、時系列で並んでいない、という時点で脱落した人がいっぱいいたと思うんですよ。

これはもう、理解できる。時系列通りに進まないフィクションが苦手な人はいるし、ある意味これは一種のサービスです。こーゆー話だから、苦手な人は見なくても大丈夫ですよ、という。
「こないだの、クドカンのドラマあったじゃん。あれ一番最初だけ見たけど、何だかわからなかったわ。もうクドカンもダメだね」
短略的といえば短略的だけど、ああ、まァ、合わなかったんだろうなってのはわかるし、そういう人は否定しない。

わからないのはここからです。
第9話が放送された時点で、これまでの経緯を一気に見せた。たしかにあれはスッキリした展開だったと思うけど、「そういうことだったのか!」とか「さすがクドカンは天才だ!」みたいなね、意見がいっぱいあって。
え?いやいや、ちゃんとドラマを見ていれば、とくに「一気に種明かしされた」って感じではなく、これまでの経緯をわかりやすく「おさらい」しておきますよ、という感じでしかなかったと思うんだけど。

さらに最終回が放送されると今度は「たいしたオチじゃない」とか「もっと大どんでん返しがあるのかと期待したのに」みたいなのが溢れてて。
何つーか、「監獄のお姫さま」をひと言でいえば、すべてのことが予定調和で進む、予定調和の面白さに溢れたドラマだったと思う。つかこれは第9話が放送される前の時点でわかったし、いやもっと言えば初回に種明かししてる時点で理解出来るはずなんですよ。

次回への「引き」といった理由以上の急激な展開のない、アタシ的に言えば「王道の展開」です。王道の展開なんだから大どんでん返しなんかあるわけがない。最初から本格ミステリなんか標榜してないだろうし、ああいうケリの付け方は当然なのです。
だからアタシは一度も「次、いったいどうなるんだ!」みたいな期待をしたことがなかった。だって初回でかなりの部分種明かししてくれてるじゃん、と。

こういうドラマの楽しみは「如何にパズルを組み上げていくか」なんです。初回でほぼ完成した「絵」を見せてくれた。んで手元にはバラバラのピースがある。これをどうやって「絵」として完成させるか。
これは「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」なんかと同じく倒叙ものに近い。しかし完全に倒叙ものにはなっておらず、一応犯人は伏せられているし、あくまで初回で見せたのは「ほぼ」完成された絵でした。
時系列もバラバラというほどでもなく、まァ随所に回想が挟み込まれるだけだからね。
こう考えると、とてもじゃないけど「難しいフィクション」とは言えないんです。

アタシがわからないと思うのが、わざわざ初回で脱落出来るよう親切に「こういうドラマですよ」と教えてくれているわけですよ。そして初回を乗り越えて2回目を見ようと思った人は、そういうことを了承していると捉えてドラマを作ったはずなんです。
ところが9話になって「そういうことだったのか!」とか「さすがクドカンは天才だ!」みたいな意見が出てくるのは、クドカンをはじめ製作者側は想定外だったんじゃないか。もちろん大どんでん返しを期待した意見はショックだったと思う。その程度しかフィクションを見れないのか、と。

これだからアタシは「最近の視聴者は目が肥えている」なんて言えない。むしろ退化してるんじゃないかとさえ思う。何でもかんでも親切なことに慣れすぎて、少しでもわかりづらいことがあると思考が止まってしまうんじゃないかと。
「監獄のお姫さま」は特別傑作というわけではない。良く出来てたと思うし、まァ佳作だったとは思うけど「あまちゃん」のようにドラマ史に残るような傑作では、断じてありません。

でもそれは、ドラマの構想が決まった時点でクドカン他にはわかっていたと思う。女子刑務所を舞台にしながらも、内容は「おばちゃんのお喋りで物語を繋いでいく」といった体だったし、王道は王道でもオフビートな王道だから、最初から大傑作にはなり得ない、というか。
そーゆーね、ごく普通の感想がぜんぜんないのが問題なんですよ。つかアタシが見た限り「王道のストーリー展開」と評したものはひとつとしてなかった。

これじゃあ作り手は浮かばれないよ。あいも変わらず小ネタを見つけて喜ぶのが関の山の視聴者ばっかりじゃ、アタシならもうテレビドラマなんか作っても、と思ってしまうような気さえするのですがねぇ。







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