まァ某中田が松本人志に噛み付いたこと自体はどうでもいいのですが、某中田が高学歴であることを理由にいろいろ言いたがる人がいるみたいなんで。
そもそもですが<笑い>にレベルが高いも低いもあるのか?と思うんですよ。
ま、少なくともアタシは<笑い>のレベルの高い低いみたいな感覚はまったくないんだけど、たぶんね、世間一般ではレベルの高い<笑い>=それなりに<学>がある人間でないと理解出来ないもの、んでレベルの低い<笑い>は「そんなの子供しか笑わない」「幼稚な笑わせ方」ってことなんでしょうか。
これね、あくまで個人的な考えだと、むしろ逆だと思うんですよ。
正直<学>のある人間しか笑えない、というものがどういうものかさっぱりわからない。
例えば東大の教授のモノマネとか?これなんか東大に入学して、つか東大に入学出来るほどの学力があって、なおかつその教授のセミナーかなんかを受けてないと笑えるわけがありません。つまりこれも<学>がないと笑えないってことになる。
そういうことじゃない?もっと学問的な話?それこそメチャクチャ難しい遺伝子の研究をやってないとわからないとか?
でもね、こんなの、ただの「マニアックな<笑い>」なだけなんですよ。
例えば、ノンスタイル石田みたいな全身白で固めた出で立ちの人に向かって
「お前はスペル星人か!」
とツッコむのと一緒で、別にレベル云々はまったく関係ない。
そういうことでもない?アタマが動く人間しか理解出来ないようなネタの話?
それならもっとわからない。だってそれは「考えオチ」ってヤツで、正直考えオチみたいなネタってせいぜい「数あるうちの一本」とか「若くて尖ってる時期」の芸人しかやらない。
何故かって?考えオチはたいして笑いが起こらないから。
さらに程度の低い連中になると「政治ネタ=レベルの高い<笑い>」なんて思ってるのもいる。
なかばフィクションの形でココに「何故アメリカのコメディアンやヴォードヴィリアンが政治ネタをやりたがるのか」という話を書いたけど、いくら公平に考えても政治ネタ=高級な<笑い>とはまったく思えないわけで。
これも前に書いたことですが、<笑い>ってのは対象者を絞れば絞るほど生み出しやすい。これは絶対的なことで「スペル星人か!」でウケたければ、いや大爆笑を掻っ攫いたければ、スペル星人を知ってる人をかき集めるしかない。
当然のことながら、普通の舞台でスペル星人を知ってる人は1割いれば万々歳で、それでは<笑い>が薄くなる。
芸人やコメディアンは<笑い>の量で価値が決まる。んなもん、一部の人だけが笑うことをして悦に入ってたらあっという間にオマンマ食い上げになる。
それに早く気づいた人は「誰であっても大爆笑を取れる<笑い>」を目指す。「誰であっても大爆笑が取れる」というのは言い換えれば「誰であっても理解出来る」ということです。
「誰であっても理解出来る」コントをやり続けたからこそドリフターズはあれほどの存在になり、一部の人しかわからない<次善の策>しかやれなかった人たちは消えていった。
昨日の話の続きではないのですが、聡明で知られた上岡龍太郎は「アタマがヨイ」と言われることを頑なに否定し続けた。「知識のドーナツ化現象」なんて妙なワードを使ってまで、屁理屈でアタマのヨサを否定していました。
当たり前です。<笑い>を生む生業をしている人間にとってアタマがヨイと思われてトクなことは何もない。あくまで着地点が<笑い>である限り、アタマのヨサなんて何の足しにもならないんだから。
これは決めつけかもしれないけど、それに比べて某中田は「アタマがヨイと思わたい」というのが透けて見える。
マジで聞きたいわ。アンタ、「アタマがイイですね」って言われるのと「面白いですね」と言われるんじゃ、どっちが嬉しいの?と。
ま、もう芸人じゃないんで、みたいな卑怯な逃げ方をするに決まってるけどさ。