徹底比較「ザ・ドリフターズの極楽はどこだ!!」VS「巷に雨の降るごとく」
FirstUPDATE2025.6.8
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 えと、以前「徹底比較「クレージーだよ天下無敵」VS「エノケンの頑張り戦術」」というエントリを書いた時からずっとね、「クレージーキャッツとエノケン」の比較だけでなく「ドリフターズとエノケン」の比較もやりたいなとは思ってたんですよ。

 しかし意外と相応しい作品がない。
 最初「ドリフのバイのバイのバイ」とエノケンの「東京節」(パイのパイ)を、と思ったけど、エノケンが東京節を吹き込んだのは戦後というか晩年のことで、つかすでにドリフターズとして活動をしていた頃なので、正直あまり比較にならない。
 エノケンはレコードには吹き込んでなくても映画内でカバーっつーか<有り物>の楽曲を歌うことが多いんだけど、この楽曲はアタシの知る限り歌っていないし。
 こうなってはしょうがない。別の作戦を考える。
 考えるでも考えないでもなく、ま、はっきり言えば忘れかけていた頃、ふとひらめいた。

極楽はどこだと巷に雨の、なら比較になんじゃね?

 ただしこれは、それこそ「徹底比較「クレージーだよ天下無敵」VS「エノケンの頑張り戦術」」というエントリが「坪島孝と中川信夫」という監督の比較になっちゃったように、もしかしたら「渡邉祐介と山本嘉次郎」の比較になるかもしれない。
 何故そうなっちゃうのか、そしてその対象となる映画が何故「ザ・ドリフターズの極楽はどこだ!!」と「巷に雨の降るごとく」なのか、もしかしたらその説明をしていくことが「ドリフターズとエノケンの共通点と違い」の説明になるような気がしてきてね。
 中川信夫流喜劇に大いに感化されて自らも喜劇映画の監督を目指した坪島孝と中川信夫の関係は、間接的な師弟関係というか、少なくとも系譜を感じさせるものです。
 でも山本嘉次郎と渡邉祐介は違う。むしろ山本嘉次郎が築き上げたスタンダードな喜劇のフォーマットをブッ潰すつもり、だったかはわからないけど、まったく違う攻め方で渡邉祐介はドリフターズ映画の監督をつとめていた。

「ナンセンス」というアリサマはいったい何なのか。それは加害なのか被害なのか。「笑い」の実態は、たった今の状況と結びつくのかつかないのか。
ぼくにとって、ドリフターズの中に何を見出すかと云うことは、とても煽情的なことだったのである。「ナンセンス」ということそれ自体とても生理衛生的だし、とても日常的である。日常的だと云うことは、反面恐ろしいことである。


 渡邉祐介監督の言葉ですが、こうやって見るだけでも「笑い」というものを性的なものとして捉えているのがとてもよくわかる。

 「笑わせる(<笑う>ではない)」ということをセックスに近しい感覚で捉えていた人は他にもいます。例えば由利徹、例えば小沢昭一。つまり人を笑わせるというある種の快感は性行為の<ソレ>と非常に近いのではないか、という話です。
 一方、山本嘉次郎の<笑い>の捉え方はまったく違う。

喜劇は化学、シリアスドラマは物理(力学)だ


 博識で知られた実にヤマカジさんらしい言い回しですが、これだけだと説明不足でわかりづらい。
 要するにケミストリー、化学反応の話であり、異物が組み合わさった時に、時としてとんでもない化学変化が起こり、それが爆発力のある<笑い>を生む、という意味です。
 つまり山本嘉次郎は<笑い>を「俯瞰」で捉えていた。方や渡邉祐介は「主観」で笑いを捉えている。これはもちろんどちらが正解という話ではない。しかし、なんとなくでも、このふたりが真逆の発想で<笑い>、というか「喜劇」というものに向き合っていたことは理解してもらえるはずです。

