とくにVRとかの話になると「機械はわりに簡単に進化するけど、人間はなかなか進化しない」と言い続けてきましたが、これね、実はエンターテイメントにも言える話だと思うんですよ。
藤子・F・不二雄先生は「ドラえもんは自分が子供の頃の風景や人間関係そのもの」というようなことを発言されてましたが、たしかにね、これも以前書きましたが、そもそも令和の世において、空き地に勝手に入って野球をやったりコンサートをやったりはもちろん、資材でしかない土管に座ったり中に入ったりとかあり得ないし、絶対にやっちゃいけないわけですよ。
アタシには子供がいないのでよくわからないんだけど、たぶん今の子供たちはね、ひみつ道具とか関係なく、F先生が日常として描いた空き地と土管ですらある種のファンタジーとして捉えているのではないかね。
つまりね、<もうない>か<まだない>かの違いはあるんだけど、ものすごく表層的に見れば、ドラえもんの世界に存在するモノのほぼすべては<ない>で括れると思う。
ただし<ない>のはあくまで表層的なことだけで、人間関係だったり人間として抱く感情みたいはもの、要するに<心の機微>はドラえもんの世界も今の現実の世界も一緒です。だから受け入れられる。
<心の機微>とはフィクションにおける<芯>なので、そこさえしっかり描いていれば、表層っつーかパッケージングは古臭くても問題にならない、みたいな。
いや実際、アタシなんか、それこそドラえもんなんかよりももっと古い、戦前の映画を見返すような人間だけど、成功している作品は当然として、失敗している作品でも「ああ、観客の<あそこ>の感情を動かそうとしているな」というのはわかる。
100年ちかく前のフィクションでも感情移入さえ出来ていれば、例えば「は???親子が離れ離れになるって、いったい何が問題なの?」とか思うわけがない。
たぶんね、こんなの100年後も200年後も一緒ですよ。文化だったり科学だったりモラルだったりは変化したとしても、人間である限りはやっぱり「親子が離れ離れになる物語」に心が揺さぶられるはずです。
何だか風呂敷を広げすぎたような気がするんだけど、このまま続けます。
となるとです。本当に<芯>さえしっかりしているのであれば、パッケージングはむしろ賞味期限が短い方がいいのではないか、と。
アタシは先日のサイトリニューアルで、2003年からのエントリから「時代の表出がなされている」ものに限ってリエントリしたのですが、内容の面白さとは関係ない「その時だから構築出来た」モノってのは何とも言えない魅力に変化するような気がするんです。
そういやココに「Good-Night TOKYO」という映像についてあーだこーだ書いたけど、この「Good-Night TOKYO」なんか、言ってしまえば「1992年東京のスナップ映像」で、内容的に心を揺さぶられるものでないんですよ。おそらくリアルタイムでこんなの見せられても5分で飽きたと思う。
でも今見ると「パッケージング」の古さが強烈な魅力に転換されて、もっと言うなら魅力のすべてになってるわけで。
さあ、ここまでは長い長い前フリ。
何でこんなことをあらためて思ったかというと、先日久しぶりに中島みゆきの「狼になりたい」を聴き返したからでして、やっぱこの歌はすげえわと。いや中島みゆきがすごいでいいんだけど。
♪ 夜明けェ間際のォヨシノヤァでは~
もうこの<出だし>からしてノックアウトされた。
<ヨシノヤ>ってのはもちろんあの吉野家のことですが(歌詞カードでは<吉野屋>になっている)、あまりにも時代が濃厚に詰め込まれていて、完全に「1970年代後半を舞台にした一幕劇」になっているんですよ。
ああもう、このエントリ、いくらでも書くことがあるな。ありすぎる。
ここまで来たんだから全部書いていい?って誰に許可取ってんだって話ですが、書いちゃいますわ。
長いわりに話がまとまってないけど、もうそういうエントリだと思ってください。
まずです。
1970年代後半の時点では、吉野家、と聞いてピンとくるのは東京近郊の人、それも若い人に限られていたと思う。もちろん築地で働く人は知ってただろうけど。
つまりね、1970年代後半、吉野家はトレンドスポットだったんです。まだ24時間営業の店は少なく、それこそセブンイレブンなんか大半の店舗はその名の通り「朝7時営業開始、夜11時閉店」だったわけで、つまりはコンビニさえ24時間営業が当たり前じゃなかった。あとファミレスもまだ24時間営業の店は少なかったし。
「酒を飲むのをメインとしてない飲食店」で『夜明け間際』まで開いてる、というのは当時としては画期的で、そうした「東京でさえ、まだどの街でも当たり前でない、トレンドに敏感な<街>」を舞台にしている、という前提がわかっていなければ、しかも歌詞の冒頭にいきなり<ヨシノヤ>という固有名詞を出すってのが如何に画期的だったか理解してないと「狼になりたい」の歌詞のすごさが飲み込みづらいはずです。
さらに言えば、念を押すように「シティガール」や「ナナハン」といった「如何にもこの時代らしいワード」を登場させることで、1970年代後半っぽさが全開になってる。
これだけ時代を象徴するような世界観&ワードが登場するわけだから、10年ほど経った昭和の終わり頃には「古臭くてカビた歌詞」であったことも間違いない。
それでもね、これもだいぶ前に書いたことですが、歌詞というか楽曲の世界観ってカビるのも早いけど発酵するのも早くて、アナクロにしか思えなかった歌詞が平成半ばにはキレイに発酵されてCMソングに採用されているわけで。(記憶になかったけど1997年のファイブミニのCMで使われたらしい)
先述の通り「狼になりたい」は発表当時からして画期的な歌詞で、20世紀の終わりには見事に発酵された。つまりは「古臭い」と感じさせたのは、せいぜい20年ほどしかないのです。
これを「20年<も>」ととるか「20年<しか>」ととるかは難しいんだけど、もし「狼になりたい」が1970年代後半の空気感を入れ込まず、つまり古臭くなるワードや世界観を持ち込まなかったら、発酵後、こんないい風合いになってなかったと思うんですよ。
普通だったら「偶然」の二文字で片付くかもしれないけど、中島みゆきに限っては、冗談抜きに「20年後を見越したら、むしろ<死語>になりそうなワードを入れていった方が面白いなぁ」みたいな計算をしていた、なんてこともあり得るような気がする。
もちろんね、「狼になりたい」が名曲というか名歌詞なのは、主人公の心の機微があまりにも普遍的だからなのですが、もう、冒頭に書いたことをあらためて噛み締めてしまう。
テレビジョンなんてなかった時代も、子供が空き地で遊ぶのが当たり前だった時代も、24時間営業の店が珍しかった時代も、んでSNSなんてモンが世に蔓延ってる令和の時代も、やっぱ、人間なんて変わらないんだよな、と。