無責任男を演じることが本意であったかどうかはともかく、基本冷静で自分の出演作にたいしても鋭い判断ができる人であった植木等が「ニッポン無責任野郎」を東宝クレージー映画の中のベスト、と考えていたのは、作品の出来自体もあるだろうけど、やはり主人公にたいして一番思い入れが持てるというか同化しやすい、と考えていたからなんじゃないかと思うんです。
有名な話ですが、植木等は納得しないとテコでも動かない人です。渡辺晋やハナ肇に説き伏せられて無理矢理動いても、無理矢理感が如実に出てしまう人でもあった。そして無理矢理動いた時の植木等はまったく面白くない。
逆に一旦納得さえすれば、歴戦のコメディアンが束になってかかっても敵わないような、猛烈なオーラとエネルギーを放出させる。
だから当時のスタッフは植木等を納得させるべく動いたし、渡辺晋は植木等のやる気を削がないように心を砕いた。
スタッフでいえば、結局植木等が心から信用していたのは青島幸男、萩原哲晶、宮川泰、古澤憲吾だけだったと思う。あとは秋元近史、砂田実、鴨下信一くらいか。もちろん谷啓には絶大の信頼を置いていたのは言うまでもありません。
青島幸男の思想や古澤憲吾の突撃演出には馴染めなかったと言いますが、最後は良いものを作ってくれる、自分の良さを引き出してくれる、という信頼感があったのでしょう。それは出来上がった作品群を見るだけでわかる。彼らが手がけた作品においては「植木等が納得して動いている」というのがありありとわかるからです。
香典泥棒の件で植木等が抵抗したのも、この時点(「ニッポン無責任時代」の前)ではまだ古澤憲吾への信頼がなかったからのはずで(何しろ一緒に仕事をする前なのだから当たり前です)、もし信頼を得た後に同じような展開が用意されていたとしたら、植木等の性格からすれば素直にやったんじゃないかという気がする。
古澤憲吾が植木等から信用を得たのは間違いなく「ニッポン無責任野郎」からです。
デタラメなその場しのぎの行動しか取れないにもかかわらず、どこか達観しているという自身と重なり合うキャラクターを創造した上に、出来上がった作品自体も面白い、となったら、信用を得て当然のような気がする。
以降、古澤憲吾作品での植木等は全作品「納得」が垣間見えるようになった。シナリオの出来に不満があったとしても、古澤憲吾作品というだけで独特のオーラとエネルギーを放射しているわけだから。
もちろん、植木等が納得したから=作品が面白くなった、というわけでありません。それも重要な要素なのには違いないのですが、「ニッポン無責任時代」に比べると、とにかく違和感を取り除こうとした痕跡がいくつもあるのです。
たとえば「ニッポン無責任野郎」は主役以外の配役にも相当気を配っているのがよくわかる。というのも前作「ニッポン無責任時代」にはあからさまないくつかのキャスティングミスがあるからです。
個人的に違和感のあるキャスティングについて挙げるなら
・事実上の敵役に田崎潤を配置している
・ヒロインが重山規子
・ハナ肇と谷啓の役職
この3つは重要だと考えます。
まず田崎潤についてですが、「ニッポン無責任時代」以降の東宝クレージー映画で、田崎潤のような押し出しの強いタイプの役者が上司や敵役に割り振られることは皆無です。
田崎潤の経歴を書いてもまァしょうがないのだけど、軍人の役やサラリーマン映画でも重役以上の役が多く、共通していえるのが「仕事が出来そう」「有能そう」「頭が切れそう」な役どころばかりです。
しかし以降の作品では、たとえば有島一郎、たとえば人見明、たとえば曾我廼家明蝶、たとえば藤岡琢也、といった具合に、格はあるが軽演劇、もしくは芸人出身の「どこか抜けている」役者が登用されています。(ま、厳密には田崎潤も軽演劇出身なのですが)
これはバランスの問題です。
敵役が有能だと、主人公側はどうしてもハードなキャラクターにならざるを得ない。しかしそれでは「気持ち良さそうに世の中を渡っている」無責任男の設定と相反する。また「若い季節」のような軽いノリで作品を作るなら、田崎潤では重厚すぎて浮いてしまうのです。
もし田崎潤が植木等扮する主人公にしてやられそうになったら、田崎潤のキャラクターからして本気で主人公側を潰しにかかるはずで(事実「ニッポン無責任時代」ではそうなっている)、それでは物語自体もハードになってしまい、軽いノリにはならない。
その点、有島一郎や藤岡琢也なら主人公にしてやられても、悪くいえば「されるがまま」、良くいえば「この人物にかんしては諦めているが、いつまでもしぶとくしがみついてそう」なイメージを持てる。
どう考えても東宝クレージー映画にかんしては、後者の方が相応しいわけで。
もうひとつの重要なキャスト変更は「お姐ちゃんトリオ」の扱いです。
