ちょっとね、今回は「閉塞感」という言葉にこだわってみようかと。
冗談じゃない。何でイギリスなんかに行かなきゃいけないんだよ、と。
(中略)
そして何より
・この虚無感、閉塞感から抜け出したい
結局、これが一番大きかった。このまま苦しい思いを抱えたまま生きていくのは嫌だ。何とかして、次のステップに行きたい。ならば、イギリス行きは人生を変えるきっかけになるんじゃないか?
アタシの初イギリス行きは2011年ですが、その時の心境を書いたものです。
いわば「母親からの「イギリスに行け」という強い<圧>があったとはいえ、最終的に自分自身がイギリスに「行く」と決めた理由」は当時猛烈に抱えていた閉塞感だったと言ってもいい。(何でまた閉塞感を抱えていたのかは本文をお読みください)
つまりね、言い方を変えれば「<きっかけ>はあったとはいえ、閉塞感を抱えていたからこそ何の興味もなかったイギリスくんだりに行こうと思った」わけで、これは相当思い切った行動であり、もしかしたら突飛にすら見えることなのかもな、と。
そうなんですよ。人間ってのは閉塞感があれば、わりと突飛な、まで行くかはともかく、かなり思い切った行動がとれるのです。
アタシにとってイギリス行きは、まァ、人生を変えたレベルのポジティブ要素なのですが、これは本当に偶然です。
いや、少なくとも「イギリス行き」には自分自身以外の人がかかわる要素がほとんどない。つまり完全に私的なことであり、別に<流された>とか誰かから(世間から)影響を受けたわけでもない。となるとポジティブな結果になろうがネガティブな結果になろうが跳ね返ってくるのは自分オンリーなわけで、そういうことであれば「閉塞感→思い切った行動」はアリだとは思う。
閉塞感というのは「あくまで個人的な事情で」抱え込むケースもあるのですが、そこはやはり世間の風と連動してることの方が多いんじゃないかと思います。
と、こうなったら多少なりとも政治的な話をせざるを得ないのですが、戦前戦中の喜劇王であった古川ロッパの1941年12月8日の日記を読むとこんなことが書いてある。
風呂へ入る、ラヂオが盛に軍歌を放送してゐる。食事、ラヂオは、我軍が既に空襲や海戦で大いに勝ってると告げる。一時開始といふことで十二時半迎への車で出る。砧へ行く迄の道、ラヂオ屋の前は人だかりだ。切っぱつまってたのが、開戦ときいてホッとしたかたちだ
それまでのロッパの日記には「戦争は嫌だ」というようなことが散々書いてあり、というか食道楽で食べることが何よりも楽しみなロッパにとって戦争とは「いろいろなこと(とくに食)が制限されるだけのこと」なので戦争歓迎なんてあり得ない。
にもかかわらず、日記に『開戦ときいてホッとしたかたち』と書かずにおれなかったのは、つまりそれほど、当時の日本とアメリカの間が緊張状態にあり、おそらく国民のほとんどが(少なくともロッパは)かなり強度の閉塞感を抱えていた証拠です。
思えば、戦争に突入とか、ま、戦争とは比べものにならないけど政権交代とかは、こうした「国民が強度の閉塞感を覚え」たタイミングで行われてきた、と言っても過言ではない。
東日本大震災の時は民主党政権だった。んでその前の阪神淡路大震災の時は社会党政権ではないけど時の首相は社会党の人だった。
アタシはノンポリなので別に民主党が悪い、社会党が悪いという気は毛頭ない。しかしそうした未曾有の災害が起こる直前の時点で、人々がすでに閉塞感を抱えていた、というのは注目に値します。
話は変わるようですが、衝動的な自殺行動に出る人は「ここで自分がこういう行動に出れば、何もかも、すべてが変わるのではないか、という心理」から、と言われています。
当然のことながらそうした行動を行なった場合、周りの監視が余計に強化されて、むしろより強い閉塞感をもたらす場合のが多いんだけど、ま、そこまで頭が回らないからそうした行動に出るんだろうけど。
何かね、どうも、こうした衝動的自殺行動と「閉塞感からの思い切った行動」って非常に似てるな、と。そんなことをしても、まず良い方向に振れるわけがないのに、何かを変えると言っても悪い方に変わることも多いのに、とにかく変化があればというか、変化が必ず「良い変化である」と信じて疑わなくなるというか。
もっともっと話を矮小化すれば、プロ野球であったり、代表戦を含めたプロスポーツ全般に言えることなのかもしれないけど「監督を代えればすべて良い方向に変化する」と思い込むのとも似てる。
しかしてそれが本当にそうなのか、となると、もちろん「良い方向に変化する」ことも<たまに>あるレベルであり、たいていは良くて現状維持、むしろ悪い方向に変化する、なんて例は枚挙暇がない。
何と言うか、トップの首をすげ替えて、それで上手くいくケースって本当にレアなんですよ。
そんなことを言ってたら何も変わらない!と意気がる人はいるんだろうし、それは本当に良くわかるんだけど、それでも「何かを変えれば必ず良い変化が生まれる」という考えは危険すぎるんじゃないかと。
ましてや閉塞感などという曖昧模糊な感情で「何もかも変えてしまえ」というのは相当ヤバいことなんじゃないだろうか、という疑念が消えない。
むしろさ、何故人々は閉塞感をおぼえるのか、そしてあくまで個人的な閉塞感と世間の風を受けての閉塞感の境目はどこなのか、そこをもっと研究すべきじゃないかね。
もう一度言いますがアタシは完全なノンポリです。しかし政府は国民に閉塞感を覚えさせちゃいけないと思うし、国民が閉塞感をおぼえない政策を取っていかなきゃいけないとも思う。
とくに昨今は物価高とか円安とか、カネ絡みの閉塞感を覚えやすいことが続いているけど、変な話「国民が不満を持つのはしょうがないけど、閉塞感を持つような事態は避けなければいけない」と思えるか、もうそこのような。
最後にちょっとオカルト的なことを書けば、何だか人々の閉塞感が巨大なエネルギーになって、それを打破しようと地球が思って地震が起こるのかもね。
そう考えるとやっぱ大正時代が「自由な空気が横溢していた」なんて嘘っぱちだわ。それを、誰が、ではなく、地球がわからせてくれたと考えればね。