 アタシは何度も書いてるように、ヤマカジ喜劇を「あまり笑えない」と評してきました。
 しかしこうやって見ればその理由は一目瞭然で、<笑い>が直感的でないというか、もっとひらたく言えば「杓子定規っぽい」んですよ。
 ギャグが杓子定規っぽいんじゃなくて、手順を踏んで「こうやれば人は笑う」という感じでやってるように見えるというか。
 その点、渡邉祐介はもっと直感的で、笑い出すまで到達する。そういう意味では渡邉祐介に軍配が上がるっぽいけど、何しろ性的快感に近しいものとして<笑い>を捉えているため、笑わせ方がワンパターンに陥りやすい。この辺が直感的というか本能的に<笑い>を作る難点です。
 一方、山本嘉次郎は爆発力はなくても全部<理屈>なので、方法論さえ見つけることが出来ればわりと何でもギャグに出来る。だからギャグが多彩になりやすい。ギャグが多彩なことは喜劇<映画>ではきわめて重要なので、そういう意味では山本嘉次郎の方が上のようにも思えるわけで。


 「徹底比較「クレージーだよ天下無敵」VS「エノケンの頑張り戦術」」でも書いたことと若干重複しますが、1940年に作られた「エノケンのざんぎり金太」は山本嘉次郎が開き直ってるせいか、多彩なギャグが炸裂しており、とくに終盤のオートピアノのくだりなど、あまりにも意表を突かれすぎて「笑う」というより「震え」が来たほどです。

 ただしこれは本当に例外中の例外で、これ以外の山本嘉次郎監督のエノケン映画は悪い意味で抑制が効きすぎていて笑えない。傑作と誉高い「エノケンのどんぐり頓兵衛」や「エノケンのちゃっきり金太」なども正直、令和の目で見るとかなりキツい。
 これらの作品に見られる「お行儀が良い上に杓子定規っぽい」という山本嘉次郎の特性は常に<笑い>を阻害してきた。「ざんぎり金太」は奇跡的にユルんだおかげでちゃんと<笑い>になっているのですが、もうこれ以上、喜劇はしんどい、という意識が山本嘉次郎の中にあったんじゃないかと思う。
 この後、おそらく会社命令で作られた「孫悟空」を挟んで、次に山本嘉次郎がエノケン主演作として作ったのが「巷に雨の降るごとく」でした。

 まるで山本嘉次郎の心境が反映されたように、エノケン主演でありながらこの映画は喜劇じゃない。全編、きわめて重い空気で進行し、ラストは救いはあるとは言えバッドエンドに近い。当然のようにそれまでのエノケン映画で当たり前だった劇中歌は歌われず(準主演の月田一郎だけが歌う)、「音楽映画」でも「喜劇映画」でも「人情映画」でもない、かなり残酷な展開の「悲劇」として描かれているのです。

 「巷に雨の降るごとく」というのはフランスの詩人、ポール・ヴェルレーヌによる有名な一節です。

巷に雨の降るごとく
わが心にも涙降る。
かくも心ににじみ入る
このかなしみは何やらん?

やるせなき心のために
おお雨の歌よ!
やさしき雨の響きは
地上にも屋上にも!

消えも入りなん心の奥に
ゆえなきに雨は涙す。
何事ぞ!裏切りもなきにあらずや?
この喪そのゆえの知られず。

ゆえしれぬかなしみぞ
げにこよなくも堪えがたし。
恋もなく恨みのなきに
わが心かくもかなし。


 当然のように映画はこの詩(訳・堀口大學)を発想の元としており、想いを寄せるヒロインから良いように利用されるモテない男をエノケンが演じています。
 それまでのエノケン映画では「モテないエノケン」もギャグで処理されており、それこそ「どんぐり頓兵衛」での二村定一と掛け合い漫唱で歌われる「女にかけちゃ自信があるんだ」のように<笑い>のエッセンスでしかなかった。

