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「日本一の裏切り男」徹底解剖
FirstUPDATE2007.10.29
@クレージーキャッツ @東宝クレージー映画 @須川栄三 @佐々木守 早坂暁 @植木等 @ハナ肇 #映画 #1960年代 全2ページ @日本一の裏切り男 昭和元禄 熊倉一雄 ハラキリショー

 クレージー映画の中でコンビを組むのは、もっぱら植木等と谷啓でした。
 ふたりとも優れたコメディアンで、しかも同じグループなのだからしっかりとしたアンサンブルは取れています。
 しかし、個人的には、どうもしっくりこない。

 バディ物の芝居を作る時、設定だけでなく、役者本来の資質にギャップがあればあるほど面白くなるんです。
 特に主人公ふたりが競り合うような物語の時はなおさらなのですが、クレージー映画に関しては、そういう構図がほとんど見れなかった。
 植木等と谷啓。たしかに「攻めの植木」、「守りの谷」という色分けも可能です。
 しかしムードは似ている。どちらもモダニズム色の強い人だからです。

 「喜劇人に花束を」で小林信彦は、植木等を「近代の代表」、藤山寛美を「土着の代表」、と表現しています。
 藤山寛美が土着の代表といえるなら、ハナ肇も土着の人であるのは間違いない。

 東宝で植木等主演の映画を作っている頃、ハナ肇は松竹で主演映画を撮っていました。
 監督はすべて山田洋次。ご存じ「男はつらいよ」の人です。
 山田洋次映画でハナ肇が要求されたのは、すべて「粗暴だが気のいい男」といった役回りでした。
 およそジャズバンドのドラマーという肩書きが似つかわしくないほど、薄汚れた格好で「粗暴で気のいい男」を演じるハナ肇はハマっていたのはご覧になった方には当然お判りでしょう。

 山田洋次・ハナ肇コンビの最高傑作は、このコンビとしては中期に撮られた「なつかしい風来坊」でしょう。
 この映画の中で、ハナ肇はいつも通りの粗暴な男を、スマートで気の弱い中年サラリーマンを有島一郎が演じている。
 このふたりに芽生える奇妙な友情が縦糸になっており、そこにヒロインの倍賞千恵子が絡む。
 「なつかしい風来坊」は山田洋次作品には珍しく、ハッピーエンドになるのですが、ハナ肇の<粗暴な気のいい男>ぶりと有島一郎の<青っちろいインテリ>ぶりのコントラストが見事で、文句なしの佳作です。

 とにかくハナ肇は「なつかしい風来坊」をはじめとする一連の作品で「粗暴だが気のいい男」というキャラクターが世間に認知されていたはずです。
 ところが東宝ではそういった味は活かされなかった。
 ハナ肇のクレージー映画での役回りといえば、上司や何かのリーダー的存在がほとんどで「香港クレージー作戦」や「クレージーメキシコ大作戦」でのややガラっぱちな役以外は、別にハナ肇が演じる必要のないような役ばかりだった。

 何も松竹と同じ粗暴な役がなかったといっているのではありません。そうではなくて、何故もっと土着的にハナ肇を使うことができなかったのか。
 そうすれば、「近代の代表」である植木等との対比で、バックボーンがふくらんだはずなのに。
 それを見事にやってのけたのが「日本一の裏切り男」です。
 ハナ肇演ずる大和武は、松竹映画のそれとは違いますが、地べたをはいずるような、そしてある種の信念だけは失わない、そんな男です。
 こうなってくると、機転と口先だけで世の中を渡る植木等演じる日の本太郎とのコントラストが俄然光ってくる。

 何かあるごとにインチキな関西弁を使って別人になりすます大和武と
 それを利用することしか考えていない日の本太郎

「ハナ肇がリーダーだが、総理大臣と大統領みたいなもので、(植木等と)どっちが偉いのかわからない」

 こうした、クレージーキャッツでの立ち位置を知っているものからすれば、このふたりの駆け引きは実にスリリングで、楽しい。
 当時のテレビ番組のコントを見てみると、映画のようにかっちり役にはまりこんだ物ではなく、どこか素のハナ肇、素の植木等を活かした上で演じています。
 それはグループとして活動が少なくなってからも変わらず、結成30年記念番組の「アッと驚く!無責任」(フジテレビ)でもメンバー全員がドリフから花束を貰うが、ハナ肇の分だけがない、そんなやりとりがありました。
 いかりや長介が「メンバーの数が違うから」といって取り繕っている間に加藤茶と志村けんが花束を持って再び現れる。
 そこでチャチャを入れるのが植木等で、2つも花束をもらったハナに

