えと、アタシが中学生の時でしたか、に「蒲田行進曲」なんて言う摩訶不思議な映画が公開されました。
って言っても、リアルタイムで摩訶不思議だと思っていたわけじゃない。公開当時劇場に観に行ったけど、普通に面白がって観た記憶すらあるくらいで。
しかし後年になって、つまりはオッサンになって考えると、こんなわけのわからない映画もない。
でも内容がわけがわからないのではないのです。内容自体はオーソドックスというか王道的な<作り>だしね。
でもね、東映出身の深作欣二が、東映京都撮影所(つまり太秦)を舞台にした映画を<松竹>で、さらに「角川春樹事務所」と共同で撮る、しかも大船撮影所ではなくとっくに撤退した「蒲田」という設定でって、もう、ここまで書いただけでも何が何だかわからない。
もともと、つかこうへいは東映京都撮影所をモデルにしており、その内容にたいして松竹の撮影所のあった「蒲田」なんてタイトルを付けたところがミソであり、事態をややこしくした原因です。
このイビツな映画が出来たことを嘆いた野村芳太郎は自らがプロデューサーとなって、松竹の関係者だけで、マジモンの「在りし日の松竹蒲田撮影所」を舞台にした映画を作った。いや作ろうとした。それが「キネマの天地」です。
舞台となったのは松竹蒲田撮影所時代の末期である1930年頃が時代設定になっていますが、登場人物は実名ではなくすべて仮名に変えられており、主人公はあきらかに田中絹代をモデルにしてあるにもかかわらず「田中小春」に変えられているし、小津安二郎や斎藤寅次郎などもすべて仮名に変更されている。
せっかく松竹映画人による松竹蒲田撮影所時代の再現にもかかわらず、何でこんな中途半端なことにしたのかさっぱりわからない。おかげでノンフィクションとしての要素は取り払われた。
しかも監督の山田洋次は、年齢的に当然松竹蒲田撮影所時代は知らない。まァ無難にはまとめているけど、それだけ、とも言える。
正直、映画としての面白さで言えば「キネマの天地」は「蒲田行進曲」に<はるかに>及ばない出来で、だったらすべて実名で、いっそ蒲田時代は知らないとはいえ戦前の大船撮影所を知ってる野村芳太郎が自ら監督をやれば良かったのにね。それなら「ノンフィクション的面白さ」は加味されたはずだから。
さて、「キネマの天地」というタイトルでもわかる通り、この言葉は楽曲としての「蒲田行進曲」のワンフレーズです。
今現在、どの程度の知名度があるのかわかりませんが、本当に「蒲田行進曲」なる楽曲は存在してします。って映画の「蒲田行進曲」の劇中でも歌われているんだから当たり前だけど、この映画のために作られたものではなく、松竹が蒲田に撮影所を構えていた1920年代後半に「蒲田行進曲」なる楽曲が作られたわけで。
具体的には、五所平之助監督の1929年の作品「親父とその子」の主題歌で、もちろんサイレント映画なのでこの楽曲がフィルムに焼きつけられているわけではありませんが、おそらく当時、大劇場では活弁士と並んで当たり前にいた楽団によって演奏されたのでしょう。
ついでに言えば、レコード(時代が時代だから当然SP盤)も発売されている。
川崎豊と曽我直子の歌唱で、作詞・堀内敬三 作曲・ルドルフ・フリムル、とクレジットされています。
そうなんです。つまり大元となった、1929年発売の「蒲田行進曲」そのものが実はカバーで、元はオペレッタの楽曲だったらしい。
さあ、今回のエントリは「大船」と呼び習わされている地域について書こうと思うのですが、ここまで書いただけで経緯がややこしすぎて嫌になってきた。話はまだ大船にたどり着いてさえいないのに。
でも大船と言えば松竹、というか撮影所があった場所であり、となるとその前の撮影所があった場所である蒲田のことは、どうしてもすっ飛ばせない。
アタシも必死で整理しつつ書きますので、みなさんも死にものぐるいでついてきてください。
とにかくここからは、松竹の大プロデューサーであり、後に会長にまで上り詰めた城戸四郎の著作「日本映画傳・映画製作者の記録」を最重要参考書籍としていろいろ書いていきます。
