私的・ドリフターズとアタシ
FirstUPDATE2023.10.8
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 今回のエントリの、まァいや<主役>はアタシ自身です。つまりドリフターズは主役じゃない。あくまでアタシありき。ですから真っ当なドリフターズの話を読みたいという方はここでサヨナラってことで。

 何でこんなエントリを書こうと思ったか、なのですが、そういや「荒井注在籍時を見ていたドリフターズファンの、まともな<見る側の歴史>のようなものを読んだことがないな」と思ったからです。
 というか、そういうのを書き残そうと思って、2017年にほぼ同タイトルの「ドリフターズとアタシ」というエントリを書いてるのは書いているのですが、もうちょいしっかり「記憶の掘り起こし」をしたようなものが書きたいと。
 ですから、ま、2017年に書いたもののリメイクっちゃリメイクですが、文章はすべて新規で書いています。

 というわけで始めますが、今では第一次と言われる、つまり「8時だョ!出発進行」が始まる前の、1969年10月から1971年3月までの「8時だョ!全員集合」を記憶されている方はほとんどおられないのではないかと思います。
 かくいうアタシだってまったく憶えていない。何しろアタシは1968年生まれです。つまり「全員集合」が始まったのが1歳になった頃、んで「全員集合」が一時終了して「出発進行」が始まったのが2歳の頃なので憶えているわけがない。
 ただし「憶えてない」だけでアタシはこの頃すでにドリフターズが好きだった。このタイミングでドリフターズを好きになる理由は「全員集合」しかあり得ないので、記憶がないだけでアタシは間違いなく第一次「全員集合」を見ていたのです。

 いやちょっと待てって?何故「全員集合」を見ていたか憶えてないのにドリフターズが好きだったかはわかるのかって?
 これには証拠があります。
 少なくとも幼稚園の頃から、アタシの家にはドリフターズのレコードが2枚ほどありました。親がドリフターズが好きという話は一切聞かないし、こんなの欲しがるのはアタシしかいない。というか、メチャクチャ薄っすらですが大人(親か親戚かの記憶はない)にせがんでドリフターズのレコードを買ってもらった記憶があるんです。

 そのうちの一枚がコレです。

 このレコードには若干の説明が必要かもしれません。
 いやそもそも今の時代、レコードというものの説明が必要なのかもしれないので、ざっくりとレコードの種類を書けば「EPレコードとLPレコード」ということになる。
 実際にはもうひとつ「SPレコード」というものがあるのですが、SPレコードの<SP>とは「Standard Playing(Record)」の略ということになります。
 SPレコードのサイズは約25センチ。かなりデカいですね。しかしてその収録可能時間はわずか片面5分程度。つまりデカいクセに1曲しか収録出来なかったわけです。
 しかし、時代を経るにつれだんだんと長時間収録が可能なメディアが求められるようになり、その結果、サイズはSPレコードよりやや大きい程度で片面30分程度収録出来るLPレコード(Long Playing)が開発されたわけです。
 しかし俗に言うシングルレコード、つまり片面に1曲だけ収録したい場合は無駄がありすぎるので小型のEPレコードが開発された。ちなみに<EP>の<E>は「Extended」の略です。

 ではEPレコードとLPレコードの違いがサイズだけなのか、というとそうではない。簡単に言えば回転数が違うのです。
 SPレコードの回転数は78回転です。で、LPレコードはその半分以下の33回転(厳密には33と1/3回転)、EPレコードはその中間の45回転ということになります。だから当時のレコードプレーヤーには回転数切り替えダイヤルが装備されていたのです。(78回転は途中から省略されるようになりましたが)
 当たり前ですが、回転数が高ければ高いほど短時間に多くの情報を読み取ることが出来るわけで、たんに原理だけで言えばSPレコードが一番音質が良いということになる。ま、あくまで原理だけの話だけど。
 その次がEPレコードで、一番回転数の遅いLPレコードが一番悪い音質ということになるわけです。

