これ、厳密には「くぅ疲」の一種になるかもしれないけど、本当に言いたいのはソコじゃないんで、まァいいかと。
YouTubeチャンネルを始めてからね、とくにXではかなりしつこく宣伝ポストをしているのですが、もしかしたら「コイツ、YouTubeなんて始めてから人が変わっちゃったな」と思われているのかもな、と。
でもね、これはこないだ書いたけど、やってみたらいいよ。YouTubeを。ちゃんとやろうと思ったらこんな大変なことはないんだから。
だから、ま、変わったっちゃ変わった。最初は「収益化?んなもん、趣味でカネが欲しいと思わないし」って感じだったのが「こんな大変なことをタダって。わずかばかりの「お慰み」でももらわなきゃやってられん!」というふうにね。
もちろん「お慰み」をいただこうと思うなら収益化しなきゃいけないわけで、収益化するにはいろんな条件がいる。
とくに登録者数にかんしてはかなり厳しいので、動画なんか一切見なくても構わないから!とにかく登録だけして!とお願いしてるわけですよ。
自分でもこんなふうに思うようになるとは思ってもみなかった。というのもですね、ま、このScribbleも、文章の方のYabuniraも、両方とも一応Xに告知は載せてるんだけど、そもそも今の今まで、何とか自分のサイトを宣伝してやろう、という発想が皆無だったんです。
これは友人から散々言われてたことで、何でもっといっぱいの人に文章を読んでもらおうと思わないの?せっかくちゃんと書いてるのにもったいない、とずっと言われ続けてきたんです。
それにたいしてアタシは、過去のトラウマを例に挙げていた。詳しくはココを読んでいただきたいんだけど、「たくさんの人たちに読んでもらえる→その人たちに振り回される→自分が書きたいことが書けなくなる」ときて、結果的に何のためにインターネットで発信してるのかわからなくなったのです。
この出来事がトラウマになったのは嘘偽りない。
でもね、ようやくわかったというか、これは本当に、もしYouTubeをやってなければ気づかなかったと思うんだけど、もうひとつ、宣伝なんかしたくない、たくさんの人に読んで欲しいとは思わない理由が見つかった。
それが「駄文を書くことなど、自分にとっては何も大変なことがない」という。
おそらく友人もね、こんだけ<頑張って>文章を書いて、と捉えてくれたんだろうけど、正直な話、インターネットで発信した文章で「頑張って書いた」ものはひとつもない。「頑張って<調べた>」ならあるけど、それもほんの数例に過ぎないし、別にいろいろ調べるのだって「調べるのが楽しい」から調べたのであって頑張ったわけじゃないんだよね。
いや、ひとつも「頑張って書いたものがない」は言い過ぎだな。
ごく初期、つまり2003年から翌年くらいまでは文章を書き慣れてなかったのでそれなりに頑張って書いていた。
だからこそ、という言い方が正しいと思うけど、頑張って書いていたからこそ「たくさんの人に読んで欲しいなぁ」と思っていたんです。当時はブログを収益化する手段がなかったのでカネが欲しいとは思わなかったけど、せめていっぱいの人に読んで欲しいとは思っていた。
でもね、とくにここ10年、いや15年くらいか、は、文章を書くということにかんして、見事に頑張っていない。別に頑張ってないんだから、所詮はただの手練れで書いてるだけだから、知名度が上がろうがどうだろうがマジどうだっていい、みたいな。もっと言うなら「知名度を上げる?面倒くさっ!」って感じか。
つかさ、もし「頑張って」書いてたとするなら、こんな長期にわたってほぼ毎日のように駄文をアップ出来ないよ。アタシはそんな頑張り屋さんじゃない。
アタシは喫煙者だからこういう表現になるんだけど、アタシにとって「駄文を書く」というのは「タバコに火を点ける」ようなもんなんです。「頑張って」どころかむしろ「我慢出来なくて」に近いわけで。
たぶんね、友人に限らず「もっと文章を書いてるのをアピールした方がいいよ」と言ってくれた人は、アタシが「頑張って毎日文章を書いてる」と思ってくれたんだろうなぁ。
それはそれで、そういうふうに思ってもらえたのはありがたいんだけどね。でも違うんだよ。
アタシだって本当に「頑張って」やってたことならもっとアピールします。つかYouTubeがまさにそれで、あれだけ頑張って作ったんだから、そりゃ収益化も大事だけど、ひとりでも多くの人に見てもらいたいと思うよ。
何が言いたいのかというと、結局アタシは
駄文を書く天才
なんですよ。あ、あくまで「駄文を」であって「文章を」ではないですから。