が、正直アタシはこの書のウラを取っていない。つまり本当に、この書籍に書かれていることが真実なのかわからない、という意味です。
何で<そこ>にこだわるかというと、映画関係者が自ら執筆した書籍ってね、すごいいい加減なんですよ。
資料とか見ずに記憶で書いてある場合がほとんどだから、複数の作品がゴッチャになってたり、製作年がまったく違う、なんて当たり前なのです。
だから映画関係者が著作者の場合は裏取りが絶対に必要なのですが、つかアタシだって仕事ならば綿密な裏取りをしますが、まァ、無償でネットに発表する文章なのでね。
それでも最低限は調べて、知ってることは訂正を入れてますが、知らないことを再調査はしていない。
その辺をご承知でお読みください。
松竹の撮影所が蒲田にあったことは書いてきましたが、城戸四郎によると移転先はともかく「撮影所を新しくこしらえなければいけない」理由は3つあったらしい。
元の文は旧字体が使われたりして非常に読みづらいので、すべて<ざっくりした言い回し>に直しています。
① 蒲田撮影所の近くに軍需工場がいっぱい出来てトーキー映画を製作するには不向きになってきた
② 映画不況や傍系会社の負債を補填するなどして経営が厳しくなった
③ 東宝の映画進出
ただし、このうち③はあきらかにおかしい。
東宝が本格的に映画に進出してきたのは1938年です。P.C.L.、J.Oスタヂオ、東宝映画配給を吸収し合併させる形で東宝映画を設立している。
もちろんその前からP.C.L.との関係は強かったのですが、東宝としてはっきりとP.C.L.との関係をあらわにしたのは1937年9月公開の「東宝オンパレード 楽園の合唱」が初めてのはずです。
正直、どの時点で東宝創始者の小林一三がP.C.L.との関係を強化し、ゆくゆくは東宝のグループに迎え入れようとしたのかはつまびらかではない。ただ、どれだけ早くても1934年以降なのは確実です。って書き出すとキリがないので理由は割愛。
具体的にいつ松竹が撮影所移転について動き出したのかは城戸四郎も書いてない。ただ大船撮影所の地鎮祭が行われたのが1934年4月であるとし、当然新撮影所の場所を大船と定めるまでかなり時間がかかっているわけで、1934年4月以前なのは確実です。
1934年4月以前となれば東宝は少なくとも表立って映画界への接近ははかっていない。というかP.C.L.が設立されたのが1933年12月であり、当初P.C.L.は日活のトーキー部門を受け持つという話で、それがダメになってスポンサーを付けることで制作費を調達して自主制作を始めたわけです。
この時点で東宝が噛んでいればこんなことをする必要がない。資金が潤沢な東宝が出資すればいいし、役者やスタッフももっと揃えられた。
つまり、どう考えても、松竹が新撮影所設立の前の時点では東宝は映画とは無関係だったわけで。
②も「カネがないから投資する」のは変だと思われるかもしれませんが、これは後で説明するとして、①にかんしては紛れもない事実で、おそらく①がもっとも大きな理由だったと思う。
1920年代後半まで、撮影所は極端な話、広大な土地さえあればどこでも作れました。だからこそ日本各地に大小様々な撮影所が作られたのです。
しかし時代が下る毎にそうもいかなくなってきた。
広い室内スタジオが必要になってきたし、となると当然照明もキチンとしたものを設置しなければいけない。しかし昭和初期のこの時代、安定した電気を受給出来る場所は限られていた。だから「どこでも良い」わけではなくなってきたわけです。
そして時代はトーキーの時代になった。
こうなると騒がしい地域では撮影出来ない。というのも当時は<同録>、つまり映像と音声を同時に記録するのが普通で、後年のように「音声は防音が完備された録音スタジオでアフレコする」というわけではなかったのです。
さすがに蒲田はしんどい。そう感じた城戸四郎は新撮影所の設立を決めた。
ところが良い場所がない。「いくらなんでも都心から遠すぎる」という理由で周辺者から推薦のあった場所をすべて断っています。
そこで浮上したのが大船でした。あ~っ、やっと大船の名前が出てきた!
