こないだの「決別に花束を」なんていう長文もですが、ああいうエントリは基本「自分語り」が必須です。(現注・「決別に花束を」は現在ココに本文を、ココに一部を残しています)
たぶんこの事にたいして「よく恥ずかしげもなく自分のことなんて書けるな」って人と「自分のことを書かずしてブログなんて意味がない」という人に分かれるんじゃないでしょうか。
アタシは、まァ、本音をいえば、別に自分語りなんか好きじゃないのです。自分のことをさらけ出したいという欲望もないし、自己顕示欲や承認欲求も、まるでない。
つか仕事と関係ないところなら、別に自分のことなんか誰も知らなくても何の問題ないし、そもそもハンドルネームでブログをやってる時点で自己顕示欲とは矛盾します。
なのに何故自分のことを書くか、理由はふたつあります。
まずひとつめが「自分のことほどネタにしやすいことはない」というね。
誰か他人さんをネタにしようと思うと、もうそれだけでかなりめんどくさい。有名人ならともかく、知人の場合は許可を取った方がいいんだろうかとか、ま、許可を取ろうが取るまいが、知人を登場させるとなるとどうしても抑制してしまう。かといってまったくの嘘クソを書くわけにもいかないし、ある程度ホントのことを書かないとモデルに使う意味がなくなる。
それが自分の話なら、何の遠慮もいらないんですよ。
前に友人から「あんた、自分をさらけ出したりするの好きじゃないはずなのに、よくFacebookとかに変顔をアップしたりしてるよね。あれ、何で?」と聞かれたことがあるけど、自分の顔ならどれだけ弄り倒しても罵倒しても構わない。これは自虐とは違う。「自分をネタにするのが笑いの基本」であるように、自分だけ弄っていれば誰からも文句を言われないし、誰も、もちろん自分自身もたいして傷つくわけじゃない。ま、弄るったって本当に嫌な弄り方はしないからね。
もうひとつ、こっちのが重要です。
まず何でブログなんてもんを書いてるのかって話になるのですが、前に書いた通り、ブログとカネを貰って書いている文章とは根本的に異なります。
それは単に責任がついて回るというような話ではなく、今の時代、調査・取材をしていない文章など一文の価値もないのです。
逆に言えば、ブログ如きに調査や取材は必要ない。というかブログ本来の使い方である日記を書くのに取材も調査もへったくれもないわけで。
ではブログのお値打ちは何なのかといえば、得手勝手な個人の意見を含めることが可能なところです。
カネを貰って書いた文章の場合、個人の感想を混ぜることは可能なんだけど、やはりある程度の公共性は求められる。あまりにもフィルタがかかった、自分の中でしか通用しないような文章ではそもそもカネが取れない。
となると当然自由度が高いのはブログになるんだけど、ブログの場合、いくら個人で調査や取材をしようとしたところで、当たり前だけど取材費なんかびた一文出ない。全部自腹になる。
カネにならない、逆にカネが出て行くとなった、そりゃ誰もキチンと調査・取材なんてするわけがないのです。
それでも、調査や取材はしないまでも、個人が持ってる知識をフル動員すれば、ブログでもそれなりに価値があるものは書くことは可能です。
もちろんカネを取れるレベルではないのかもしれないけど、読んでくれている人の暇つぶしになるくらいのことなら書くことができます。
ただ、やはり、どうしても細かいところまで目が行き届いていないので、甘い仕上がりにならざるを得ない。こないだ書いた「決別に花束を」もそうだったけど、時間や文章量を言い訳にしてしまい、到底資料にはならない文章になってしまいがちです。
そこら辺をカバーしようとするなら、さっき書いた自由度の部分、つまり得手勝手な個人の意見をちゃんとまとめて、言いたいことを整理して、人に読んでもらえるレベルまで持っていく。
わかりやすくいえば、カネを貰って書いている文章が「資料性9、個人の意見1」だとするなら、ブログは「資料性2、個人の意見8」くらいが望ましい。
と書くと個人の意見を引き延ばしてダラダラ書きゃいいみたいになるけど、はっきりいって個人の意見を他人さんに読ませるのは非常に難しいのです。
ま、ぶっちゃけて言えば、相当の文章力が必要になるっつー。
しかし逃げ道はあります。
調査も取材もできない、長々と個人の意見を読ませるだけの文章力もない、そんなものを何とか読ませるためのテクニック、いやテクニックじゃないんだけど、それは極力文章に「実感」をこめるのです。
たとえば「こないだ◯◯に行ってきました。楽しかった!」てな文章なら、仮に本当に行ってなくても書けます。何故なら実感がこもってないから。
そもそも何故調査や取材が必要なのかといえば、頭の中にあることだけの文章が一番つまらないからなんです。
だったら、せめて調査や取材はしなくても体験したことに限定して書く。そして体験をなるたけ実感をこめて書く。こうすることによって、まだ読める文章にはなるんです。
体験を実感を込めて書く、となったら、どうしても文章の中に「自分」という登場人物が必要になってしまいます。
何故なら他の誰でもない、自分自身の実感が「元ネタ」なんだから。しょうがないっつーか、嫌だのなんだのと言っても意味がない。つかそれが死ぬほど嫌なら、それこそブログなんか書く意味がない、ということになってしまいます。
最初の方に書いたように、アタシが自分の体験を実感として書くことに、抵抗があるかないかでいえばあります。けどそれはけして強固なものじゃない。本当に嫌なことは書かないし、書いてもいいことだけを膨らませればいいだけだから。
ま、そんな話です。でもこれってブログなんてもんを書くにあたって、わりと重要なことだと思うんだけどね。