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老いらくの性欲・五十代編
FirstUPDATE2023.1.15
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 長寿番組である「タモリ倶楽部」は番組のムードもあまり変わることがなく、ずっとユルさをキープしたまま長寿番組化した稀有な番組です。

 って関係ない話みたいだけど、ちゃんとつながるのでご安心を。
 ま、いくら変わらないといっても所詮は「あまり」レベルで、やっぱり、細かいところは変わってはいる。
 初期の「タモリ倶楽部」はかすかに憶えてますが、今よりもずっとフェイクノンフィクション感が強く(台本感があるというか、後の「めちゃイケ」に近い)、またエロ要素もかなり濃いものでしたが、ある時期からエロ要素を薄める方向に行った。
 たしかに、今もオープニングは「おしり」が揺れてるものだけど、あれはもうエロ云々関係なく「番組のキービジュアルなんだから今さら変えるわけにはいかない」って話なんでしょう。

 アタシが記憶している限り、1990年代までの「タモリ倶楽部」はエロを前面に押し出すのが続いていたと思う。
 初期にはセックス出来そうで出来ないカップルを描く、なんて内容の「愛のさざなみ」というメロドラマのパロディをやってたくらいですし、現在はキービジュアルでしかない「おしり」そのものをフィーチャーした「今週の五ツ星り」なんてコーナーもあった。
 ただし「タモリ倶楽部」はずっと「おしり<推し>」だったわけではない。具体的な時期は不明なのですが、たしか1980年代の後半の一時期だけは何故か<推し>が「おっぱい」に変わった時期があったんです。
 この時期のオープニングも「おしり」から「おっぱい」に変更されており、ノーブラTシャツ姿のオネーチャンたちが出ていた。
 んで、オネーチャン目掛けてバケツかなんかで水をぶっかける。当然Tシャツが濡れる。Tシャツが濡れる=Tシャツが透ける=Tシャツ越しに乳首が露わになる、という。


 何の雑誌で読んだのか忘れたのですが、当時、この「Tシャツを濡らす」という<性風俗店>があったらしい。ま、さすがにバケツでってのはハードすぎるのでデッカい水鉄砲を使って、乳房を目掛けて水を発射、みたいな感じだったらしいけど。

 もちろんパクり元は「タモリ倶楽部」のオープニングなのですが、だから店名も「Tシャツ倶楽部」だったと。安直っちゃ安直だけど、わかりやすいっちゃわかりやすい。

 ここで重要なのは「これも立派な<性風俗店>」というところです。
 法律における性風俗店の分類は意外と広く、必ず、性風俗店=射精を伴う、というわけではない。まったく射精を伴わず、極端な話、対象となる性別の者との接触が一切なくても<性風俗店>になる場合があるのです。
 意外なところでは、いわゆる「個室ビデオ」と看板を掲げた、小部屋を時間貸しする施設がありますが、あれも<性風俗店>に分類されるらしい。
 もちろん黎明期の個室ビデオが完全に「アダルトビデオを鑑賞しながらマスターベーションをおこなうためのスペース」だったからでしょうが、正直、個室ビデオと近年よくある「鍵付きネットカフェ」の違いがよくわからないのですが(両方体験したところ、少なくとも構造上、システム上の違いはまったくなかった)、ま、<性風俗店>というか<性風俗>というのはいろんな流行り廃りがあって、結果として法律とのイタチごっこみたいになってるんだろうね。

 個室ビデオが<性風俗店>なんだから、完全に性的なものでありながら射精を伴わない性風俗店なんていくらでもある。
 先の「Tシャツ倶楽部」もだし、あと「女体盛り」なんかもそうです。法律上の扱いはわからないけど、間違いなく性的好奇心を掻き立てる施設としてはストリップやポルノ映画館なんかもある。
 昔、昔じゃ幅が広すぎるけど、1960年代くらいまでは「ストリップ小屋やポルノ映画館でマスターベーションをするのが当たり前だった」という話があります。そういう意味では「射精を伴う」ということになるかもしれないけど、これはやはり、種類が違うと思う。それこそ「Tシャツ倶楽部」のような射精を伴わない性風俗だって「家に帰って、その時の光景を思い出しながら自慰行為を行う」というのは普通にあっただろうし、正直そこはどうでもいいのです。