たしかに大船なら都心からも近いし、東海道線と横須賀線(当時は根岸線≒京浜東北線はない)があるので通勤も問題ない。
オマケに土地が安い。が、安いのは当然カラクリがあるからで、はっきり言えば当時の大船は「人が住むにはまったく適していない」と目される土地だったのです。
大船はかつて「粟舟」と呼ばれていたらしい。城戸四郎の本にも傅説(=伝説)として紹介してありますが、これは事実のようです。
あわふな、が転じて、おおふな、になったらしいけど、そこはまァいい。とにかく名前でわかるように、縄文時代までは海で、陸地になって以降も完全な湿地帯だったんです。
城戸四郎も
柱や杭を打込むと幾らでも入る。
と書いてるくらいです。
ただそれでも撮影所くらいならば、つまりしっかりした住宅のように基礎をガチガチにしてしまわなくてもなんとかなる。実際、大船撮影所はコンクリートでガチガチに表面だけを固めて、その上に建屋を載っけた感じだったらしい。
ま、いわばトレーラーハウスみたいなものか。
にしても、安全とは言い難いわけですが城戸四郎本人は安価で済んで余剰まで出たと喜んでいる。うん、城戸四郎らしい。
さあ、これからいよいよ大船の歴史が始まるのですが、その前に②のカラクリを説明しておきます。
城戸四郎はまず「松竹映画都市土地株式会社」(実際は旧字)を設立し、大船近辺の土地を7万坪も買っている。7万坪と言えば東京ドーム約5個分。もちろん撮影所を作るだけならここまで広大な土地はいらない。
しかしそれは織り込み済み。城戸四郎は顔の利く企業に声を掛けて工場を作らせた。もちろん買ったより高い値段で、しかも「音がうるさい重工業はNG、軽工業のみ」という条件を付けて売りつけたのです。
このことについて城戸四郎は『なかなか苦心したわけだ』としたり顔で書いてるけど、いやはや、やってることは土地転がしと変わらない。ま、ここらあたりが「商売人・城戸四郎」の面目かもしれませんが。
兎にも角にも大船撮影所は1936年2月に竣工し、移転記念作品として「男性對(対)女性」がこの年の8月に封切られています。
これは当時としては破格の長尺映画で、何と134分ある。内容は完全なオールスター映画(つまり松竹映画専属俳優の主演クラスがどんどん出てくる)で、松竹少女歌劇の大スターだった水の江瀧子やオリエ津坂まで顔見せするという豪華ぶり。
監督は名匠・島津保次郎ですが、島津保次郎らしからぬというか他のオールスター映画に違わず内容も何もない映画ですけどね。
さて、松竹の撮影所移転話はこれくらいにして、以降の大船の話に移りたいと思います。
とは思ったけど、結局松竹の存在なくして大船は語れない。逆に言うなら大船は松竹ありきで発展した街とも言えるわけで。
そもそもですが、先述の通り大船は「住むには適していない」と目されていたような土地です。つか湿地帯というのはかなり大規模に基礎をやらないと家屋が安定しません。
それでも、戦後になって世の中が変わり、東京のベッドタウンがどんどん郊外へ広がるにつれ大船は注目され出した。
そして土木技術も発展した。少々の湿地帯ならば比較的頑健な建屋を建てられるようになってきた。
それに・・・、これはもう「時代が変わった」という話になるのですが、昔のように「一軒家を建てて、そこに命が尽きるまで住み続ける」というようなライフスタイルが崩壊し、みな気軽に引っ越しするようになった。
つまり「終の棲家」にするつもりがなければ、少々の軟弱地盤でも問題ない。いや問題ないというか数年滞在するレベルであれば何よりも<利便性>と<固定費(≒家賃)>優先になる。
てな感じで大船は発展を遂げることになるのですが、ここからはPage2にバトンタッチします。