「これは30周年の祝い、こっちはおまえの引退記念!」

 映画だから、ある程度はしょうがないのは承知の上で書きますが、クレージーが本来持っていたアドリブ感覚のセリフのやりとりや、メンバー個々の素のおかしさは映画ではまったくといっていいほど活かされていない。
 せめて役柄上でうまくメンバーの関係性を活かしてくれればいいのですが、それも皆無に等しい。
 不思議なことに、クレージーの後を追ったドリフターズはメンバー内の人間関係のおかしさを、フィクションの中に収めたような映画ばかりなんですよ。
 クレージーの場合、無理なのではなく、やらなかっただけ、だからこそもったいなく感じる。

 話は逸れましたが、何にせよ、植木等とハナ肇のコンビ主演の映画が「裏切り男」一本だったのは悔やまれてならない。
 おそらく契約上の関係や、人気面でのこともあるのでしょうが、多くの作品で植木等の相方をつとめた谷啓は植木等よりも、藤田まことや青島幸男とのコンビの方がよかったように思う。

 さて、「裏切り男」が異質に感じるのはキャストがクレージー映画っぽくない、というのもあると思います。
 東宝クレージー映画を何本か観ていると、名前は知らないけど<おなじみの顔>に出くわします。沢村いき雄、小川安三、清水元、アンドリュー・ヒューズ、桐野洋雄といった人たちです。
 「日本一の裏切り男」でも、やっぱりアンドリュー・ヒューズはマッカーサーの役で出てくる。しかし、どうも他の作品と違って、クレージー映画らしくない人もいっぱい出てくる。

 たとえば熊倉一雄です。
 熊倉一雄、といっても「ゲゲゲの鬼太郎」の主題歌の、ぐらいしか思い浮かばない人は多いかもしれませんが、非常にアクの強い役者で、役者としてはもちろん、声優としても一時代を築いた人です。
 熊倉一雄演じるのは、ハナ肇演じる大和武に寄り添うように生きる多々羅という男で、まったく自分の意志がなく、周りの指示通りに動くことを拒絶しない、といった役柄を好演している。

 いつものクレージー映画なら、この手の役にはもっと軽い役者が使われたはずです。
 谷啓でもいいし、人見明でも由利徹でもいい。
 しかし「強いアクを持ちつつ、けして目立つことのない、目立っちゃいけない」多々羅役をこなせるのは熊倉一雄でなければ無理なような気もする。

 他のキャスティングもとにかく不思議なもので、須川栄三の強い好みが反映されていると思う。
 小沢昭一はまだわかる。須川栄三の前作で主演した人だから。
 しかし名古屋章、常田富士男、牟田悌三、二見忠男ときて、往年の名コメディアン・渡辺篤が出てくるのには、本当にビックリさせられる。
 本来ならクレージー映画と縁もゆかりもなさそうな人ばかりで、だからこそドラマが引き締まって、厚みがあるのです。

 1950年のパチンコ玉の買い占めのエピソードなどかなり象徴的です。
 パチンコ屋で磁石を使ってインチキをしようとする日の本太郎(植木等)と、何故かパチンコ屋の店員になっている日見子(浜美枝)が再び出会う。
 日の本のインチキを見破るのが名古屋章扮する武蔵野組の田熊なのですが、他のクレージー映画とは違う、漫画的ではない、リアルな迫力がある。
 その後、日の本の策略で、大和武(ハナ肇)が組長をつとめる大和組と武蔵野組の抗争に発展するのですが、植木等の喜劇的演技があるとはいえ、抗争シーンはただならぬ緊張感が走っている。
 そのシーンで武蔵野組の組長役として出てくるのが渡辺篤で「どですかでん」のたんばさんを少し軽くしたような、柔らかい演技なんですが
 独特の迫力があり、より緊張感を増幅させている。

 クレージー映画の場合、基本が喜劇であり、いくら生きるか死ぬか的なシーンであろうと、どこか軽く、手に汗握るような場面はほとんどありません。それこそ「大冒険」のように高所から落下するようなシーンが連続する作品でも、誰もまさか植木等演じる主人公が死ぬとは思ってないし、古澤憲吾もそれをわかっているから必要以上にサスペンスフルには撮っていない。
 しかし「裏切り男」の場合、須川栄三の演出も当然あると思うけど、役者の迫力のおかげで強いサスペンスを生み出しているといっても過言ではありません。

 サスペンスを強く感じるのはキャスティングのせいだけじゃありません。
 前半から中盤にかけて、やけにセットがリアルなんです。
 戦後すぐの闇市のシーンや、さきほど書いた抗争シーンでの商店街などとにかくリアルで、冷静に見ればものすごくお金がかかっているように見える。とてもじゃないけど、コメディ映画のセットとは思えない。