 こうした、つまり「直接的な射精とは関係ない」性風俗店に意義を見い出せない人はかなりいる。「ヌキ行為(=射精)がないのに、何でカネを払ってわざわざそんな場所に行くのか」と。
 これの究極系は、いわゆる「パンチラ」ではないかと思う。当たり前だけど、街で偶然目撃したパンチラには射精は伴わない。タダっちゃタダだけどあくまで偶発的な遭遇でしかないので「わざわざ行ってるわけではない」のだけど、ではパンチラに一切目もくれない、という若年男性も少ないと思うのです。
 アタシはね、ここがキーポイントなんじゃないかと思っている。つまり「射精があるかないか一切関係なく、多少なりとも性的な<何か>にたいして、ほんの一瞬であっても興味が向くかどうか」が肝心なんじゃないかとね。

 年齢を重ねれば重ねるほど勃起しづらくなる、とはよく言われています。
 身体的に衰える中には当然「性器の衰え」も含まれるわけですが、具体的にはわからないことが多すぎる。本当に一切勃起しなくなるのか、それとも仮に、ごく稀であっても、やはり勃起するようなことがあるのか。アタシが実際にその年齢になってみないとわからないし、自分自身のことがわかったとしても、おそらく相当な個人差があるはずなので、一般論のようなものはどこかが調査でもしてくれない限り判別するわけがありません。

 問題は「何故勃起の回数が減るのか、その理由」です。
 完全な身体的な衰えなのか、それとも「メンタル的に性への関心が薄くなった」からなのか、そこが一番わからないし、一番知りたい。
 対象となる性別の性器を見たら、ノンケの男性で言えばつまり「女性器を見れば」ってことなんですが、そういう場面に出くわしたら高齢者と呼ばれる年齢になっても<勃起>するのか、それとも高齢者になれば「見ても何とも思わなくなる、もしくは別に見たいとも思わない」のか、この差はかなり大きいんじゃないかと。

 もし後者であれば、勃起の頻度と「老いによる衰え」はあくまでメンタルの話でしかない、ということになります。
 身体的なものであれば、こんな言葉があるのか知らないけど「老年性インポテンツ」ということなわけで、話が早いし、まだ50代半ばのアタシでも理解は可能です。しかし「性への関心が薄くなる」のであれば、もう現状、それがどんな心理状態なのか、まったく想像もつきません。

 ここまで書いたんだから自分のことを書かないわけにはいかない。気持ち悪い話かもしれませんがご勘弁を。
 では現在50代半ばのアタシが、若い女性のパンチラを見て「ただの布じゃないか」と思えるのか、というと、まったく思えない。もちろん女性の乳首や性器を「人体のパーツのひとつでしかない」なんて思えるわけがない。その辺は極端に言えば10代の頃と何ひとつ変わってないと思う。
 若い頃と比べると興味の対象がいろいろ変わったのは間違いない。身体的な衰えも感じることがある。食べる量もあきらかに減っている。
 それでも、それこそ若い頃に比べると射精の回数は減ったとしても、それでも「パンチラ=ただの布ではない」という感覚は何も変わらないし、将来的に「ただの布」と思えるようになるのか、まったく、何の想像も出来ないんです。

 あくまで仮説なのですが、もしかしたら「子供がいない」というのも関係があるのかもしれない。
 子供ったって、とくに女の子ですよね、がいるかいないかで、若い女性を見る目が変わるのかもしれないな、と思うことはあります。
 世の中にはトリックアートというものがあり、初見ではこういうふうに見えていたのに、一回でも、一瞬でも、別の見え方をしてしまうと、もう別の見え方でしか見えなくなり、初見と同じように見ようと思っても無理になる、なんてものがあります。
 これと一緒で、一瞬でも「娘みたいなもの」と思ってしまった瞬間、もう二度と性的な目でその女性を見ることが出来なくなるのではないか、と。

 何しろアタシには「子供がいない」わけで、仮説にすらなりっこないんだけど、それでも中学生になる姪っ子を性的に見る、なんて100%、いや1000%無理です。無理矢理想像したら吐きそうになるほどです。
 性的好奇心に打ち勝つものがあるとするなら、それは「嫌悪感」ではないか。それこそ60代以上の性欲を気持ち悪いと思うのと同様、根拠も理屈も何も必要ない。ただ、ひたすら生理的、本能的なところで「気持ち悪い」と思ってしまうんじゃないかと。