 しかしこの映画でのエノケンは違う。なかば利用されているだけということを自覚しながらも、身を挺してヒロインを守り抜くという役柄です。と書くとカッコ良く思われるかもしれないけど、悪漢にボコボコにされるエノケンは惨めそのもので、でもやられてもやられても立ち上がる、その惨めさ、その報われなさに共感させようという寸法です。

 この試みは成功したと言ってもいい。何よりエノケンが元来持っていた独特の哀愁が溢れ出していて、ギャグで中和させないことでその哀愁がより際立っています。

たしかにエノケンは優れた喜劇役者だ
しかし彼の本質は哀愁にあるのではないか?
ならば喜劇ではなく悲劇にした方が
<役者>エノケンの魅力が存分に発揮出来るのではないか


 本当に山本嘉次郎がこう考えて「巷に雨の降るごとく」を構想したのかはわからない。しかし「エノケンに悲劇を演じさせる」というのはエノケン喜劇をずっと撮ってきたからこその発想であり、叙情的になりすぎずに、どこかクールで、しかし丹念に情景を描くことを得意とする山本嘉次郎の資質とも合致しており、一風変わった、という枕言葉は必要とは言え、エノケン映画の中でも出色の出来になっているんです。

 あまり言われないことですが、他人を笑わせ続けるというのはかくも大変なことなんです。
 よくギャグ漫画家がずっとギャグばかりを描いてると病んでくる、とは言われますが、これは喜劇映画にも近いことが言える。
 ただし「病む」というよりは、とくに山本嘉次郎のように榎本健一という稀代の喜劇役者の魅力を引き出そうと奮闘していった先には「本当に喜劇である必要があるのか、もっと向いてることがあるんじゃないか」という疑念が湧いてくるもんじゃないのか。
 それこそ「男はつらいよ」がどんどん<喜劇>という枠から離れていったように、と言えばいいのか。あれも山田洋次が渥美清という役者をもっと上手く使いたい、となったら、実はそれは車寅次郎の「コッケイさ」ではなく、車寅次郎の生き様を見せた方が渥美清がより活きるというふうに思ったんじゃないかと思うのです。


 おそらく渡邉祐介が<役者>として評価していたドリフターズのメンバーはいかりや長介だけです。極端に言えばいかりや長介を引き立たせるために他の4人に動いてもらう、くらいの感じがあったように思うし、その傾向はシリーズが進むにつれてより顕著になっていった。
 とくにシリーズ第5作(東宝の「ドリフターズですよ!」シリーズを含めると渡邉祐介監督によるドリフターズ主演作第7作)の「誰かさんと誰かさんが全員集合!!」からは完全に「いかりや長介主演作」になった。もちろんグループでギャグはやるんだけど、物語の根幹となるのはいかりや長介演じる主役の周り、というのをはっきりと打ち出してきたんです。
 ひたすら号令をかけ続けるいかりや長介。何をやっても報われないいかりや長介。恋に敗れ、手下の4人からは下剋上を喰らい、惨めに去っていくいかりや長介。
 もしいかりや長介の魅力をもっと引き出そうと思えば、もうこれは喜劇的要素を抜くしかないんじゃないか。笑いで反転させずに、もっと惨めったらしく、しかしその惨めな状況を受け入れる、そんな男をやらせるしかないんじゃないか・・・。

 タイトルに「全員集合!!」とつかない「ザ・ドリフターズの極楽はどこだ!!」は心機一転の作品であり、前作の「超能力だよ全員集合!!」から荒井注に変わって加入した志村けんのいるドリフターズをどう活かすか、その答えが「完全にいかりや長介主演作にする。グループギャグも極力控える。どころか喜劇にもしない」ということだった気がする。

 この作品のいかりや長介は、実は悲惨さは「全員集合!!」シリーズよりはかなり弱い。しかしなかばギャグ的、なかばフィクショナルな悲惨さに比べて「より現実的な」悲劇的な展開で、しかもギャグに反転させない、ギャグに逃げないので、その哀しみはストーリーが進むごとに積み重なっていく。