 ただし、EPレコードが普及する前、そしてEPレコードが出てきてからも「サイズはEP、回転数はLP」というレコードも存在していました。
 いわばサイズだけが小さいLP盤、ということで、これは俗に「コンパクト盤」と呼ばれた。つまり「LPのサイズだけ」コンパクトということです。
 たしかに音質はLP相当なのですが、収録時間が若干長く、これなら片面に2曲程度収録出来る。

 ちなみに長尺の楽曲を収録するためにたまにシングルレコード扱いのコンパクト盤も存在しており、おニャン子クラブの「会員番号の唄」は7分20秒もあるのでコンパクト盤として発売されています。(だからイントロで「33回転だよ~ん!」という謎の叫び声が入る)

 話を戻しますが、アタシが初めて買ってもらったレコード、これがコンパクト盤でして、つまりEPサイズのレコードに4曲入ってるというね、いわば「お買い得盤」だったのです。
 何しろ子供というか乳児に毛が生えた程度だったからね、音質なんかわかるわけがない。それより4曲も収録されてた方がいいに決まってるわけで。

 もう一枚がコレです。

 いやぁ、このジャケットは今見てもカッコいい。
 良いコメディアンは「悪そうな格好をした時にどれだけサマになってるか、どれだけ良い意味での<ヌケ>感があるか」だと思っているのですが、ちゃんとサマになってる上に、どこか<ヌケ>た感じもあって、本当に素晴らしいし、もうこの一枚の写真だけでドリフターズがどれほど優れたコメディチームかわかります。

 とにかくです。土曜日の夜8時になったら6チャンネル(神戸出身のアタシは6チャンネルと言えばABC朝日放送であり、当時はネットチェンジ前だったのでTBS系だった)にテレビのダイヤルを回し、レコードプレーヤーでドリフターズのレコードを聴く、というね、こんな幼少期を過していたわけです。
 だからもう、擦り込みレベルで、ドリフターズと言えば、いかりや長介、加藤茶、仲本工事、高木ブー、そして荒井注の5人組なんです。これはもう死ぬまで変わることはありません。
 兎にも角にも間違いなく、アタシにとって、マイファーストフェイバリットコメディアンはドリフターズだった。それだけは言い切れます。


 だからといって、まったく浮気しなかったかというと、つまり「ドリフターズ一辺倒」だったかというと、そんなことはない。
 小学生になってしばらくした頃に「全員集合」と同じ時間帯でフジテレビ(関西圏なら関西テレビ)にて「欽ちゃんのドンとやってみよう!」がはじまって、しばらくは「欽ドン」の方を見ていたし、高校に入る頃には「オレたちひょうきん族」を見るようになって、その頃から完全に「全員集合」を見なくなってしまいました。

 また曜日は違うとはいえ、月曜の20時からやってた「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」での伊東四朗と小松政夫のコンビ芸に笑い転げていた。
 とはいってもドリフターズが嫌いになったとかではない。しかし高校に入る直前くらいから、何となく「ドリフターズの番組を熱心に見たり、ましてやドリフターズが好きと公言するのは憚られる」という気持ちだったこともたしかなんです。

 これ、諸外国がどうなのかは計り知れてないところがあるのですが、我が国日本では確実に「子供文化」というものがあります。
 もちろん諸外国だって、例えばアタシが比較的知るイギリスにも幼児向けのエンターテイメントやオモチャが存在する。しかしこれは日本で言えばアンパンマンあたりに相当するもので、幼児期を抜けた、まァ小学生あたりをターゲットにしたエンターテインメントやオモチャは、皆無とはまでは言わないけど、ほぼ目にすることはありませんでした。
 ところが日本は小学生をターゲットにした子供文化が幅を効かせているのです。(こうした「子供文化」の成熟の歴史については「複眼単眼・仮面ライダー」に記しています)
 もちろんその大半は漫画やアニメーションや特撮ヒーローモノになるのですが、この子供文化というカテゴリにいつの間にかドリフターズが組み込まれるようになった。
 具体的に、いつ、ドリフターズが子供文化と見做されるようになったかはまた別枠でやりますが、とにかくアタシが中学生に入った頃、時代で言えば1980年代前半には、ドリフターズは「コロコロコミックや仮面ライダーなどと同じ<枠>」だったのです。