 それを考えれば「60代以上の性欲を気持ち悪い」と思う心理は理屈が通ってると思う。
 人類というのは子孫を残していくことでここまで来たのです。もちろん「子孫を残す」ために必要なのは「男女間の性行為」なわけで、そうした正統なバトンタッチをしてきた人間(=年頃の子供がいる)と、バトンタッチを拒絶した、もしくはバトンタッチが出来なかった人間の間で断絶が起こるのもしょうがないと思うし、正統なバトンタッチが出来た人間からしたらバトンタッチをしてない人間を蔑んだ目で見てしまうのも、これまたしょうがない、という理屈が成り立ってしまうというか。
 普通はね、60代を過ぎて、今後この人はまだまだバトンタッチ(=子作り)出来るな、なんて思わない。女性はもちろんだし男性も、まだ可能性はゼロではないってだけの話です。

 この仮説が正しいのか間違ってるのか、それはもう、永久にわからないと思う。仮にアタシが50代の間に子供が出来て、それによってメンタル的な性欲が落ちたとしても、たったひとりの実例以上にはならないからです。

 とまあ、ここまで書いてきてつくづく思ったのは、とにかくエントリ中に「わからない」という言葉を何度使ったかわからないほど使った。(←また使った)
 アタシは繰り返し「インターネット上で発表する文章の値打ちは、調査も精査も取材もせずに気軽に書けること」と書いてきたし、同時に「最低限調べないと書いてて面白くない」とも書いてきた。
 しかし今回の主題では調査も取材もしようがない。

 アタシの周りには比較的年齢の高い、いわば高齢者に相当する人が結構いるのですが、さすがにこればっかりは聞けない。そして「容易に質問出来ない」ということにこの問題の本質があると思う。
 やはり、これは相当センシティブな問題なのは間違いなく、もしかしたら単純な性癖の開陳よりも恥ずかしいことなのかもしれない。
 アタシ自身、途中で書いたように、過去の話はいくらでも書けるけど、現在進行形の話は書きづらい上に生々しくなりすぎて読み手の方に拒絶される可能性が高くなる。
 となるとです。仮に取材がオッケーとなっても、現在進行形のことを聞くに他ならず、仮に匿名だったとしても生々しさは排除し難いわけで。

 こうした状況を打破したい、とはまったく思わない。アタシに出来ることは、こうやって記録するのみ。いや60代、70代と「記録し続けるのみ」というか。
 これが何かの役に立つのか、そんなことはわからないし、わかる必要もないわけで、ただ、やるって決めた。それだけです。

Meta、つまりFacebookの創始者であるマーク・ザッカーバーグをモデルにした映画「ソーシャル・ネットワーク」についてアタシは『現在進行形の事象をモデルにしたが上の<煮え切らなさ>』みたいな評を書いたことがあります。
こうした現在進行形のことを映画っつーかフィクションにする場合、途中までは面白くても、どうも結末がしまらない。フィクション独自の結末にするわけにもいかず、もっと言えば「気持ち悪い終わり方」になってしまうんですよ。
このエントリは主題的に、間違いなく、気持ち悪い終わり方になるな、とそこは観念していた。結論なんて出せるわけがないことを書いてるわけですから、もうそこは避けられないと。んでたぶん、この駄文を読んだ大多数の方は「お前は結局何が言いたかったんだ」みたいな感想になるんだろうなとね。
こうした文章を書きたいという構想は2、3年前からあったんだけど、どうもそこが引っ掛かって、つまり煮え切らない結末にしかならないのでペンディングしていたのです。
でもアタシも50代半ばになって、これ以上引っ張ったら永久に書けなくなる。だから重い腰を上げてね、エントリ単体で読んでも面白くないけど、10年後、20年後への布石としてやろう、と。
今回は性欲を主題にしましたが、実際問題<老い>というのは実に多面的でして、いろんな角度から書くことが出来るのがわかった。
てなわけで、別の角度から<老い>を検証したエントリも予定しています。ま、これまた<煮え切らない結末>になるのは決定なんだけどさ。




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