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ルックバック1968
FirstUPDATE2022.2.20
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 さて、今回の「ルックバック」はアタシが生まれた1968年です。
 ま、それは事実だけど、別にこの年に思い入れとか、ほとんどないんですよね。何というか、文化的なことで言えば中途半端だし、かといって生まれたばかりなのでこの時代を憶えているわけでもないしさ。

 そこで今回は「カラー」というキーワードを掲げてやろうと。ここで言うカラーとは「特色」という意味ではなく、もちろん<襟>でもなく、モノクロかカラーかのカラーです。
 このPage1では基本的にカラーテレビの話が中心になるんだけど、それだと受像機とかの話だけになるので、もう少しね、いろいろ広げて書いていきます。
 とはいえとりあえずはテレビ受像機の話から始めないといけないのですが、まずはテレビ受像機の普及率から見ていただきたい。

1965年 モノクロ 90%
1966年 モノクロ 94.4%、カラー 0.3%
1967年 モノクロ 96.2%、カラー 1.6%
1968年 モノクロ 96.4%、カラー 5.4%
1969年 モノクロ 94.7%、カラー 13.9%
1970年 モノクロ 90.2%、カラー 26.3%
1971年 モノクロ 82.3%、カラー 42.3%
1972年 モノクロ 75.1%、カラー 61.1%
1973年 モノクロ 65.4%、カラー 75.8%
1974年 モノクロ 55.7%、カラー 85.9%
1975年 モノクロ 48.7%、カラー 90.3%
1976年 モノクロ 42.2%、カラー 93.7%
1977年 モノクロ 38.3%、カラー 95.4%


 これは内閣府の調査結果ですから<いい加減なものでない>のは間違いないとして、実態に即したものかは若干の疑問があります。
 一般には1959年の皇太子ご成婚の時にモノクロテレビが普及した、と言われるのと対になって「1964年の東京オリンピックを契機にカラーテレビが普及した」と言われています。
 カラー放送自体は1960年から行われており、いくらなんでも1966年の時点で0.3%というのはさすがに少なすぎるような気がします。
 が、細かいパーセンテージはともかく、1973年の時点でカラーテレビ受像機がモノクロテレビ受像機を逆転しているのはわかるわけで。

 ここでさらにもうひとつの表を見ていただきたい。細かい数値がわからないので文字起こしが出来ないのですが、ま、だから表そのものを転載させていただきます。


 この表で重要なのはカラー番組の放送時間です。
 こうして見ると1973年の時点で総放送時間とカラー番組放送時間がほぼ並んでいる。つまり、1973年時点でほとんどの番組はモノクロからカラーになっていた、と見做しうります。(例外はNHK教育=現在のEテレ)

 となるとやっぱり「モノクロからカラーへの完全転換期」は1973年とみて間違いない。
 でもね、さすがにタイムラグを感じずにはいられない。
 2016年放送の「暗闇三太」のような意図的なものは除いて、日本で最後にモノクロアニメーションが放送されたのは1971年の「珍豪ムチャ兵衛」ですが制作自体は1968年で、1968年の時点でさえ「今さらモノクロというのも」という理由で一度お蔵入りされたものが1971年になって急に放送されたらしい。
 つまり1971年の時点でさえ、モノクロでアニメーションを作るなんてあり得なかったんです。なのに数値だけを見て「モノクロカラーの転換期は1973年」とするのは、やっぱどう考えてもおかしいと。

 もう少しテレビ受像機の話を続けます。
 日本でカラー放送が開始されたのが1960年ですから、もちろんこの頃から国産のカラーテレビは存在していました。
 しかし当初は価格がベラボウに高く、当然<作り>も重厚さのある、ま、価格なりの見た目が求められた。
 ところが1968年になって様相が変わる。
 この辺りから各社が独自のカラーブラウン管技術を発揮し始め、価格もかなり下がった。そして価格が下がる=買い求めやすくなったことの象徴として「重厚ではない」ブランド名を付けるようになります。
 松下のパナカラー、ソニーのトリニトロンテレビ、東芝のユニカラー、などはいずれもこの年(ユニカラーのみ前年)の発売ですが、中でも知名度が高かったのが日立のキドカラーです。