「ニッポン無責任時代」は植木等主演でありながら「お姐ちゃん」シリーズの番外編のような作りになっている。つまり保険(もちろん興行的な、という意)としてお姐ちゃんトリオを重要な役で登場させているのです。
しかし何故ヒロインが、お姐ちゃんトリオの中から重山規子が選ばれたのか、これは結構謎です。
「お姐ちゃん」シリーズを何本かご覧になった方ならおわかりでしょうが、重山規子の役どころはトリオの中で一番影が薄いんです。
団令子扮する金銭感覚は異様にガッチリしているが意外とウブなパンチ、中島そのみ扮する頭はパッパラパーだが金持ちの令嬢のピンチのふたりは、それぞれキャラクターが立っています。
しかし重山規子扮するセンチは、まァ一応セクシー担当ということになるんだろうけど、色香で男性を誘惑するようなこともなく、劇中でセクシーなダンスを踊るだけで、性格的な色付けはほとんどない。良くも悪くも中庸なのです。
お姐ちゃんトリオの中からひとり主人公の相手役を選ぶなら、バランスを考えてももっとも演技が達者な団令子がどう考えても妥当です。肉体派でキャラクター的にも地味な重山規子ではバランスが取れない。
「ニッポン無責任野郎」では前作でヒロインだった重山規子が外れ、中島そのみは前作に近い役回り、ヒロインには団令子が収まっていますが、この方が誰が見ても自然です。(ただし「「ニッポン無責任野郎」徹底深読み」でも書いた通り、「真の」ヒロインは中島そのみだとアタシは思っているのですがね)
さらにクレージーの面々の使い方にも手が加えられている。
「ニッポン無責任時代」ではハナ肇は社長役ですが(途中で更迭されるけど)、いくらなんでもツージェネレーション上の世代を演じさせるのは、同じくワンジェネレーション上の世代を演じる谷啓とともに違和感がありすぎる。
「ニッポン無責任野郎」は、実年齢に近い、見ていて違和感のない役どころ、具体的にはハナ肇は部長、谷啓は主任に落ち着いている。こっちの方が断然収まりがいい。
犬塚弘は平社員から重役に格上げされていますが、これはライバルである人見明とのバランスを考えてのキャスティングでしょう。
もちろん犬塚弘もツージェネレーション上の世代を演じなくてはいけないのだけど、コテコテの老けメイキャップでコント的に演じているので違和感は少ない。そもそも犬塚弘は等身大の役を演じるより、ある種の「やりすぎ」レベルの突飛なキャラクターの方がハマる人なので、問題はないのです。
そして忘れてはならないのが、「ニッポン無責任野郎」はあくまで植木等によるスター映画、ワンマン映画だということです。
「ニッポン無責任時代」では、たしかに主演は植木等だけど「クレージーキャッツ主演作」としての配慮も垣間見えます。だからラストシーンではメンバー全員が一同に会するし、ハナと谷以外のメンバーはステージ上に上がって一緒に歌っています。
他にも「ハイそれまでョ」と「五万節」もクレージーのメンバーと歌うなど、植木等はクレージーの一員であることが強く示唆されている。
しかし「ニッポン無責任野郎」ではそうしたシーンはまったくありません。
一同に会するシーンもなければ(もっとも桜井センリ、安田伸、石橋エータローは端役扱いだから無理なんだけど)、植木等がクレージーのメンバーと一緒に歌うシーンも皆無。歌唱はすべて植木等のソロです。(音源を使いまわしている関係で「ハイそれまでョ」でクレージーの声が入ってしまっているけど、もちろん映像では植木等がひとりで歌っている)
こうしてみると、たしかに「ニッポン無責任野郎」は「ニッポン無責任時代」のマイナーチェンジ版、と言えるのですが、マズいところは徹底的に改善し、さらに上手いプラスアルファも見受けられるわけで、それだけ考えても「ニッポン無責任時代」より「ニッポン無責任野郎」が下の箇所はないと思うのですがね。
ここからはアタシが個人的に思う「ニッポン無責任野郎」の魅力について書いていきます。
あまり誰も指摘しないことなのですが「ニッポン無責任野郎」の魅力は「ギュウギュウに詰め込んだ感」があるところだと思っています。
正直にいえば、無責任男から有言実行男への変貌は、そんなにたいした問題ではないのです。というかこのシリーズが植木等のスター映画になった時点で、テーマや風刺性がどんどん蔑ろにされることは見えていたことであり、しかしすでに蔑ろにされかけている「ニッポン無責任野郎」があれだけ面白いのだから重要でないのはわかる。
もう数えきれないくらい「ニッポン無責任野郎」を観返しましたが、何度観てもとにかく詰め込み感が凄い、と唸らされる。これは初見の時とまったく印象が変わっていない。