 小学生の頃は子供文化にたいして熱い眼差しを向ける。何しろターゲットド真ん中なんだから当然なのですが、誰しも小学校から卒業する時がくる。そして中学生になる頃には、あれだけ愛して止まなかった子供文化にそこはかとない嫌悪感が生まれるのです。
 全員が全員そうだとは言わない。けれどもそうした心理は実に「ありがち」で、アタシはこれを「子供文化嫌悪期」と呼んでいます。
 高校を卒業する年齢くらいになれば完全に子供文化への嫌悪感がなくなっていくのですが、中学生から高校生の間は「何もそこまで」と思うほど、子供文化を莫迦にする傾向が出てくるわけで。
 何が言いたいのかといえば「欽ドン」はともかくとして、アタシが「ひょうきん族」にチャンネルを合わせるようになったのは、要するに子供文化嫌悪期に突入したからなんです。つまり「ひょうきん族」が面白かったかどうか、そして「全員集合」が面白くなくなったか否かはたいした問題ではない。それよりもとにかく「全員集合」を見るのを止めよう、ドリフターズの番組なんか見てたらクラスメイトに莫迦にされる、そうした心理の方が大きかった。
 またタイミング的にも、ちょうどこの頃から志村けんがイニシアチブを取るようになった時期と重なっており、「全員集合」自体のムードも<笑い>の作り方も変化していた時期だったので、ドリフターズに固執する理由は何もなかったのです。

 子供文化嫌悪期を抜け出した頃、つまり大学に入学した頃にはすでに「全員集合」は終了していました。
 もしこのタイミングでまだ「全員集合」をやっていたならば、もう一度ドリフターズ熱が高まったかもしれないけど「全員集合」の枠で「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」なる「知らない番組」をやってたわけで。
 もちろんこの時代も「ドリフ大爆笑」や志村けん単独で「志村けんのだいじょうぶだぁ」はやってたんだけど、当時のアタシはダウンタウンやラジカルガジベリビンバシステム、そしてドリフターズの先輩にあたるクレージーキャッツに熱中しており、もはやドリフターズはたんに「子供時代の思い出」程度の扱いになっていたんです。
 ちょうどこの頃、これはクレージーキャッツにのめり込んだことと大いに関係があるんだけど、ジャズ喫茶時代からクレージーキャッツの面白さに目をつけ、いわばクレージーキャッツ論の第一人者と言える小林信彦が書いた「日本の喜劇人」を読んだことも大きかった。

 この書籍で小林信彦はクレージーキャッツを(やや辛辣ではあるものの)褒めてるのにたいし、ドリフターズは問題外に近い扱いで、当時<笑い>好きの間で「日本の喜劇人」がバイブル的扱いだったことを考えれば、これも「ドリフターズ=子供向け=幼稚な<笑い>」という事象を裏書きする結果になったというか拍車をかけたと思う。

 アタシのドリフターズ熱が再燃した話は「日本一のドリフファン」に書いたので、そちらを読んでください。というかそこは飛ばします。
 で、ここからは「日本一のドリフファン」というエントリを読んでいただいたという前提で進めさせていただきます。

 上記エントリでも書いてあるように、1990年代の半ば頃に「ジ・オフィシャル・クレイジーキャッツ」のドリフターズ版を作る計画があったのは事実です。
 たしか「ジ・オフィシャル・クレイジーキャッツ」の発行元のトレヴェル社じゃなかったと思うけど、どこかの出版社の編集の人と何度か打ち合わせをした記憶があるので間違いない。
 そもそもこの企画はアタシが立ち上げたものではない。ということは別に企画者はいたわけで、アタシはたんに声をかけられた、いわば「いち協力者」という立場でしかなかったのです。
 企画者(本当に<企画者>かはわからないけど、とにかく中心になって動いていた人物)の名前は伏せますが、その人物が協力を求めたのはアタシひとりではない。知ってるだけでも5人くらいには声をかけていたし、その中のひとりはミュージシャンとして成功をおさめた某氏です。
 こうした、いわば「ドリフターズマニア人脈」みたいなのが1990年代半ばには形成されつつあったのです。