 キドカラーの知名度向上に抜群の効果を発揮したのが飛行船で、この年に公開された植木等主演の「日本一の裏切り男」の中にもキドカラーの飛行船が登場する。

 ま、映画にまで登場したくらいだから話題性抜群で、というかアタシが子供の頃(1970年代まで)は「空から宣伝」ってよくあったのですよ。
 アドバルーンなんか最たるものですが、ヘリコプターや小型飛行機を使って、上空から大音量で宣伝文句を流す、なんてこともよくあった。だからいまだに「お嫁入り家具は○○家具センター!」なんて惹句を憶えています。
 それでもさすがに飛行船はめったになく、1968年という時代を考えれば画期的です。
 それにしても日立は何故ここまで大々的でセンセーショナルなアドバタイジングをおこなったか。
 もし、この時点でカラーテレビが高級品で、易々と一般庶民の手に届くものではなかったら、こんなカネのかけ方はしてないと思う。
 やはり「ここまで値段が下がったら一般庶民も食いつく」=前年比で比べものにならない売上になる、という目算があればこそでしょう。

 ま、そうはいってもアタシが生まれたのはこの年の夏だし、当然リアルタイムでどうだったかなど憶えているわけもない。
 さすがにひとつも実例を挙げないわけにはいかないので、泉麻人の著作から引用しておきます。

カラーテレビのプロモーションが盛んになってきたのは昭和39年の東京オリンピックの頃からだ。(中略)そして、晴れて、わが家にもカラーテレビが入る日がやってきた。昭和42年の1月のことだったと思う。忘れもしない、「ウルトラマン」の“まぼろしの雪山(伝説怪獣ウー)”の回(※筆者注・「まぼろしの雪山」の回は1月ではなく2月5日放送)からカラーで観たのだ。
(泉麻人著「泉麻人の僕のTV日記」)


 泉麻人の家は「上流家庭の下」、もしくは「中流家庭の上」という、それなりに裕福な家庭だったので、1967年初頭、というのはかなり早い時期だったのではないか、と思うのですが、それでも翌1968年には中の中くらいの家もカラーテレビを購入していたのでは、と想像出来ます。
 ちなみにウチは、アタシが赤ちゃんだった頃の写真を見ると一枚だけテレビ受像機が映っており、母親にその写真を見せて確認したところ「結婚した時にカラーテレビにしたから、これはカラーで間違いない」とのことでした。

 ↑の赤ちゃんがアタシです。ってどうでもいいけど、とにかくウチは中の下から下の上でしたが、ま、ウチは極度の新し物好きの家系なんでね、統計としてはまったく役に立たないわけで。

 うーん、どうも、難しい。当時の統計も怪しいし(ま、カラーテレビを買ったからと言ってモノクロテレビを処分するわけじゃないんだからこういう数字になるのかもしれないけど)、ウチにしろ泉麻人のところにしろ、個々の例としてはあんまりふさわしくない。
 何か、良い実例がないものか。
 たとえばです。後年の目からモノクロからカラーをはかる手段として、ニュース映像が比較的わかりやすいし、わりと正確性もあると思う。
 では1968年に起こった大事件と言えば、アタシはこの3つを挙げる。

・金嬉老事件
・新宿騒乱
・三億円事件

 ただ、これらの事件にかんする、現在見られるニュース映像は、例外はありますがほぼモノクロです。
 モノクロというだけではなく、VTRではなくフィルム映像というのも特徴ですが、ニュース映像がモノクロからカラーに切り替わってからもフィルム収録はかなり後々の時代まで続きました。
 たとえば1970年代後半のプロ野球ニュースなんかでもフィルムで撮影したものを使ったりしてたんです。
 今考えると撮影→現像→編集までを試合終了から放送までのほんの短い時間でやってたってことになるんだから、すごすぎる話ですな。(記憶では8、9回はさすがに間に合わないのか映像がなかったと思う)

