こりゃ又結構
FirstUPDATE2018.11.24
@Scribble #Scribble2018 #リラックス #ポジティブ #フィクション 単ページ ポリアンナ症候群 スギちゃん あるあるネタ 幸せ

ポリアンナ症候群、なんて言葉がありますが、元は「愛少女ポリアンナ物語」(世界名作劇場の一編)において重要なキーワードとなる「よかった探し」から来ているらしい。

悪い箇所には一切目を向けず、問題の解決には当たらない、そんなポジティブ思考の負の面を指す言葉、らしいのですが、これはどちらかというと楽観主義ではなく悲観主義ではないか、という指摘があるようで、まァアタシも悲観主義に思えるのですがね。
さて、普段、普通に暮らしていたら気づかないような些細なことは山のようにあります。
それを掘り起こしてやるのが表現者、多少気取って言えばクリエーターであり、ものすごくわかりやすい例で言えば、笑いのパターンである「あるあるネタ」なんてまさにそうです。

そのバリエーションにスギちゃんがやった「ワイルドだろう?」ってのがあった。これも「あるあるネタ」の変種なんですよ。何つーか、0.5歩だけ発想を飛躍させているだけで、ベースはあきらかにあるあるネタです。
あるあるネタなんて書くと<笑い>の話だけみたいだけど、物語る上でね、絶対不可欠なのが<共感性>なんですよ。ストーリーっつーか設定の中に共感性があればこそ、笑ったり、泣いたり、ハナシにのめり込んだり出来るわけでしてね。

フシギなのは、誰しもが普段から実感しているようなことをフィクションの形で見せられても共感性を得づらいんです。「だからどうした」ってな気分になって逆に醒めてしまう。
いわば<穴>を突くことが必要で、その穴を笑いに活用すれば、あるあるネタになるってだけで。
となると、フィクショナルな要素の強いストーリーはどうすればいいのかですが、例え現実味のない、それこそSFでも共感性は必要で、むしろSFこそわかりやすいあるあるネタが入ってないと、なかなか作品世界の中に入っていけない。

スペースオペラのようなね、遠い星での大活劇などは余計に人間臭さみたいなものが求められる。
だってそうでしょ?映画などは映像付きなので一目瞭然だけど、登場人物すべてが地球人とかけ離れた造形で、しかも理解の範疇を超える思考でゴチャゴチャやってたら、ほとんどの人はついていけないでしょう。つかそんな映画、ヒットしないし、そもそも作られることもないわな。

アタシはね、作家性を全面に押し出した作品が失敗しやすいのはそこだと思っている。
共感性ってのは、いわばベタなんです。「こういう奴、いるよなぁ」だったり「そういうことあるよね」だったりってのはベタ以外の何物でもない。
どんな作家でも、バランスを考えた状態で作品を作れば共感性を意識する。でないと世の中に一切受け入れられなくなるから。

しかし「作家性」なんてもんを意識し出すと途端にバランスが崩れる。しかも意識的に共感性を排除しようとし出す。そこを補填してやるのが作家性なんだけど、その作家性とやらが「まったく類を見ない共感性=ベタ」になってればいいですよ。しかしそのほとんどが個人的な思い込みでしかなく、共感性がまるでない。
こうなるともうオナニーにしかならないんです。あんた、何だかさっきから、ひとりで気持ち良くなってるけど、みたいなね、何とも嫌ァ~なもんを見せられた、みたいに感じてしまうっつーか。

ま、長々どうでもいいことを書いてきましたが、綺麗さっぱり忘れちゃってください。本題と関係ないんで。
それよりもね、ポリアンナ症候群でいうところの「よかったこと」とかスギちゃんの「ワイルド」に変わる、新しい共感性ネタを考えようと。

例えば「普段、普通に暮らしていたら気づかないような些細なこと」で「よくよく考えたら贅沢なこと」ってかなりあると思うんですよ。
こないだ電車に乗ってる時に思ったんだけど、適度に柔らかいシートに腰をかけてね、眩しくもない程度に日差しがあって、とくに理由もなくスマホをいじって、窓の外を眺めれば景色が通り過ぎていく。
これ、もしかしたら、メチャクチャ贅沢なんじゃないだろうか、と。
他にもクルマ移動なんてほぼドアツゥドアで目的地まで実に快適に移動出来るし、自分では何も手を汚さずにカネさえ払えば黙って食事を運んできてくれる外食もそうだし、ベッドに潜り込んで、あとはひたすら眠りに入るのを待つ、なんてのも実は相当贅沢だぞ、と。

ビンボー臭い?いやいや、これはかなりの精神貴族ですよ。
もちろんわかっているんです。今の時代、快適な方が当たり前で、不快なのが特殊と思われている。
けど、これは50年前でもそんな変わりがなかったような気がするんです。50年前だろうが100年前だろうが、不快が当たり前、なんて時代はなかったと思うし。

今の時代から過去を眺めるから「この頃はエアコンもなくて不快だったろうな」と思うだけで、当時の人は別に不快とも思ってなかったんじゃないだろうか、と。
いつの時代も快適なのが当たり前なんです。だからこそ発想を変える。不快を基準にして、そこから少しでも上なら贅沢感を感じる。他の人にはごく当然の日常でも、ひとりだけラグジュアリー感覚を味わっている。

「よかった探し」がいいことなのか悪いことなのかはわからないけど、どうもビンボー臭い。けど「贅沢探し」は精神貴族になれるんだからかなり高邁な思考法だと思うんだけどね。







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