 しかしこれには前フリ、と呼べる事象が存在している。
 もう一度言います。1980年代までのドリフターズの扱いは「子供文化」の中に入っていた。ただ「全員集合」が終わり、1990年代に入った頃に徐々に「実はドリフターズってすごいんじゃないか」という風潮が出始めるのです。
 とくに、完全にバンド雑誌、そして「VOW」などでサブカル雑誌という側面もあった頃の「宝島」誌の1991年9月9日号でドリフターズ特集が組まれたのは大きかった。

 この特集はいかりや長介にインタビューを敢行するなどかなりちゃんとした<作り>で、これで音楽好きの間でドリフターズの評価が一気に高まったのです。
 そして、前述の通り、「宝島」はサブカル雑誌の側面もあったので、気がつけばドリフターズは「サブカルのオモチャ」扱いになりつつあった。

 それでも子供向け扱いされていたことを思えばまだマシと言えるかもしれませんが、ドリフターズのことを調べるにつれ、どうも釈然としない気持ちも生まれた。
 さらに言えば、これもまあ、見事にタイミングが重なってるんだけど、「宝島」で特集が組まれた1991年と言えば「スーダラ伝説」で植木等ブーム、クレージーキャッツブームが再燃した頃で、当時をリアルタイムで知らない人には信じられないかもしれないけど「クレージーキャッツ=ビートルズ、ドリフターズ=ローリングストーンズ」と見立てる、みたいなことをする人が本当にいたんです。
 これもまた、やっぱり釈然としない気持ちになったのも事実でして、そういうことじゃないだろうと。

 もちろんね、サブカル扱いからマニアが増えたのはたしかなんですよ。
 たぶんそのおかげで1990年代半ばには「ドリフターズマニア人脈」のようなものが形成されたんだろうし、マイナスの側面はあったとはいえ、功罪の<功>は間違いなく存在したのは認めなければいけない。
 ただ、こうしたドリフターズマニア人脈は21世紀が近づくほどに崩壊していった。もちろんSNSというかインターネットが一般的ではなかった時代も考慮しなければいけませんが、それでも各人の<熱量>も落ちていったのも間違いないと思う。
 当然、彼らとてドリフターズが嫌いにはなってないとは思うんだけど、ミュージシャンになった某氏は本業が忙しくなったせいでだんだん距離が出来たし、他の人たちも1990年代後半くらいまではまだ熱を持っていたのですが、もうそういう人全員と縁が切れた2000年代に入った頃、つまりドリフターズが紅白に出たりした頃ですが、もう「今度こそドリフターズの書籍を!」というようなムードは皆無でした。

 その後、いかりや長介逝去後くらいからインターネット掲示板あたりでドリフターズ熱が若干の盛り上がりを見せ、とくに「NASA音頭」は軽いセンセーショナルを巻き起こしましたが、これも「インターネットの(というか某掲示板の)オモチャ」レベルの話です。

 そうこう考えると、もしかしたら令和の今が、ドリフターズというコメディチームが「真っ当な扱いをされている」時代なのかもしれません。
 志村けんが亡くなって、結果的には「相次いで」みたいになってしまったけど、仲本工事も亡くなって、変な表現なのは百も承知で言えば彼らの置き土産のおかげで、今なお、ドリフターズの特番が作られ続けています。
 しかしそこには「子供向け扱い」でも「(サブカルやインターネット掲示板の)オモチャ扱い」でもない、実にちゃんとした「優秀なコメディチーム」として扱われているのは本当に喜ばしい。

 ただしそれでも、まだ不満はある。
 冒頭の方でも書きました通り、アタシにとってのドリフターズとは「いかりや長介、加藤茶、仲本工事、高木ブー、荒井注」の5人組なのです。もちろんコントの映像があまり残ってないので致し方ない面はあるんだけど、志村けん以降と同等に、までもいかなくても、近い扱いになればもっと喜ばしいんですがね。

このエントリはちょっと例外的というか、たしかにドリフターズ関連のエントリではあるのですが、たったひとりの「とある人」に向けて書いた文章です。
だから、もしかしたら通じづらいところがあるかもしれないし、そんな面白くないかもしれないんだけど、自分としてはわりとよく書けたと自画自賛しておきます。




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