 ところが1959年のパート以降、セットの雰囲気がガラッと変わる。とたんに漫画的、とまではいわないがけど生々しさがなくなる。と同時に(これは現在に近い=街並みにほとんど差異がないんだから当たり前だけど)ロケが増えてくる。
 これが意図的だったのか、それとも予算面などで仕方なくなのかはわからないけど、ラストのチャチな国会議事堂のてっぺんのセットを含めて年代を重ねるごとに、つまり現在(もちろん封切当時の)に近ければ近いほど「絵空事」的になっていくのが面白い。

 これはキャスティングに関しても言えます。
 前半は先も書いたように、名古屋章や渡辺篤といった人がでてくるし、熊倉一雄の比重も大きい。
 ところが後半になればなるほど熊倉一雄も比重は軽くなりドリフの面々や藤田まことといった、コメディ色の強い、いわば漫画的な演技者が増えていく。
 「裏切り男」という映画は、過去にいけばいくほど現実に近く現在、そして近未来である1970年のパートは、いわば虚構の極みです。
 だからこそ過去はリアルに、近未来は漫画的に、といった演出がなされたのでしょう。
 その証拠に、1970年の安保のシーンには、犬のケンカや子供のケンカのカットを短くインサートしてある。アタシはこれを須川栄三と佐々木守、早坂暁からのメッセージと受け取っているのだけど、実際はどうかはわかりません。

 最後にその後の顛末を。
 映画は結果として、まずまずのヒットを飛ばします。
 同年の4月に公開され、興行的に惨敗といわれた「クレージーメキシコ大作戦」が興行収入が第4位で「日本一の裏切り男」が第7位だから若干下回ってはいるのですが、海外ロケがない分だいぶ収支は改善されたはずです。
 しかも観客動員数でいえば「裏切り男」は240万人(ちなみに「メキシコ大作戦」は170万人)で、全盛期よりもやや劣る程度におさまっている。
 一度人気低下のレッテルが貼られると大変な映画界において、この数字は十分評価に値するはずです。
 それにもし失敗作と決めつけられたなら、須川栄三監督の第二弾「日本一の断絶男」は撮られなかったに違いない。

 しかしー

 正直遅すぎたな、と思う。
 もっと早く、質的改善を目指していれば、あそこまで極端に興行成績が落ちることはなかったはずで、いくら時代が大人の時代から若者の時代へ変化していったとしても、そしてクレージーキャッツ自体の人気が下降していたとしても、映画は映画として評価され、もっと別の道が開けたような気がする。
 とにかく1968年では遅すぎる。
 結果論ですが、東宝の量産体制は翌々年には終わってしまうわけだから。
 須川栄三や佐々木守が新しい道筋をつけたともいえる「裏切り男」も「断絶男」も映画史の中に埋もれてしまい、二度と須川栄三が植木等映画のメガホンを撮ることも、佐々木守がシナリオを書くこともなかったのは本当に悔やまれます。

 「日本一の裏切り男」、それは特殊な時代の空気が生んだ、あだ花だったのかもしれません。
 植木等で昭和史を描くにあたって、須川栄三・佐々木守・早坂暁は縦軸として「戦争」という重いテーマを持ってきた。
 しかし映画そのものが重くならず、他のクレージー映画と比べても笑いの多いものになったのは、数々の優れたアイデアと、考え抜かれたキャスティング。
 もちろん萩原哲晶によるテーマや「こりゃ又結構」(作詞 青島幸男)など音楽の貢献も大きい。

 個人的な感想をいえば、つくづくこの映画が日本一シリーズの一本として公開されたことが惜しまれます。
 クレージー映画は当時の映画評論家からほとんど相手にされてなかったとおぼしく、キネマ旬報のベストテンで票が入っているのは「ニッポン無責任時代」と「日本一のホラ吹き男」、
 そして「日本一の裏切り男」だけです。
 もし日本一シリーズではなく、別のタイトルならば、先入観がない分もっと評価されていたかもしれないな、と。

 公開当時不評だったマルクス兄弟の「我輩はカモである」が再評価されたのは、ベトナム戦争期であったと言います。
 ならば憲法九条の論議が高まる今こそ「日本一の裏切り男」が再評価されてもいいのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

これ、当時ね、「日本一の裏切り男」がDVD化されるかどうかの瀬戸際で、佐藤利明氏から「ファンの要望が大きくなるものを書いた方がいい」という示唆を受けて書いたんですよ。
別にこのエントリのおかげでは1ミリもないけど、無事DVD化されたはいいものの、何故かレンタル扱いは見送られたんですよ。
買うのとレンタルではビギナーの人の<気軽さ>がまるで違うので、そこは非常に残念だったんだけど、ま、今っつーか2023年時点ではAmazonPrimeVideoの東宝名画座で「日本一の裏切り男」も普通に観れますからね。




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