ギャグの多さ、挿入歌の多彩さ、展開の目まぐるしさ、ロケ地の意外性、どれをとっても観客を途中で飽きさせない工夫が随所に見られるので、何度ストーリーを反芻していても、楽しめてしまうのです。
この中で後の作品にも継承されたのはロケ地の意外性だけで、ギャグはシリーズを重ねる毎に皆無に近くなるし、挿入歌もどんどん減っていった。展開も実に平板(といって悪ければ直線的)で、この先どうなるかわからない、というような観客が先読みする楽しみ方がまったく出来なくなってしまった。
ぶっちゃけていえば、何故「ニッポン無責任野郎」があれほどの出来になったのか、制作側が理解できてなかったということになる。
いや、もしかしたら気づいてはいても、どうすることも出来なかったのかもしれない。
「大冒険」の制作経緯をみると「ギャグの多さ」と「展開の目まぐるしさ」にかんしては改善しようと試みている、と言えると思う。
だからこそギャグマンとして小林信彦を起用したのだろうし、原案に新藤兼人を起用して展開がコロコロ変わるストーリーを用意したのでしょう。もちろんそれは失敗に終わるわけですが、意図が見えるかどうかでいえば、間違いなく見えると言い切れます。
それにしても薄ら寒いのが、東宝クレージー映画がエノケン映画とまったく同じ道を辿っているのはどういうことだろうか。
偶然かどうかは置いといて、初期のエノケン映画も「ギャグの多さ」「挿入歌の多彩さ」「展開の目まぐるしさ」「ロケ地の意外性」にかなり気を配っているのが見受けられるのです。
第1作「エノケンの青春酔虎伝」では本邦初の屋外でのレビュウシーンを実現し、第2作の「エノケンの魔術師」ではトリック撮影に挑戦している。
第7作の「エノケンのちゃっきり金太」あたりまでは挿入歌も多く、随所で観客を飽きさせないための創意工夫が見られるのですが、「エノケンの鞍馬天狗」あたりから創意工夫が減っていき、開戦後に制作された作品になると、もちろん規制のせいもあるのですが、ギャグは皆無に近くなり、展開も平板、そしてエノケン映画一番の売りだったはずの挿入歌もほぼ消滅してしまう。(もちろん東宝クレージー映画同様、下がる一方ではなく、下降期においても秀作は存在する)
東宝クレージー映画、そしてエノケン映画、どちらにも共通していえることなのですが、何故初期の作品が観客に受け入れられたのか、やはりその辺りの分析が曖昧だった気がするんです。
植木等主演作もエノケン映画も、スター映画であることには変わりない。彼らが主演で出ている限り、そして彼らの人気が凋落しない限り、観客を集めることは出来る。
しかし質的向上とは別の意味で、改善できる点はあったはずなんです。
植木等主演作でいえばテコ入れを図ったと思われる「日本一の裏切り男」は「ニッポン無責任野郎」に負けないほどのギャグが挿入されている。展開もたしかに目まぐるしい。
しかしこれが本当に、当時の観客が望む植木等映画だったのか、と言われると疑問符がつく。改善された部分もあるとはいえ、挿入歌の少なさなど依然蔑ろにされた箇所も多いのが実情です。
時代が変わったから、というのは、こういっては何ですが、万能の言い訳です。たしかにエノケン映画の場合はお上からの命令なので、しょうがないといえばしょうがない。とくにエノケンが得意としたジャズソングの替え歌が一切使えなくなったのが痛いのはわかる。
しかし東宝クレージー映画にかんしては、時代が変わったというより「流行が変わった」程度のものであり、表面上の化粧直しさえキチンとすれば、そして初期の作品、とくに「ニッポン無責任野郎」が持っていた創意工夫をちゃんとやっていれば、ここまで個々の出来にバラツキは出来なかったと思う。とにかく東宝クレージー映画の大半は「失われた良さ」が多すぎる。
しかし逆にいうなら「ニッポン無責任野郎」だけにしかない良さが多い、ともいえるわけで、植木等が自ら選ぶベストが主演第2作目、ということを、つまり「ニッポン無責任野郎」が如何に完成された映画か、そして以降の作品が植木等のスター映画でありながら、如何に植木等の良さが活かせなかった証明ではないでしょうか。
正直、人生の中で一番観返した回数が多い映画である「ニッポン無責任野郎」については、これでもまだ、書きたらない気がしてるんですよ。 ただ、どうしても、オタク的な文章にはしたくないので、ま、こんなもんでよろしいんじゃないでしょうか。 |
---|
@クレージーキャッツ @東宝クレージー映画 @植木等 @古澤憲吾 @田波靖男 #映画 #東宝/P.C.L. 全2ページ @ニッポン無責任野郎 @若い季節 田崎潤 軽いノリ @ニッポン無責任時代 ギャグの連打 #小林信彦 PostScript @戦前 #1960年代 #オタク/マニア #嗜好品 #戦争 #音楽劇 tumblr