最近Twitterに流れてきて知ったんだけど、「ムショ」という言葉は「刑務所の略語」ではなく、江戸時代の虫寄場(=牢屋、むしよせば)を略してムショと呼んでいたらしい。つまり「刑務所」という言葉が出来る前からムショという言葉はあったということで、ま、偶然の一致というか。
さて、昨日の続きを書きたいのですが、と言っても靴フェチに限った話ではなくね、性犯罪の容疑者って結構60代前半が多いらしいんですよ。とくにフェティッシュな性癖をお持ちの方ほど性的犯罪を犯しがちというかね。
でもこれは、わからないでもないんですよ。
「老いらくの性欲・五十代編」というエントリで書いたように、おそらく50代半ばから60代半ばまでは「性欲が消滅することへの恐怖心」がもっとも強い時期だと思われる。「それ、なくなって困るもの?何が怖いの?」と思われるかもしれませんが、そりゃあ怖いですよ。だって食うのを削って購入したエロ本やエロビデオが「ただの物体」に変化するかもしれないんだから。
みうらじゅんがエロスクラップを作ってるというのはそこそこ有名だと思いますが、あの膨大なスクラップ、もしみうらじゅんが死んだらどうなるんだろ、と思う。
あれはあくまで「みうらじゅんの性的嗜好に合致にしたものが選り抜かれている」わけで、正直、みうらじゅんマニアならともかく「自慰行為の手助け」としてみうらじゅんのエロスクラップを欲しがる人は誰もいないと思う。
そういや谷村新司もエロ本収集家として有名でしたが、生前にちゃんと譲渡が行われたみたいですね。ってそれが果たして良かったのか?って話です。
トシをとって、先行き長くないと観念した瞬間から身の回りの整理が始まるらしいですが、最初の一歩がエロ関連物の処分だと思う。
話が逸れますが、プロ野球選手たちがたまにOB戦なんかをやったりしてますが、いくらトシをとっても軽いキャッチボールだったりバットを握るくらいは出来るんですよ。でも性的なことはそれも無理、つまりOB戦なんかない。
いや谷崎潤一郎とか川端康成みたいなド変態はOB戦めいたことをやってたけどね。
しかしね、谷崎潤一郎にしろ川端康成にしろ「これは文学なんだ」というエクスキューズがある。やってることはただの変態行為でしかないんだけど、さも高尚なことをやってると相手に錯覚させることが出来た。
ところが一般人ならそうはいかない。真面目にコツコツ働いて、家族を守って、子供も巣立って、そんな幸せに包まれた人でも、もし性癖がド変態ならけして「満たされた人生」とは言えないと思うんですよ。
たとえばです。
もし己の性癖が「万引き程度のつまらない犯罪を犯して、警官に制圧されて、惨めに連行される、そんな自分を心底蔑む目で見つめる女性」にたいして最高の性的興奮をもよおすならば「まだ性欲がある今のうちに、実行に移したい」となっても理解出来るんです。
この手の犯罪のニュースを見た人が「いいトシして何をみっともないことしてるんだ。普通に幸せそうだし、社会的地位もあるだろうに」という書き込みをよく見るのですが、それは違う。「普通レベルには幸せな人生だった」「社会的地位も得ることが出来た」からこそ、人生で唯一の心残りはこの性癖を満たせてないことだ、最後に、周りのことなんか一切考えずに、自分のためだけに夢を叶えよう、とするもんじゃないか。
だからか、取調の時に「達成感がある」みたいなことを話す被疑者が多いらしいんですよ。
ムショ?入る入る。どうせ先行き長くないんだし、もしこの性癖が叶えられるなら残りの人生ムショで暮らすのも悪くない、と。
これもある意味無敵の人なんですよ。
無敵の人なんていうと、どうしてもニートめいた人物像が浮かぶけど、何も守るものがない社会的弱者だけではなく、その逆、つまり「もう十分すぎるくらい守るべきものを守ってきたんだから、最後くらいは自分の好きなようにさせて欲しい」なんて人も十分無敵の人なんです。
もしね、もっともっと社会保障が充実して「やけっぱち」になるような人が減れば社会的弱者の無敵の人は減らせるかもしれないけど、人生の終焉が見えたからこその無敵の人は社会保障だけではどうしようもない。
前に、何で「お年寄りを大切にしよう」という言葉があるが、それはその年寄りは近い将来の自分であり、自分自身を守るためだ、みたいなことを書きました。
でも、こう考えるならそれだけではない。はっきり言って「暴走するトシヨリ」ほど怖いものはない。だってムショ行きを一切恐れてないんだから。普通の病院に入るか医療刑務所に入るかくらいの違いしかないんだったら、そりゃあ、恐れを知らぬ状態になりますよね。
つまりトシヨリを迫害してもロクなことがない。社会不安を招くだけ。だったら、付かず離れずでいいけど、あんまりトシヨリを刺激するのは止めましょうや、表面上だけでも大切にしましょう、というのは身の安全を考えたら当然だわ。