明るい性教育ってどうなの?
FirstUPDATE2022.7.15
@Scribble #Scribble2022 #性 #1970年代 #1980年代 単ページ カバゴン 阿部進 毎度おさわがせします パンツの穴 明るい性教育

いや、Twitterのタイムラインを見てね、ふと思ったんだけど、そういや一時期、明るい性教育、みたいなのが流行ったなぁ、と。

たぶん、1960年代後半のカバゴンこと阿部進が嚆矢となって、んで1980年代半ばの「毎度おさわがせします」などのドラマや「パンツの穴」などの映画で、明るく楽しく性教育をお勉強しちゃおう、みたいな風潮になった。
ただねぇ、これ、あんまりよろしくなかったのではないか、と今になって思ってしまうのですよ。
そもそも、性教育って「明るく」やるべきことなのか、と。


↑でも書きました通り、アタシはね、性のオープン化、みたいなのを、どうも疑念を持っている。
って、上記エントリでの引用を再引用した方が早そうなのでしておく。

(前略)ああいうエロスの禁断の世界というのは、言っちゃったら面白くない、言っちゃったらエロスでも何でもないってのがあって。大っぴらにしないからこそエロスであったり、のぞきたくなったりするわけじゃないですか。それを大っぴらにしちゃうのは間違っちゃう(筆者注・ママ)と思うし、エロスの世界の価値がなくなっちゃうと思うんです。
(安藤健二著「封印作品の謎」より)

これは元AV女優の小室友里の言葉ですが、アタシもね、基本的には同じことを思ってるんですよ。

「毎度おさわがせします」で勃起した合図として「ピロリロリン」ってSEが使われたり、「パンツの穴」で主人公のあだ名が「ムキンポ」だったりね、何かこういうのは「間違った開放」のような気がして仕方がない。
やっぱね、性ってのは淫靡なムードがなければダメになると思うんですよ。つまり、陽か陰かで言えば<陰>というかね。
というかこれもずっと思ってることだけど、性風俗なんて昔のがずっとコンビニエンスなもので、どうも年々ハードルが高くなってるのも気になる。

だからアタシはね、性教育ってのは<淫靡>であり<手軽>なものである、ということを教えることだと思うんですよ。
というか、もっと言えば<淫靡>はけして悪いことではないってのははっきりさせなきゃいけない。
何て言えばいいのかな、こういうのって個人主義とか、新しいカタチ、なんて綺麗事で片付けちゃマズいんじゃないの?と。だってこれは人類の存亡にかかわることだから。<淫靡>=悪、なんてなったらマジで終わる。

過去を否定するのは構わないし、馬鹿にするのもしょうがないかもしれない。でもね、人類は今令和の時代を生きる人までちゃんとバトンタッチをしてきたんですよ。バトンタッチされてきたから我々は生を受けた。この事実から目をそらしたらダメですよ。
どうやってバトンタッチしてきたか、それは「男女間での性行為」によってです。
<絶やさない>という、その方法論は新しい古いで切り捨てられるほど脆弱じゃない。というか神様も<絶やさない>ために<快楽>とセットにしてきたんだろうし。

そこの仕組みを変えるのは無理なんじゃないかなぁ。ま、こんなのただの流行りでしかないと思うから最終的には<淫靡>で<手軽>に戻っていくと思うから、別に何にも心配してないけど。







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