 完全にフィルムを使ったニュース映像がなくなったのは、たぶん1980年代に入ってからでしょう。
 これにかんしてはさすがに記憶があるけど、正直良かったなぁと。フィルムっつっても16ミリと思われる、やけにくすんだ粗くて暗い映像だったし、雰囲気とか関係ないニュース映像やスポーツ映像はツルンとしたVTRの方がいいに決まってる。
 ただCMにかんしては、VTRよりフィルムの方が良かった。VTR撮影のCMってものすごく安っぽかったんですよ。つか予算がなさそうな、例えばラブホとかね、そういうところしかVTR撮影のCMはやってなかったし。
 今はもう、映画はともかくCMなんかでフィルムを使ってるのなんてないんだろうな。よく知らんけど。
 脱線が過ぎたので、さすがに元に戻します。
 つまり、流れとしては「モノクロフィルム→カラーフィルム→カラーVTR」となるわけですが、もちろんモノクロVTRがまったくないかというとそういうわけではなく、現場からの生中継を録画したもの、それこそ金嬉老事件などはモノクロでありながらVTRでも残っているのです。

 さて、1968年、という年の象徴的な場所といえば、もうこれは新宿になってしまうわけです。
 そして1968年新宿といえば、同時に「フーテン」「昭和元禄」「騒乱」「長髪」「フォークソング」なんてワードも浮かんでくる。
 そういや「特別機動捜査隊」(「特捜最前線」の前身となった刑事ドラマ)の映像から、時代が表出している箇所をピックアップして、某YouTubeにアップしている人がいました。(現在はアカウントごとなくなっている)
 大半が1970年前後の映像ですが、これがなかなか面白かった。んでドラマの内容が内容なんで、新宿は何度か取り上げられていました。
 映像で見る限り、そこまで今の新宿の光景と変わらないのですよ。とくに西口の、小田急百貨店と京王百貨店の辺りは、地上も地下も、ほとんど変わっていない。むしろ東京の繁華街でここまで変わってないというか、一発で「あ、あの辺りだな」とわかる場所は珍しいレベルです。

 しかし、雰囲気はまるで違う。銀座にしろ渋谷にしろ、変わったとはいえ、たかがしれている。でも新宿にかんしては、極端な話、ガイコクとニホンくらい違う。
 それは時代が変わったからじゃないんですよ。これより少し後はもちろん、逆にもう少し前の方が今の新宿の雰囲気に近い。つまりこの頃(1967~70年)の新宿は新宿という街の歴史の中でも特異な時代だったんですね。

 この年に起きた新宿騒乱ね、映像は残ってるけど、さっき書いたようにこの時代だからモノクロのフィルム映像ですが、フィルム映像って良くも悪くもファンタスティックになってしまって時代が消えちゃうんです。
 ところがこのニュース映像は違う。フィルム映像なのに下手なVTR映像より生々しく迫ってくる。それはファンタスティックになっちゃうフィルムでも抑えきれないくらいナマっぽい感じだった証拠だろうと。
 いや、逆にカラーのVTRなんかだと、あまりにも生々しすぎて直視できないかもなと。
 時代にパワーがありずきるのも考えもので、先ほど書いたようにこの年起こった金嬉老事件は生中継で様子が伝えられた。
 生だからフィルムのようなファンタスティックな感じはないのは当たり前だけど、それでもモノクロってのは救いにはなっていたと思う。

 これが4年後、つまり1972年のあさま山荘事件になるとカラーになる。テレビ番組のほぼすべてがカラー制作になる1973年の前年です。
 アタシはまだ3歳だったから当然憶えてないけど、映像を見る限り綺麗なカラーVTRで、質感だけじゃなしに映像そのものも、青い空と白い雪のコントラストが見事で実に美しい。
 その美しい光景で繰り広げられているのは、何とも生々しい事件なわけで、視聴者を惹きつけたと同時にある種のトラウマをも産みつけたのも当然です。

 何の偶然か、これ以上のスケールの生々しい立て篭り事件は以降日本では起こっていない。西鉄バスジャック事件も、生々しいとはちょっと違ったし。
 何だか時代が「おい、こんだけ綺麗で精細で生々しい映像が映せるだから、下手なことするなよ」といってる感じすらある。

 そう考えたら、1968年は凄惨で生々しい事件が成立する最後の年だったのかもしれません。いや成立といえばおかしいのはわかってるけど、当時はともかく、後の時代までトラウマを引きずる人を生み出すことを回避して神話化できた、とでもいえばいいのかな。
 その年に生まれたアタシも、最後の神話時代の生まれなんかね、と思ったり。
 ここらでPage2に続きます。