モノホンの人がこれだけ調べても
FirstUPDATE2024.3.22
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もし「一番好きなコンポーザーは誰か」と聞かれたら、何の迷いもなく「栗原重一」と即答する。あくまで<好きな>ならば。

と書いてみたところで、ではいったいどのくらいの人が「ああ、あの」と理解してくれるか、というと、果てしなくゼロに近いと思う。
いやね、栗原重一、と聞いてすぐにピンとくるような人は全員アタシなんかよりも何百倍も栗原重一という人にたいしての知識がある方々、と決めてかかっていい。
逆の言い方をするなら、アタシよりもソッチ方面の知識がない人で栗原重一という名前を知ってる人は皆無なのではないか、とね。

ソッチ方面ってドッチ方面だよ、という話ですが、ま、戦前の芸能文化、というかね。戦前期に作られた映画にしろ音楽にしろ、そういう方面の話なのですが、戦前期に活躍したコンポーザーでそれなりに知名度があるとなったら、服部良一と古賀政男、それくらいか。おそらく井田一郎や仁木他喜雄でさえ「誰それ?」程度だと思う。
って今書いてみてビックリしたんだけど、井田一郎はともかく、固有名詞以外の何物でもない、当て字に近いような仁木他喜雄もAndroidでちゃんと変換出来るのね。

ま、それはいいや。
正直言えば栗原重一は井田一郎や仁木他喜雄よりもさらに知名度がない。でも「ほとんどの戦前エノケン映画で音楽を担当した」と言えば、エノケン映画を一本でもご覧になった方なら「ああ、あれの音楽がそうか」と思ってもらえるかもしれません。
しかし、例外はあるとは言え、栗原重一の仕事はほぼエノケン関係に限られており、同じくアタシが敬愛する萩原哲晶も「メインとなった仕事はクレージーキャッツ関係」なんだけど、他にも「エイトマン」とか「ファイトだ!!ピュー太」とか、あと「おくさまは18歳」の劇伴とか知名度のある作品への関わりも皆無ではないからね。(「ファイトだ!!ピュー太」って知名度あるか?)
要するに、エノケンの映画や楽曲に接していなければ、栗原重一とかわかるわけがないんです。

これは繰り返し語っていることですが、正直言って令和の今、エノケン映画を見てもクスリとも笑えない。喜劇なのに笑えないなんて致命的なんてレベルじゃないわけで、なのに何でアタシがエノケン映画を愛でているかと言うと、はっきり言えば「劇伴を聴くために見てる」のです。
もちろんその劇伴を担当したのが栗原重一なのですが、言い方を変えれば「栗原重一の音楽があまりにも好きだからエノケン映画も好き」とまで言えてしまうわけで。

しかも戦前エノケン映画の場合「流れっぱなし」といっていいレベルでずーっとBGMが流れており、もうこれこそ、アタシが理想とする戦前期のスイングジャズなんですよ。
このヨサは実際にお聴きいただかないとわからないし、アタシ如きには説明出来るだけの知識もない。いやさすがにここまで古いものだとね、やっぱ知識があった方が楽しみやすい。
とくに栗原重一の仕事はパロディが多いので、映画が作られていた当時の、だけでなく、それ以前の古今東西の音楽知識があった方がさらに楽しめる。ついでに言えば洋画の劇伴からのパロディも多いので、映画の知識まで求められると。
もちろん音楽なんだから知識なんかなくてもヨイのはヨイのですよ。でも知識があった方が<より>良いってだけの話で。

これだけすごい人なんだから「この人のすごさに目をつけたのはアタシだけ」なんてあり得ない。たしかにマニアックな存在ではあるんだけど、数年前から栗原重一にかんする本格的な調査が早稲田大学演劇博物館にて始まりました。
アタシはこの会合にどうしても参加したかった。当時は神戸在住だったのできわめて難しかったのですが、昨年東京に引っ越してきたこともあって区切りとなる最後の会合に何とか間に合った。
てなわけで、アタシは3月6日に早稲田大学内にて行われた「栗原重一旧蔵楽譜を中心とした楽士・楽団研究??昭和初期の演劇・映画と音楽」」の公開研究会に参加してまいりました。

ここでちょっと別の話をしたい。
1990年、この年の紅白歌合戦に植木等が出場したのですが、アタシが一番感激したのは歌唱が始まってすぐの「作詞 青島幸男」「作曲 萩原哲晶」とテロップが出た瞬間でした。
コンポーザーというのは本来、少なくとも歌い手に比べるとどうしても注目度は低い。ましてや萩原哲晶は晩年はけして仕事に恵まれていたわけではなかったので「萩原哲晶」という名前をご存知の方なんてほんのひと握り、あと大瀧詠一フリークくらいだったはずです。
それがね、1年で一番のお祭り番組で、テロップで表示されただけとは言えすでに逝去していた「萩原哲晶」という名前が出た、というだけで感涙してしまったのです。

早稲田大学の研究会で言えば「ここに参加されてる方みんな、栗原重一という名前を諳んじてるんだ!」と思うだけで、もう、感動した。
勝手に「栗原重一さん、貴方のことを知りたい人がここにこれだけいますよ」という気分になった、というか。
何しろ、一応は<エノケン>という看板もあるとは言え、研究会の主役は栗原重一です。だから当然、栗原重一にかんする研究成果が次々と発表されたわけですが、正直、ここまで心血を注いで栗原重一について調べておられる方でさえ「わからないことが多すぎる」のです。というのがわかったというか。

<業界>に入ったきっかけが当時流行の、かの服部良一も在籍したという音楽隊であることや没年ははっきりしてますが、ではどういう経緯でコンポーザーになったのか、んでどうやってエノケンの知遇を得たのか、そういうことが何もわからないのです。
そもそも名前ですら「栗原<ジュウイチ>」なのか「栗原<シゲカズ>」なのかもはっきりしない。近年はサインに「s.kurihara」とあったので<シゲカズ>読みが優勢ですが、確たる証拠は他にない。
こんなこと、近代のクラシック系の音楽家でさえ、そこそこ知名度があればあり得ないわけで、まだ没後50年も経ってないにもかかわらずこれだけ「わからないことだらけ」なのは本当に珍しいのです。

ただし、膨大な数の楽譜が残されているので、彼の仕事ぶりはあきらかになりつつありますし、研究者も「楽譜から栗原重一という人を解析する」という方向で動いているように思う。
もし可能であれば、山田参助とG.C.R.管絃楽団の演奏で栗原サウンドをすべて再現して欲しいんだけど、さすがに<すべて>は望みすぎか。
まァね、アタシも個人的に栗原重一にかんして故・瀬川昌久先生にいろいろうかがったのですが、瀬川先生亡き今、栗原重一について尋ねるとするならこの研究会でもレクチャーされた毛利眞人氏しかいない。

毛利眞人氏についてはココでも書かせてもらったのですが、この人の白眉は「沙漠に日が落ちて 二村定一伝」という著作で、アタシもいろいろと評伝、評伝に類したノンフィクションを読みましたが、これは生涯のベスト5に入る評伝です。
調査の奥行き、データの正確さ、そして毛利氏の感情が抑制された形で露呈していて、ケチのつけどころが思いつかないほど素晴らしい。
今回、初めて毛利眞人氏にご挨拶させて頂いたことは本当に大きなことでしたし、もうこれだけでこの研究会に参加した意義がありました。

それにしても、そろそろ栗原重一サウンドトラックがCDになってもいいんじゃないかね。ま、アタシは劇伴をすべて音源化してるのですがね。







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