 後半、黒澤明の「生きる」のパロディ的にブランコに乗って黄昏れるシーンがありますが、あきらかに「パロディで笑ってもらおう」として挿入されたものではなく、むしろ志村喬との比較を要求したような仕上がりになっています。

 そもそも同じブランコに乗るでも意味合いがまったく違う。「生きる」でのあのシーンは一種の回想であり、しかもどうしようもない無気力人間だった志村喬が「とあるきっかけ」で生まれ変わり、やれることを全部やり遂げた、そうした満足感に満ちたシーンなのです。

 しかし「極楽はどこだ!!」のシーンは違う。深い哀しみに彩られ、もはや身の置き場のなくなったいかりや長介がブランコに腰を降ろす=一時の安らぎとしてブランコに乗っているのです。もうこの後、どうしていけばいいのかまったくわからなくなった自分の休ませるため、というか。

 「巷に雨の降るごとく」と「ザ・ドリフターズの極楽はどこだ!!」の共通点を挙げれば、どちらも主人公が「今、自分は何をすべきなのか」にたいして徹底的にこだわっているところで、これはまったく喜劇的発想ではない。
 喜劇の主人公というのはもっと直感的というか直情的に動かなきゃダメなんです。でないと<笑い>につながらない。というか観てる側には主人公の主人公の深い思考は笑う上でノイズになってしまう。
 山本嘉次郎にしろ、渡邉祐介にしろ、そんなことは百も承知だったはずで、でもエノケンの、もしくはいかりや長介の本当の魅力を引き出すために<笑い>を消し去ってしまおう、それくらいの覚悟があったと思う。
 もしかしたらそれは観客が求めているものではないのかもしれない。それも百も承知で、エノケンは、いかりや長介は、こんな素晴らしい役者なのですよ、とどうしても訴えかけたかったのではないか。

 まったく真逆の発想から<笑い>、そして喜劇を作っていた山本嘉次郎と渡邉祐介が、まったく同じところに着地したのが面白い。
 「極楽はどこだ!!」は渡邉祐介監督としてはドリフターズ映画の最終作となった。シリーズは以降、瀬川昌治に引き継がれ渡邉祐介は完全にドリフターズ映画から手を引いた。
 そして山本嘉次郎も、これ以降、いわゆるエノケン映画は撮ってない。わずかに「四つの恋の物語」というオムニバス作品中の一編(「恋はやさし」)、古川緑波とダブル主演した「新馬鹿時代」、戦時中の動物園を舞台にした「「動物園物語」より 象」でエノケン主演作を監督したのみです。
 ちなみに3作とも喜劇ではない。「新馬鹿時代」はタイトル的には喜劇っぽいけどココでも書いたように実態はシリアスドラマになっている。これは山本嘉次郎の「もうエノケン主演の「喜劇映画」は作らない」という強固な意思を感じるわけで。(ただしエノケン喜劇映画の「脚本」は何本か書いている)

 間違いなく言えるのは、エノケンにしろいかりや長介にしろ、彼らは幸せな役者だな、と言うことです。
 とくにいかりや長介、というかドリフターズの場合、評論家筋からの評価が高くないわけですが、いやいや、長年組んだ監督をこれだけ惚れ込ませたってだけで、とんでもない喜劇役者だったと思うのですが。

こうやって書いてみると、やっぱり渥美清はちょっと不幸だったな、と思わないこともない。というか結局は「男はつらいよ」枠でやっちゃったことで逃げ場がなくなってしまったというか。いや「男はつらいよ」は「男はつらいよ」として続けたとして別枠で渥美清主演作を作っても良かったんじゃね?と。だったら「男はつらいよ」は徹頭徹尾「喜劇映画」としてやれたのに。
ま、それは松竹という会社の社風だからねぇ。難しいのはわかるんだけどさ。




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